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「じゃ、行ってきます」
「行ってきま~す」
玄関先で、見送りに来た美沙に向かって 二人は云う。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
美沙はいつものように、笑顔で二人を送り出す。そこには先ほどあった陰りはない。だから、真人と瑞穂も何も気付かずに家を出ていく。
そして、真人達が戻ってこない事を確認した美沙は、リビングに戻り自分の席に座る。
(気付かれてないよね… )
冷めたコーヒーを口に運ぶと、美沙の口の中に苦味ではなく、渋味が広がる。
「マズっ」
冷めたコーヒーは、心を落ち着かせる薫りも飛んでしまっている。普段なら、ここまでマズさを感じる事はないだろう。
美沙は、ざわめく自分の心を抑えつける様に、残ったコーヒーを飲み干した。
「あそこに戻るのか… 」
シンクにカップを置いて、エプロンを外す。
(帰ってくるんだから、洗い物は後でいいよね)
瑞穂は作るだけ作って、一切の片付けをしていない。
(我が愛娘ながらこれはね。もう一寸、色々教えないといけないわ)
いつもの作り笑いではなく、本当の笑顔を見せる美沙。そして、そのまま家を後にしたのだった。
◆
真人と瑞穂は、学校に向かって歩みを進めていた。そして、二人が通う高校で彼等は有名であった。だから、通学路を歩いているだけで注目されるのは、日常茶飯事、慣れっ子になっていた。
「見て、神城先輩と結城先輩よ」
「ちくしょー、あの二人付き合ってんだろ」
真人も瑞穂も美形に属する。しかも、一緒に暮らしている事は周知されている。
毎朝並んで仲睦まじい姿を見させられている者達からすれば、この程度の注目など当たり前の事なのだ。尤も、美沙はこの様な状況を危惧し、真人と違う高校に行く事を薦めていたが、瑞穂が頑として受け入れなかった。そして、真人も別にどっちでもと興味を示さなかった為、やっかみを受けたとしても仕方がないと割り切っている。
幾ら二人が兄妹の様な関係であっても、世間ではそうは見てくれないものなのだ。
「見てよ、お兄ちゃん。また有象無象が騒いでいるわよ」
小声でそう云う。
「お前な… 」
ただ瑞穂の場合、度が過ぎた注目に苛立っているらしく、よくこの裏バージョンになっている。その度、真人に耳打ちする為、より仲良く見えている事に本人は気付いていなかった。
「神城真人、勝負しろやっ! 」
「またか… 」
剣道の武具に身を包み、その手に竹刀を持った男が校門の前で立っている。
「良雄。もう諦めてくれないか? 」
「何故に? 」
「お前、俺に21連敗中だろ。今更、俺が部に入っても、試合に出られる訳じゃないし… 」
真人は高校3年だ。部活に入ってもすぐに引退になる。
「否、部活はもはやどうでもいい。しかし、瑞穂ちゃんの件がある」
「その件もお前、本気じゃないだろう」
何故、こんな事になっているかと云えば、理由は二つあった。第一の理由は、今、目の前に立っている〈猿渡 良雄〉が、真人を剣道部に誘った事になる。
今から二ヶ月前になるが、瑞穂が他校の生徒に絡まれた事があった。その際、真人はあっさりと撃墜したのだが、次の日に他校の生徒は十人以上を引き連れてきた。
良雄は、たまたまその場を通り掛かったのだが、その時に目を疑うものを見た。真人は顔色一つ変えずに、落ちていた木の枝で十数人の相手をしていたのだ。
剣道を始めて10年になる良雄は、真人の動きに一瞬で心を奪われた。一つ一つの動きが洗練されていて、レベルが違う。その動きは剣道ではなく、剣術の様だったが、一ヶ月も剣道をやれば全国制覇も可能だと思った。そして、良雄の行動力が発揮される。次の日から真人に勧誘ラッシュを始めたのだ。
だが、当然ながら真人は、良雄を相手にしなかった。理由は面倒くさいからと云った。
良雄はその気持ちを理解する事が出来たが、自分が求めている才能を持つ者が、その道にまったく入ってこないのは許せなかった。
だから意固地になったのだろう。良雄はあらゆる手段を以て、勧誘を続ける。その中に瑞穂を通して、勧誘すると云う方法があった。
ここからが二つ目の理由だ。
彼女と云われている瑞穂の頼みであれば、真人も断らないと踏んだ良雄は、必用に瑞穂を追い掛けた。それは、端から見れば単なるナンパだった。良雄にしてみれば、話しを聞いてほしいだけの行動だったのだが、瑞穂にしてみればたまったものではない。だから、条件を出した『真人に勝ったら、話を聞く』と。
そして、その条件は少し時間が経つと『真人に勝ったら、瑞穂と付き合える』に変わっていた。と、同時に真人に勝負を挑む男子が増えた。条件に何で勝ったらと云うものがなかったので、挑まれる勝負は様々だったのだが、真人は兎に角強かった。少しでもかじった事があるものなら、その場で勝負して勝ち。まるで知らない事なら、一日勝負を先伸ばしし、その一日で覚えて勝ってしまう。
噂が広がってから、二週間で真人に勝負を挑む者は、ほぼ居なくなっていた。
「本気だよ。お前に勝てば瑞穂ちゃんに話を聞いて貰える。そうすれば、お前の考えも変わるだろ」
「い、いや、部活はもういいんじゃないのか? 」
「ん、ああ、そう云ったな… ん、あれ? 」
この時、真人は良雄の本質に気付いた。
(コイツは悪いヤツじゃない、一寸頭が弱いだけだ)
本気で悩み始めた良雄をその場に残し、真人と瑞穂は学校に入っていった。
「ぎゃははは、腹痛え。災難だな真人」
昼休みの屋上で、〈川上 裕司〉の笑い声が響く。
「笑い事じゃないんだが… 」
「にゃはは、でも猿渡だろ。アイツ馬鹿だが、面白いヤツだぞ」
「そう云えば裕司君、同じクラスだよね。あの人どんな感じなの? 」
ブ○ックのパックジュースを啜りながら、瑞穂が云う。
「どんなって云われてもな、馬鹿だけど良いヤツで、おもろいかな」
「ベタ慕めね」
「否定要素が少ないだけだよ。もっと詳しい話が聞きたいなら、秀明に聞けばいいよ」
裕司はまだこの場に来ていない、もう一人の友人の名前を出した。それに反応したのは真人だった。
「秀明と良雄って仲良いのか? 」
「意外ね。対極な二人って感じなのに」
「対極だから、気が合うんじゃねーの。俺と真人だって似たようなもんだしな」
真人と裕司は、中学からの親友だった。優等生の真人と劣等生の裕司。確かに対極にいる二人だが、出会った時から、言い合いなど一度もした事がない。喧嘩する程仲が良いと云うが、喧嘩しなくても仲が良いケースもある見本だった。
「で、秀明は? お前ら同じクラスだろ」
「本を返しに行くってさ。もうすぐ来るだろ」
「ふ~ん、そっか… 」
裕司は自分から、振った話にも関わらず興味なさげにしている。しかし、真人にはその姿が少しだけ不自然に見えた。
「裕司? 」
「いや~、参ったわ。購買行ったら、あんパンしか残ってねぇ。何か食うもんある? 」
その時丁度、〈伊佐美秀明〉が屋上にやってきた。それで真人は言葉を呑み込んだ。気にはなっていただが、些細な事なのだから、追究するまでもない。そう考えての判断だった。
「サンドイッチならあるわよ。食べる? 」
「さんきゅ、助かるよ」
そう云って、秀明は真人の横に座ると、瑞穂のサンドイッチをパクついている
「随分、遅かったな。何かあったのか? 」
裕司が秀明に聞く。
「んにゃ、図書室へ本返しに行って、購買行っただけだ」
「そっか。ところで何の本を借りてたんだ? 」
「ん、下らない本さ。タイトルが『異世界黙示録』だぞ。内容も、見知らぬ森で美少女に出逢うようなありがちの話なんだが、パラパラ見てたら、つい借りちまった。結局読まずに返す羽目になったから、無駄骨だったよ」
真人は「えっ」と声をあげた。
「ん、どうしたんだ神城? 」
「い、いや、一寸な… 」
珍しく口籠る真人に、秀明は興味を覚える。
「何だ、話ちまえよ神城」
ここから、秀明の追究が始まったのだった。