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「…… あれ? 」
真人の額に大粒の汗が溜まっていた。気候は良好で暑い訳ではない。そして歩いたから体が熱を持ったという訳でもない。
自信を持って歩いたにも関わらず、目的地に着かない上に自分の居場所すら見失ってしまった焦りからくる汗だった。
…… これは遭難したのではないだろうか。
向こうで遭難したのであれば救助を待つという選択もあるのだが、ここではそれは期待出来ない。
「結局、夢と同じか」
嫌な正夢もあったともんだ、と自嘲してみても虚しさが増すだけだ。
さてどうしたものかなと、真人は考える。朝見た夢ならこの辺で不思議な声が道標になってくれたのだが、今のところそのような声は聞こえない。
「ったく、正夢なら最後まで責任を持てよ。妙な声なら大歓迎だぞ」
(妙な声とは我でも良いのか? )
「あ、そうか。なるほど、確かにいたな」
(お前、我の事忘れていただろう)
目まぐるしく変わる状況に、ジンが云う通りすっかりとその存在が頭から抜け落ちていた。
「まあな。でもまあ、助けてくれるならありがたい」
(にべもなく云うな。全く、お前という人間が分からんぞ)
「そりゃあお互い様だろ。俺にしてみりゃ、お前の存在自体がよく分からん」
精霊という事は分かっているが、幻想文学で得た情報しか真人にはない。
その精霊である事もジンは意図して隠していたのだ。何も知らないに等しい。
「んでもって、お前は何も話すつもりはないんだろ」
(随分と物分りがよくなったものだな)
「はあ? 昔からこんなもんだと思うがな。でもまあ、お前と美沙さんの関係は気になるかな。知り合いなんだろ、お前達は」
無限軌道で美沙は「迷ったらジンを頼れ」と、真人にアドバイスを送った。
真人は美沙にジンの事は一切話していない。精霊と契約している事は真人の知らない美沙が持つ情報があったとしても、ジンという固有の精霊とは知り得るはずがない。その上で固有名詞を出してきたという事は、ジンという精霊を知っているという事に他ならなかった。
(あんなのと知り合いだと思われるのは心外だ)
「心外も何も自分で認めるじゃないか」
その呟きにジンは耳ざとく反応した。
(知り合いだったら何だというのだ)
「いや、そうだったらシリアの居場所を知らんかなと思ってな。
全ての始まりはアイツだ。まず会うべき人物なんだろ」
(始まりねぇ…… 残念ながら我には分からぬな。ここを離れてから時間が経ち過ぎた)
真人にはジンが何を見ているのかは分からない。それでも、遥か遠くをジンが見ている事を感じる。だからだろうか、まじめに答えずる茶化すような返答をしたのだった。
「ったく、使えねぇな」
(やかましい。だったら一つ使える情報をやる)
「へぇ~、興味深いね。是非とも頼むよ」
(そうか…… 我の記憶が確かならこの森には一寸やっかいな連中がいてな。それがお前に狙いを付けた―― こんな情報はどうだ? )
ジンの言葉と同時に周りの木々が揺れる。そして、決して大きくはないが複数の殺気が真人に向けられたのだった。
「―― なるほど、物騒な事で。で、これは一体何なんだ? 」
(魔犬だよ。個々としてはそれほどの力ある存在じゃないが、群れを作り連携を取る。
幸いにも大きな群れではないみたいだが、今のお前じゃ餌になり兼ねんな)
「それでも逃げろとは云わないんだな」
ジンが撤退を提案しない理由は分かっていた。
地の利もなく既に包囲されている。この状態で撤退を選択すれば追い詰められるだけだからだ。
(ああ、応戦一択だな。ただ、応戦し続けるのは愚の骨頂だ。
お前は複数を相手取る戦闘経験がないのだから分かるな)
快楽を得ようとする存在と生を得ようとする存在では狩人として気概が違う。街中で格下を複数相手取った経験など無いに等しい。
「逃げる為のドアは重いか」
飛び出して来るであろう魔犬に備えて真人は右手に力を溜める。
ジンの力を自在に扱えればこの程度など危機でも何でもないのだろう。しかし、真人が使えるのは散発的なものだけである。連発させる為のイメージを創り出せる技量はなかった。
ざわりと小さな殺気が膨れ上がる。
(来るぞ、真人っ! )
五つの影が同時に飛び掛かるが、真人は右手に溜めた力を解放させずに迫る魔犬を交わす。
幾ら同時に飛び掛かってきても実際の攻撃には差異が生じる。それを見切る事が出来たのは真人が窮地であれ冷静であったからだ。
一つ、二つ…… 交わせば交わすほど魔犬の攻撃は激しさを増す。だが、攻撃が激しくなればなるほど魔犬の連携は崩れ隙は大きくなる。そして五匹の内、攻撃が緩んだ一匹に向けて真人は反撃に転じた。
「キャインっ! 」
魔犬と云えど鳴き声は普通の犬と変わらないようだ。
真人が放った一撃は、魔犬の腹部を捉えその体を上空へ跳ね上げる。そして、真人の目の前には一本の逃げ道が出来上がった。
そのまま残った魔犬を背にして全力で走り抜ける。
連携が取れている分、仲間の離脱は魔犬に一瞬の動揺を与えている。研ぎ澄ました神経は魔犬の攻撃を交わす運動能力を真人に与えたが、そんなのは長続きするはずがない。この機会を逃したら、もう一度チャンスを得る事は出来なかっただろう。
だが―――
「チッ、しつこい」
後ろを振り向く事なく木々の間を走り抜ける真人。その後ろからピタリと一定の距離を取り、魔犬は真人を追ってくる。
「流石に狩りの仕方を熟知してやがる」
野生の獣は狩りをする時、逃げる獲物に攻撃を仕掛ける事はない。獲物が逃げる事を止めるまでじっくりと追い続ける。じわりじわりと獲物の気力が尽きるまでただ追ってくる。
これは期待薄だな—―― 真人は何の目算もなく逃げていた訳ではない。走り抜けた先に人がいる場所があれば、魔犬は近づかなくなると考えていたのだ。だが、魔犬は止まらず真人を追ってくる。それはこの先、しばらくは狩りの邪魔をするようなものはないという事なのだろう。
逃げるだけ無駄なら――― 真人は逃げる足を止め踵を返した。
体力はだいぶ消費したがまだ足掻くぐらいは出来る。迷って逃げ続けて好転しないのなら、ここで迎え撃つ方が助かる可能性はある。
「一匹づつ確実に潰す」
魔犬には戦術や戦略などというものはない。本能のまま効果的な狩りを行うだけなのだから、想定の範囲外の出来事には対応が遅れる。まだまだ逃げる気力の尽きていない獲物が、噛みついてきたのだから魔犬は迷って動きを止めていた。そして、真人はその迷いをついて拳を魔犬に叩きつけた。
(一匹目っ! )
声を上げる事なく魔犬は事切れる。右拳に嫌な感触が残っているが、それでも真人は次の獲物に目を向け絶望した。
攻撃対象から外れていた三匹の魔犬は、一匹が倒される僅かな間に立ち直っていた。つまり、獲物が逃げないのなら攻撃を仕掛けるという本能に従って行動を起こしていた。そして、真人が視線を魔犬に向けた時には魔犬の牙は目の前に迫っていた。
同時三方向からの攻撃に対処する方法は真人にはなかった。鼠が噛みつける猫は一匹だけだったのだ。
(クソっ! )
「ここまでか」
諦めかけた瞬間に目を疑うような出来事が起こった。
真人に襲い掛かった魔犬は、全て炎の矢に射抜かれて地面に縫い付けられ絶命していた。
「決断力は称賛に値するけどまだまだ、もっと自分の実力を知らなきゃダメね」
そして、真人の前に立つ赤髪の人物――― それが『スティゴールド・ミルレーサー』との出会い。
真人のセルディアでの運命を変える出会いだった。




