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屋敷のシェリフの私室は、ベッドメイクも掃除もしなくていいと言われていた。無闇に入るな、とも。
六十歳間近と思われるメイド長が孫自慢のように語ったところによると、シェリフ・ドゥ・マーニュは所謂、天才らしい。
七歳の頃には理系で大学入学資格を得ており、十歳の頃には超特例でグランゼコールも卒業。その後に大学で博士号も幾つか取得。
何かの特許を持っているとかで、既に生活に困らない程度の収入が定期的に入って来るそうだ。銀の匙を持って生まれ、更に自ら金の鶏を育てたことになる。
私室には機械や工具が溢れているという。
他のメイドの多くは、顔はイイけど生意気、と雇い主の息子を陰で評していた。
又、メイドに手を出した挙句、すぐ飽きてしまい、仕事振りに難癖を付けて屋敷を追い出したと、まことしやかに囁かれていた。それが理由で、アルベールにしばらく屋敷を離れて暮らすよう言い渡されたのだ、と。
ローズが屋敷に来た当初はシェリフも居たようだが、半年後にはアパルトメントへ移ったらしかった。だから、屋敷では面識を得られず、ローズには噂の真偽を判断する機会は無かった。
午後三時、ローズはティーセットを乗せた盆を両手に、アパルトメントの三階へ上がった。
先ず、廊下を左手へ折れ、執事室をノックする。
さほど待たされず、リアがドアを開けた。今日もパリッとした黒のパンツスーツ姿だ。本日はワインレッドのスカーフを巻いている。
「ローズが来てから規則正しくなった」
現在、交代無しで務めているらしい女性執事は、口元を緩めて向かいの部屋へ向かう。
良かったです、とローズは浮かんだままに告げる。
『わたしは、嘘をついてる』
そう言われたあの日から、一ヵ月が過ぎていた。
少しの間、リアが何か言う度、今のは嘘か本当かと考えてしまっていた。だが、やがて馬鹿馬鹿しくなった。
マーニュ家に雇われてから、酷いと思うようなことをローズはされていないから。例え発言の全てが嘘でも、いいかと開き直ってしまった。
何よりこの執事はキビキビさばさばとしたかっこいい女性で、この人になら嘘をつかれても許してしまえると思ってしまったのだ。
シェリフの部屋をリアがノックすると、どうぞ、と返事が来る。執事がドアを引き開け、お茶です、と室内に告げた。
「ありがとう」
部屋の奥で窓を背にし、机上のパソコンに向かっていたマーニュ家の一人息子は、銀フレームのレンズ越しにこちらを見ると、微かに口角を上げた。
リアと似たプラチナブロンドとグリーンの瞳だが、シェリフは父親のアルベールより彫りが深い。十八にして、立派に男性的な顔立ちをしていた。ラフな服装で一日中パソコンの前に座り、完全なインドア生活だのに、体つきもがっしりと逞しい。
初めて面会した時は量を食べそうだと思ったけれど、割に小食な上に肉よりも野菜好き。甘い物もあまり欲しがらず、朝もフルーツ以外の甘味を要求しない。食に関して言えば、結構、変わった人物だった。
リアに率直に感想を漏らしたら、可笑しそうに喉を鳴らしていた。
『ムッシュ・シェリフもわたしも、少しフランス的ではないかもしれない』
そう、シェリフとリアは食の好みが似ていた。初日に好物を訊いたら、特に無い、と異口同音に返してきた。リアには、冷凍食品でも構わない、と、そこはフランスの一般家庭っぽいコトをケロリとした顔で言われた。
ローズが来るまで、リアがシェリフの食事を用意していたらしいが、出来合いの物を電子レンジで温めて出しても文句を言われなかったようだ。
屋敷では、一流シェフが食事を作っていた。生まれつきそんな所に住んでいて、一部の使用人からは〝坊ちゃん〟と呼ばれている若様だというのに、シェリフはアルベール同様に気さくな人物である。
シェリフ様が居ないと貞操の危機に怯えずに済む――安心して廊下を歩けるからいい――と、屋敷ではメイド達がこそこそと話していた。けれど、実際のシェリフは物静かで生真面目そうな青年だ。
今は、ひたすら黙々と、より人間らしいアンドロイドの開発を楽しんでいるそうだ。
その手合いの設備も整っていただろう屋敷を出て、何故わざわざ平凡なアパルトメントで取り組んでいるのかは知らないが、楽しんでいるなら何よりだとローズは思っている。
カップに紅茶を注ぎ、ごく小さなクッキーを添えて出すと、ありがとう、と再度シェリフは言った。声だけは、穏やかに中性的だ。ローズは一礼して、リアと退室する。
屋敷同様に、ローズはアパルトメントでも、シェリフの部屋のベッドメイクと掃除はしなくていいと言われていた。
だからローズの仕事は、自分を含めて三人分の食事の支度とアパルトメントの他の部屋の掃除、洗濯、執事室のベッドメイク、週に二度、市場が立つ度に買い出し。
その内容で、屋敷に居た時より多く給与が振り込まれた。昔、余所で家政婦をした時とは比べ物にならない額だった。
「今日は天気がいいから、わたし達はテラスでお茶にしよう」
執事の計らいで、使用人も午後三時に僅かながら休憩時間を組まれていた。リアの提案に、はい、とローズは喜んで賛同する。
屋敷に居た時は同僚から話しかけられることは滅多に無かったけれど、アパルトメントではリアが何かしら言うので、口を開くことも増えた。時には知らず、笑声を洩らしていることもあった。
アルベールを見かけることはできなくなってしまったものの、精一杯働いて、満ち足りた一日一日が過ぎて行く生活を、いつしかローズは気に入っていた。
巷がノエルムードに包まれていく十二月に入っても、アパルトメントの日常は変わりなかった。
ノエル休暇は好きに組むといいよ、とリアに言われたものの、ローズは帰る場所と言えば屋敷しか無かった。休暇と称して戻ったところで、運良くアルベールを垣間見ることが叶うとも思えない。独りで所在無く過ごすことになるのが、目に見えるようだった。
ここに居ていいですか、とリアに問うたら、こき使われていいなら、と返ってきた。当の彼女は全く自身の家族について口にしない。どうやら、この執事もノエル休暇とは無縁らしい。
そもそも主のシェリフが、帰省するつもりが無いようだった。
ひょっとするとローズが居座るのは邪魔だろうかと、よぎりもした。
けれど、居ていいかと聞いた時にリアが平素とたがうことなく、さっくり諒承してくれたから、気をまわすのはやめた。
あっと言う間に一週間が過ぎた午後三時過ぎ、二階のリビングで、紅茶を間に、ローズはノエルディナーのメニューに希望が無いか尋ねた。
パンツスーツにスカーフが冬の定番衣装なのか、本日も隙無く着こなして、女性執事は品良くソーサーを手にしながら、ふわりと微笑した。
「ムッシュ・シェリフは無神論者で毎年シェフ任せだけれど、後で訊いておく」
「ケーキの類についても訊いておいてください」
「要るかなぁ。まぁ、諒解」
「リアさんも、無神論者なんですか?」
「その通り」
「実のところ、わたしもなんですけれど……」
ローズは、ちょっと笑った。「でもノエルには、いつもと違う料理とかデザートが食べられるって擦り込みのようなモノがあるんです」
「じゃあ、少し時間のかかる物を作ってみたらどう?」
「シェリフ様が何でもいいと言うなら、ソレで」
うん、とリアは頷いてカップを傾ける。ストレートティーを一口飲んで、満足そうな顔をした。
「ローズの淹れる紅茶は美味しいと、ムッシュも言ってた。わたしは適当に淹れていた所為か、香も深みもこれほど出なかったな。貴女が来てくれて良かった」
何でもこなしてしまいそうな執事にそう言われると面映ゆい。
顔をほころばせたローズを、リアはブルーレンズ越しに見つめてきた。
「けど貴女、ボネさんのように勤め続けるつもり?」
不意に大叔母を持ち出された真意が掴めず、ローズはソーサーとカップを手にしたまま、青味がかった瞳を見返す。
リアは、思い返す様子で言を継いだ。
「紹介状からすると、貴女はムッシュ・アルベールの口車に乗せられて、半分は成り行きでメイドになった気がする」
アルベールにそんな感想を持ったことは無かったから、ローズは首を振った。
「助けてもらえたと思ってます。わたし、失業したばかりだったから」
「けど、ボネさんは堅実な人だった。口座には随分貯まっていたと思う。何だかんだ、ローズも質素だし……他にやりたいことは無いの? 預金を元手に何か始めることだってできるよ、きっと」
ローズは、現状にすっかり満足していたのだが。リアのようにバイタリティのある人には、信じられないことなのだろうか。
『生涯をマーニュ家に捧げてくれた』
大叔母を、そう評してくれたけれど――
「叔母さん、縛られてるようでした?」
ローズが呟くように訊くと、リアは頭を緩く振り、毎日楽しそうだった、と応じた。応じたが、何か思い出した風に、目をやや落とす。テーブルにソーサーを置くと、席を立った。
リビングには簡易暖炉と反対の隅に電子ピアノがあって、休日にリアは弾くことがある。いつもローズの知らない曲ばかりだったが、楽譜も見ずに流れるように奏で、執事はなかなかの腕前だった。
リアはピアノに向かうとスツールに腰かけ、電源を入れた。ほどなく旋律を紡ぎ出す。
抑えた音量ながら、耳に届いたメロディに、初めて、聴き覚えがあった。
一音目で柔らかな草地を蹴り、鮮やかに天空へ舞い上がるような気持ちになる。そして雲間を、軽やかに、スキップする――
どうしてか、心震える音の連なり。
「それ――知ってます」
思わず言うと、そう、とリアは手を止めた。
「タイトルも?」
「……いえ」
実を言って、オルゴールでしか聴いたことがなく、ピアノで聴いたのは初めてだった。
オルゴールでは、童話の主人公になれた気がしていた。お姫様になって、一音目でお辞儀をし、王子様とくるくるとダンスをする気分――
「〝悲愴〟第二楽章。ベートーベンの」
リアの唇から出て来た題名に、ローズはややの間、ぽかんとした。違和感を覚えるタイトルだった。
オルゴールを聴かせてくれたのは、大叔母だった。
両親が正式に別れた後、自分はどうなるのか。
不安を口に出来ずに塞ぎ込んでいたローズを膝に抱いて、大叔母は黙って小さな箱型のオルゴールの蓋を開けた。
綺麗な曲、と言おうとして振り仰いだら、とても安らかな顔つきで叔母は耳を傾けていた。ローズも、聴いているうちに嫌なことを忘れられた。
そのオルゴールは、ローズに譲られた遺品の一つでもあった。このアパルトメントにも持って来ていて、自室に置いてある。
「ボネさん、病室でもこの曲を聴いてたから……」
リアは今一度、初めからスローテンポで弾き始めた。
名前を知っただけで、奇妙に印象が変わる。
何も無い荒野で独り、ぽつんとしているような……深い海の底へと、沈み込んで行くような……心細さに、泣きたくなる……
今度は、曲の名が胸に沁みた。
大叔母は、曲名のような何かを抱えていたのだろうか。
このまま勤め続けたら、自分も……?
思考が暗みに嵌まりかけた時、階上で呼び鈴が鳴った。シェリフが茶を飲み終わったのだろう。
リアは速やかにピアノの電源を切ると、仕事モードに切り替わった表情でリビングを出て行く。
ローズも茶器を片づけ、夕食の支度に取りかかるべく階下に降りた。
ほどなく、空のティーセットを持って執事がキッチンに現れ、ノエルディナーもデザートも何でもいいらしい、と主の返答を告げてきた。




