6
薄暗くなってきた窓の外では、ちらちらと粉雪が舞っている。
この地方は滅多に降雪が無いらしい。まだ日が高かった時間帯には、通りから、うっすらと積もった雪にはしゃぐ子供の声が聞こえてきていた。
ノエルの夕暮れ時、キッチンで、ローズはしょんぼりとしていた。
膝元に抱えていた小箱をテーブルに置くと、溜め息をついて立ち上がる。
コンロの弱火にかけた鍋に歩み寄ると、灰汁をすくう。今夜のメインは牛肉と人参の煮込み。
そろそろ、ニンジンとトマトペーストを加える頃合いだ。
用意していたボウルを手にした時、いい匂いですね、とキッチンの入口からエドモンの声がした。
「後、一時間ちょっとで出来ます」
ローズが告げると、楽しみだ、と執事は青い目を細めた。
エドモンは誘拐事件があった日の午後九時過ぎ、C六号とアパルトメントに帰って来た。それ以来、シェリフ付きの執事として〝リア〟の後を引き継いでいる。
本物なだけあって、リアとは又違った風情に洗練された執事だった。ブラウンの髪に少し白い物が混じり始めているが、隙の無い身のこなしをする。
主人に指示されれば荒事もこなしてしまうようなので、最初の対面時、ローズは気後れしていた。
だが、それがマーニュ家の執事であり、プライドを持って臨んでおり、全て含めて大叔母は彼を愛したのだろうと思い直せば、わだかまりは薄れてきていた。
ローズが淹れた紅茶を、あぁ美味しいですね、と幸せそうに飲む。日常は優しく、落ち着いた紳士だ。
「チョコレートムースは、もう出来てますよ」
シェリフと違って甘党らしいエドモンに、ローズはボウルを一旦置いて冷蔵庫を見る。「たくさん作りました。召し上がりますか」
「魅力的な提案ですが、夕食まで我慢します」
分かりました、と笑って、ローズはボウルを再度手にする。鍋に中身を追加する背後で、おや、と低い呟きが聞こえた。
鍋の中を軽く混ぜて馴染ませ、火加減を調節してからローズは振り返る。ワイシャツにネッカチーフとジャケットというすっとした立ち姿で、エドモンはテーブル上の小箱を見ていた。
元は大叔母の物だから、見覚えていたのか。
微かな罪悪感に襲われ、ローズは肩を落とした。
「ついさっき、気づいたんです。それ、ネジが、取れかけていて……」
「オルゴールですよね。蓋を開けると鳴り始める」
「はい。お鍋を見ながら、聴こうと思ったんですけど……」
エドモンが思い出を包むように小箱を手にするのを見ながら、ローズはしゅんとした。「この前、家探しされた時に、放り投げられたみたいで、床に落っこちてたんです。ぱっと見、何処も傷んでないみたいだったから、ほっとしてたんですけど……」
「あぁ、これか……少し歪んで、亀裂が入ってしまってるようですね」
「ネジを巻こうとしたら、パキンて折れそうになって……これ以上弄ると完全に取れてしまいそうでしょう?」
小箱を裏返して見ていたエドモンは一つ頷く。
「こういうのは、もう、得意な人に見せるべきですね」
「この辺にオルゴールの修理屋さん、居るんですか」
ローズが救われる心地で身を乗り出すと、エドモンは思いがけず、茶目っ気たっぷりにウインクした。
「柄にも無く、ノエルのプレゼントを贈るべきかなどと迷っていらしたから丁度いい。しっかり直していただきますから、安心してください、マドモワゼル」
そう言って、エドモンは小箱を手に、弾むような足取りで階段を上がって行った。
一時間程して、C六号が一人でキッチンにやって来た。
誘拐されて帰って来てからは、大概、ワイシャツにネクタイ、ベストとスラックスという出で立ちだ。どうもエドモンの見立てらしい。
少し声質を調整されたようで、C六号はローズの頭上で耳に心地好い低音を紡いだ。
「マスタが夕食に、エドモンとローズを招待するそうです。三人分だから、ローズを手伝うように言われました」
「あら……」
一人分の皿にジャガイモのバター煮を添えていたローズは、執事修行に入っているアンドロイドを見上げた。「じゃあ、食器をもう二人分、出してくれますか」
解らない時は解らないと言うようにプログラムしてあるとのことだが、ローズは慎重に告げる。はい、とC六号はすんなり応じ、食器棚を開けた。
「Cさんも食べられたらいいのにね」
「ローズの料理は温かい。わたしは好きです」
どういうプログラムになっているんだろう、と思いつつ、ありがと、とローズは頬を緩める。
「そういえばエドモンさん、さっき急いでお出かけになったけど、もうすぐお戻りになるんですね?」
「夕食までには戻ると言ってました」
オルゴールを修理に出しに行ってくれたんだろうか。ノエル当日にそんな店が営業しているとすれば驚きだ。もう日が暮れていたし、急がなくても良かったのだが……直してくれる所があるだけで、ありがたいから。
料理の盛り付けが終わり、盆に乗せてC六号とキッチンを出ると、タイミング良く鍵音がして玄関が開いた。エドモンが紙包みを手に、白い息をこぼして入って来る。
おかえりなさい、とローズが安堵も込めて言うと、やぁ、ようやく夕食の時間ですね、とエドモンは破顔した。
「材料を調達できました」
紙袋を掲げ、執事は階段へ率先して行く。「坊ちゃんのことですから、明日の朝までには直っていますよ」
「え――もしかして、オルゴールですか」
「坊ちゃんはこういうの、得意ですからね」
言われてみればそうかもしれないが、主にそんなことをさせていいものなのか。ローズは少々当惑して執事の背中を追う。
二階に上がった所で、三階から降りて来たシェリフと出くわした。揃った? と青年が問えば、執事は首肯して紙袋を見せ、三階へ上がって行く。
何と言えばいいのか判らずにいるローズを尻目に、ラフな深緑色のセーターを着たシェリフは、のんびりとリビングへ足を向ける。
「材料があれば、あの程度なら直せる。一晩待って」
はい、としか言えずに、ローズはC六号と後に続く。
リビングの簡易暖炉には小さく火が灯っていた。薪の燃える独特の香が微かにしている。
テーブルとワゴンに料理を並べている間に、エドモンも来た。
三人共席に着くと、C六号がゆっくりとした動作ながらも給仕をこなす。シェリフもエドモンも旺盛な食欲を見せ、報われた気分をローズにもたらしてくれた。
和やかに、食事のひと時が過ぎて行く。
どうやら先日、面倒事も片づいたろうしノエルには戻って来たらと、アルベールから電話があったらしい。
「来年の頭ぐらいまでこっちに居ると言ったら、〝へぇーえ、そーお〟だって。どうも父さんの含む物言いは難しい。昔から、時々理解できない」
「Oya-no-Kokoro-Ko-Shirazu、というヤツでしょう」
さらっと聞き慣れない言語をエドモンが口にした。シェリフは通じたようで、ふぅん? と苦笑する。
「つまり、今回は拗ねているのか?」
「……断定は致しかねます」
「まぁ、いいけどね。どうしても帰って来いとは言わなかったから、その程度だろう」
カトラリーを置くと、シェリフは赤ワインのグラスを手にする。エドモンはナフキンでちょっと口元を拭い、ローズとC六号を順に見た。
「ムース・オ・ショコラ、そろそろいいですか」
「梨のタルトも作りましたが」
「おぉ、それも是非」
「エドモン、甘い物好きだね」
可笑しそうに緑眼を細めてから、思い出したようにシェリフはC六号に目を流した。「C、さっきピアノに入れた曲を再生させて」
はい、とワゴンに行きかけていたアンドロイドは電子ピアノへ向きを変える。マスタの指示が最優先されるようになっている為だ。
ローズが代わりに椅子から滑り出て、デザートを給仕した。エドモンが少年のように嬉しそうな顔で、ありがとう、と受け取る。
ピアノから、ゆったりとメロディが流れ出した。〝悲愴〟の第二楽章。
今宵も耳にした瞬間から、ローズはタイトルらしからぬイメージが浮かんだ。
満ち足りた一日を終え、ふかふかのベッドに入ったかのような……
C六号が弾き始めたのかと思いかけたが、奏でたのはシェリフだろう。電子ピアノだから、弾いた曲の録音と再生ができるのだ。その操作だけして、アンドロイドは戻って来た。
座って、とローズに勧めて、C六号は甲斐甲斐しくムース・オ・ショコラをローズの前に出してくれる。
「オルゴールで聴けない代わりに」
シェリフが静かに言った。「エドモンも、この曲好きだね」
執事は幸せそうに顎を引き、瞼を閉じた。
「喜びが湧いてくると、オレリアが言ってました」
ローズは、すとん、と共感できてエドモンを見る。
そう、〝悲愴〟じゃないのだ――この曲を聴いて浮かぶ感情は。切なく胸が痛むこともあるが、それだけじゃない。温かく震える何かが込み上げてくることが多い。
エドモンは、音に身を委ねるようにして続けた。
「生きていると悲しいことはよく起こるけど、人生って、悲しみだけではないのよね……と、言ってました。第二楽章を聴いていると、とても実感すると」
叔母さん、病室でもこの曲を聴いてたなら……最期まで幸せを見いだしてた……?
ローズには、本当のところは判らないけれど。
おもむろに、シェリフが立ち上がった。ピアノに歩み寄ると、再生していた物を切る。スツールに座り、直接、弾き始めた。
流れ出した旋律は、驚いたことに、先程より一層、美しいモノになっていた。
一音目で、ローズは、星々が煌めく夜空へ浮かび上がった。
銀色の満月をバックにステップを踏めば、懐かしい人達が加わる。
踊り終えて別れの時が来ても、きっと又、会える気がする。約束をして、流れ星に乗って大地に帰る。
地に降りて、夢の時は終わったと思った。けれども大地には、現実を共に生きる親しい人達が居て――
再び、ステップを踏める。今度は、空から持ち帰った星と月の光を纏って。
平凡なアパルトメントで、血の繋がりもない四人で、慎ましく食卓を囲んだだけだったけれど。
生涯忘れられそうにないメロディが心に宿った、ノエルの夜。