4
時刻は16時半を回ったところだった。真人は一人、廊下を歩き図書館に向かっていた。
真人達が通う学園は、それほど大規模とはいえないまでも、その地域を代表する進学校である。それ故、学力向上に役立つ図書館には、規模に見合わないぐらいに力を入れていた。
校舎外の建物に専任の司書を二人雇い、休日は一般人にも開放している。だから、休日にはそれなりの入館者がいるのだが、学園側の思惑とは裏腹に平日の利用者は少なかった。
(この時間なら、人もいないだろ…… )
人が少ないと云う事は、対応が減る分だけ司書に余裕があると云う事だ。それならば、秀明が昼頃に返却した本の整理も終わっている可能性が高くなる。そんな目算を真人は持っていた。
「── 待ってよ~ 。お兄ちゃん! 」
HRが終わった後、真人は時間潰しがてら、しばらく教室で待っていたのだが、生徒会役員である瑞穂は戻ってこなかった。
これだけ待ったのだから後で文句も云わないだろうと、真人は教室を出てきた。そのすぐ後に瑞穂は戻ってきた。そして、教室に真人がいない事を知ると、走って追いかけて来たのだった。
ハアハアと息を弾ませて、瑞穂は真人を呼び止める。
「生徒会役員が廊下を走るなよ」
「そんな事云ったって、お兄ちゃんが置いていくのが悪いんじゃん」
「お前な。…… ま、もういいか」
瑞穂が何を云っても、真人の云い分が正しい。それは分かっているのだが、感情を優先させる傾向がある瑞穂に、理詰めでいくと面倒になると真人は知っていた。
「そっ、どーせ誰も見てないしね♪ 」
「その発言はどうかと思うがな…… 」
「いいの、いいの、私とお兄ちゃんの仲じゃない」
(それこそ関係ないじゃないか…… )
適度にツッコまなければスネる。だが、ツッコみ過ぎればキレる…… 何年も一緒に暮らして、真人が身に付けた塩梅だった。只の友人関係なら、面倒臭いと感じるかもしれないが、家族であるならそれも悪くない。真人は笑いながら図書館に向かって、再び歩を進めたのだった。
「── んっ! 」
図書館の目の前まで来た時、真人は違和感を覚える。
「どうしたの? 」
真人とは違い、瑞穂は何も感じていないようだった。
「否、何でもない…… 」
その違和感は凄く小さいものだった。だから、真人も気のせいだと思う事にした。
だが、もし瑞穂が真人と同じように違和感を感じていたなら、この先に起こる事は回避出来たかも知れなかった。
キィ…… 入り口のドアから金切り音が鳴る。
(これは…… )
図書館の中に入ると、真人が感じた違和感が強くなる。そしてこうなると、瑞穂も何か変だと感じ始めていた。
「…… お兄ちゃん──。これ…… 」
「ああ、お前は外に出てろ」
「で、でも、お兄ちゃんは? 」
瑞穂の問いに真人は考える。
この雰囲気は一言で云えば『異質』なのだ。危険なのかどうなのか判断がつかない。君子危うきに近寄らずを考えれば、瑞穂と共に引き返すのが正解だが、間違いなく中には人がいる── その人達の確認をしない訳にはいかない…… そう真人の思考は至ったのだった。
「とりあえず様子だけは確認してくる」
「じゃあ私も…… 」
着いていくと云う前に真人は、瑞穂を手で制した。
「瑞穂、この状況をどう思う? 」
「どうって…… 変としか…… 」
「だろ、変なんだよ。危険かどうかも分からない。だから、残ってほしいんだ。
── 5分かな…… それで戻らなかったら、誰でもいいから呼んできてくれ」
平然と云われれば、瑞穂に返す言葉がない。どうでも良い事なら、瑞穂の希望を優先させる真人だが、稀にそれ許さない時があった。そして、今の顔は折れないときの顔だった。
「もし危なかったら、首を突っ込まずに必ず戻ってきてよ」
「俺はそんな無茶しないと自負してるぞ」
確かに真人は、無茶を仕出かすような性格ではない。寧ろ、その危険性が高いのは瑞穂だ。
それぞれのタイプを簡単に表せば── 緊急時でも、真人は『石橋を叩いて渡る』が、瑞穂に関しては『石橋を叩くのを忘れて渡る』一般人タイプといえる。
「そりぁ、分かってるけど…… 」
「大丈夫、様子を見るだけだよ。待機は飽くまでも保健だ」
瑞穂の頭をクシャと撫でて、真人は体の向きを変える。そして、そのまま真っ直ぐ歩き出した。
傍目で見れば不自然なところは何もない。だが、真人は必死に動揺を隠していた。
(── こりゃ、マジでヤバいかもしれんな)
図書館に入る前から気付いていたように、真人の感性は鋭い。そして、その鋭い感性はこの異様な雰囲気の中にある悪意を確かに感じていた。
(問題は、この悪意が誰に向けられたものなのかって事と、この異質の正体だな…… )
真人はなるべく音をたてないように、それでいて素早く移動した。
真人が自分で決めた猶予は5分なのだ。この図書館全部を見て回る必要があれば、簡単に過ぎてしまう。もっと余裕をもった時間設定をすれば良いと思われるが、予期せぬ事態が起こってしまっている場合、時間との闘いになる。それを見越しての時間設定だったのだ。
(─── チッ! しまったな)
書庫に繋がるドアの前まで来た時、真人は自分でミスをしていた事に気付く。
(様子を見るなら、まず窓から確認すれば良かった…… )
いつもの真人なら、まず間違いなくその行動を取っていただろう。だが、悪意にあてられたのか、冷静ではいられなかったのだった。
(── 戻るか……。否、その時間で取り返しがつかなくなったら元もない)
歯車というものは、一旦外れると中々戻らない。これを負のスパイラルと云うのだが、今の真人に吹く風は向かい風であった。
意を決してドアをそっと開ける。そして中を覗き込むが、そこからでは何も見付ける事が出来ない。
(── 人の気配はない)
どんなに少なく見積もっても、司書が一人いるはずである。そして真人は、幼い頃から剣術の修業を積んできている分、気配を読む事に長けている。多少広い空間だとしても、気配を感じられないなんて有り得ない事だった。
(── と、いう事は気絶しているか。そうなると…… )
入り口付近で立っているだけでは、埒があかないと真人はカウンターに向かって行った。
人の気配がない事で、真人は少し落ちつきを取り戻していた。
真人にとって、最も怖いのは人の悪意だった。人の悪意がこの異質を創り出していたとすれば、それは現実の力だ。だから怖い…… しかし、超常現象であるなら、この異質を創り出してもおかしくない。理解出来ない恐怖はあったとしても、理解出来るようになればそれは恐くなくなる。
そして理解が出来た時、その悪意が自分に向けられたものなら、その時改めて怯えれば良い── 真人はそう考えていた。
原因究明をしている時間はない。だから、一人でも安否確認出来れば、真人はすぐに瑞穂の元に戻り助けを求めに行くつもりだった。
だが、あっさりとその計算は崩れる。
「─── っ! 」
気配はおろか、何もないところから手が伸びてきて、真人は足を掴まれる。
掴まれたのは足だが、その驚きに真人は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
(何だ──。これ…… )
それは紛れもなく人の手だった。だが、真人はそれが何だか分からない。なまじ気配を探る事が出来る事で、その目に映る真実が信じられなくなっているのだ。
ただ、その足に掛かる圧力は現実にある。真人は混乱による恐怖で、生まれて初めて金縛りを体験したのだった。
(冷静に、まず指一本動かせっ! )
恐怖で身が竦むなら、元凶を忘れてしまえばいい…… 真人は指を動かす事だけに、全てを集中させた。
そして、その人指し指に神経が戻るとき、呪縛は解かれたのだった。