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シェリフ ―Cherif―  作者: K+
Sonata Pathetique 2nd mov.
2/22

 ローズは息をけぶらせ、深呼吸をした。

 フランス西部、M県A市内のアパルトメントは、今朝早くに出て来た同県郊外の屋敷と同じく、古色を帯びていた。白っぽい煉瓦造りの三階建て。

 木製の玄関ドアはダークグリーン。両隣の似たようなアパルトメントのドアはターコイズブルー。だから、ここで間違いない。同色の郵便受けに記された、家主の名前も確認した。

 只今、昼下がり。遅刻はしていない筈だ。

 ボストンバッグの持ち手を握り直し、ローズは息を吸い込んでからベルを鳴らす。

 すぐにドアが開いた。

 一瞬、男性かと思う。踵の低いパンプスのようだが、一六五センチあるローズより頭半分は高い。グレイのパンツスーツ姿で現れたその人は、薄いブルーのレンズ越しにこちらを見た。静かに響くアルトが、艶やかな唇から発せられる。

「マドモワゼル・ファロ?」

 はい、と応じた声が掠れる。背丈だけでなく、初冬の日を受けて煌めくプラチナブロンド、整った顔とすらりとしたスタイルの良さに、早くも気圧されていた。

 相手はそんなローズに気づく様子も無く、肩口にかかった髪を背に払うと、首に巻いたシルクらしきスカーフを少し締め直し、寒いから入って、と中に招く。

「わたしは、リア・サニエ。名を呼んでくれていい」

 はい、とローズは繰り返す。繰り返しながら、急いで名前と顔を脳裏に刻んだ。短い名前で良かった。覚えるのは、あまり得意じゃない。

 ところで、この人は、どういう人なのだろう。

 家政婦のようには見えない。そもそも、一人も家政婦が居ないから行ってほしいと言われて、やむなくローズは来たのだ。

 リアは細い廊下を真っ直ぐ進んだ。右手の階段と左手のドアを無視し、突き当たりのドアを開ける。後に続いたローズの目に、綺麗なシンクが映った。今風で使い易そうなキッチンだ。

 小ぶりの丸テーブル上にはティーセットが出してあった。

 座って、とリアは言いつつ、やかんの乗ったコンロに点火させる。点火させるや、ヒューとやかんの口から音が漏れ始めた。粗方沸いていたようだ。

 やかんに目を落としているリアを盗み見ながら、ローズはそろりと丸い座面の木のチェアに腰を下ろす。膝に乗せかけたバッグを足元に置こうとした時、こちらを見ないままリアが言った。

「わたしはムッシュ・シェリフの執事をしてる。貴女のことはムッシュ・アルベールから一応連絡を貰ったけど、紹介状を確認させてほしい」

 はい、と今一度口にして、ローズは降ろしかけていたバッグを開けた。一番上に入れていた封書を取り出す。

『あっちに着いたら、当面はシェリフの言うことより執事の言うことを聞いておけばいいよ』

 屋敷で、当主のアルベールからにこやかに言われたのだけれど……

 異性の執事なんて珍しい。

 他にも一、二人居るだろうが、全員女性なのだろうか。幼い子供ならまだしも、当主の一人息子、シェリフはもう十八歳だと小耳に挟んでいる。

 屋敷の使用人の間で囁かれていたのは本当なのか。

 早熟極まれりで、手が早い上に癖が悪いというのは――

 ローズが固唾を飲んで差し出した封書を受け取ると、リアは向かいに座る。慣れた手つきで封を切る間に、やかんがピィーと云い出した。

 リアは足先を軽く組んで畳まれた紙を開きつつ、ストレートで宜しく、と注文してきた。一年以上経験を積んで、ローズは半ば無意識に身体が動く。席を立ち、紅茶の支度を始めた。

 高みから硝子のティーポットに湯を注ぎ、ジャンピングする茶葉を眺めやる。

 ふと視線を感じた。目を移すと、リアが眼鏡のフレームをずらして裸眼でこちらを見ていた。鮮やかなエメラルドグリーンの瞳が、真っ直ぐにローズを映している。

 目が合うと、ふっとリアは笑んだ。

「ボネさんねぇ?」

 紹介状に書いてあったのか。

 ツテが無いとここの使用人になるのは難しいらしいから、当然と言えば当然か。

「大叔母を、御存知なんですね……?」

「生涯をマーニュ家に捧げてくれた」

 かなり若そうだのに懐かしむように言って、リアは眼鏡を掛け直す。「自分では似てるところがあると思う? わたしは、今のところ見いだせない」

「自分では……髪の色が、近いくらいしか……」

 ローズの髪は濃い栗色だ。

 二年前に六十二歳で亡くなった大叔母は、フランス人と日本人の間に生まれた。若い頃は濡れたような黒髪だったのよ、と彼女自らウインクして話してくれたことがあった。

 ささやかに温かだった時を思い出してしまい、危うく茶葉を煮出し過ぎそうになる。慌ててカップに注いだ。金でシンプルな花が描かれた白磁の器に、淡く紅玉を溶かしたような色が満ちた。

 ソーサーに乗せて出すと、リアは紙を畳み直して封筒に戻した。黙ってソーサーを持ち上げ、カップを手にすると一口含む。

 何か試験をされている心地で、ローズは脇で立ち尽くしていた。

 もし試験なのだったら、不合格でも構わなかった。屋敷に戻れるならば、だが。

 このままお払い箱になったとしたら、どうしたら良いか判らない。

 物覚えが悪い、仕事が遅い、遅刻が多い、陰気……大体がそんな理由で、高校卒業後の一年間は、雇用されても数日からひと月ばかりで解雇された。ベビーシッター、ファストフード店員、事務員、家政婦をループしていた。

 こうして一年以上も雇ってもらえたのは初めてで、ローズとしては続けて働きたかった。できることなら、屋敷で。当主の使用人として。

 仄かな憧憬を見透かされたように、その望みは、呆気なく潰えてしまったわけだが……

 美味しいね、と呟くようにリアが言った。テーブルにカップとソーサーを置きつつ、苦笑を閃かせる。

「ムッシュ・アルベール……敵わないなぁ」

 執事にしては、大元の雇い主に対して密度の濃い口調だった。

 ローズは年齢不詳の美しい女性執事を見つめた。脳裏で、銀髪緑眼の長身当主と並べて立たせてみる。しっくりとお似合いに思えた。

 諦観から溜め息をつきそうになる。こらえて息をひそめたところで、ムッシュ・シェリフに面会を、とリアが席を立った。

「携帯電話は置いて行ってほしい」

「未所持です」

「そう。丁度良かった」

 さらりとリアは応じ、キッチンを出て行く。今時珍しいねと、屋敷では驚かれた。だから、良かったと言われるとは思わなかった。

 ローズは不思議な心地で、さっき通り過ぎた階段へ向かう執事の背中を追った。段へ足をかけた所で、つと、リアは振り返った。

「貴女には予め言っておいた方がいいかな。わたしは、嘘をついてる。そこのところ、宜しく」

 しれっと言ってのけた薄いブルーレンズの奥の瞳を、ローズはまじまじと見上げた。

 どう反応すればいいのか。

 嘘をつかれたり裏切られたりするのは、二十一年間生きてきて、もはや慣れつつあったけれど。

 わざわざ宣言されたのは初めてだった。

 それを、宜しく、と言われたのも当然初めてで。

 察しても見逃せということか。

 そんな高等技術を求められても、応えられるか判らない。

 マーニュ家の使用人たる者、それぐらいできないといけないのか。屋敷のメイド長は根気強く色々と教えてくれたが、流石にそんなスキルは伝授してくれなかった。

 一気に駆け巡った考えの間、ローズは瞬きも忘れてリアを見ていた。ようやっと数度瞬くと、女性執事は怪しく微笑した。階段を上がりだす。

 上がりながら、内心混乱しているローズを尻目に、リアは至極簡単に当主の子息について説明した。

「今、アンドロイドに執心中」

 アンドロイドって何だっけ? 最近流行りの、オタクというヤツ……? あ、待って、コレも嘘? でも、こんな嘘をついても意味無いだろうし……

 大体、リアとは初対面で一時間も話していない。何に嘘をついたのかと言えば、限られてくる。名前と職業ぐらいだ。

 執事じゃなくて愛人とか――アルベール様じゃなくてシェリフ様の。

 混乱と邪推に拍車をかけられた気分で三階まで行き、ローズはリアの後から短い廊下を右手に進んだ。

 突き当たりのドアをノックする前に、リアは背後のドアを示して、あっちは執事室、と言った。ローズが振り返っている間に扉を叩く音がして、どうぞ、と中性的な声が応じるのが聞こえた。

 向き直った時にはドアが開いていた。



 マーニュ家は五百年ばかり続いている旧家らしい。家名に〝ドゥ〟が付くが、元貴族ではないそうだ。今現在、かなりの大金持ちだという。

 大叔母のオレリア・ボネが、どうしてそんな所で働けたのかは不明だ。

 ローズが六歳から七歳の頃、互いに浮気をしていた両親が、結局、離婚することになった。

 ごたごたしたその間、放っておかれるところだったローズの面倒を見てくれたのはオレリアだった。その時には、叔母は既に立派な住み込みメイドだった。

 生涯独身で、亡くなる直前に調べたところ、連絡のつく血縁者はローズしか居なかったという。

 二年前、遺品を姪のローズ・ファロに贈ると遺言されている、引き取るか検討してほしいと、マーニュ家から知らせが来た。

 その少し前、初めて付き合った彼氏の浮気が発覚し、破局したばかりだった。泣きながらワインを飲み過ぎて寝坊し、二週間もっていたベビーシッター先もクビになったところだった。

 もはや涙は涸れ果てたと思っていたのに。マーニュ家からの便りを握り締めて、又ひとしきり泣いた。

 大叔母と過ごした一時期だけが、別人の人生のように穏やかで色彩に溢れていた。

 そんな思い出を作ってくれた人が、知らぬ間に亡くなっていた。その上、死の間際まで自分を覚えてくれていた。

 喪失感と後悔の痛みを抱え、引き取りに伺う、とローズは返事を出した。

 幼心に〝大きい〟という記憶だけが残っていた屋敷は、恐ろしく広大な敷地内に在った。

 使用人がわざわざA市の駅まで車で迎えに来てくれたが、来てくれなかったら、迷子になったと思う。敷地内から屋敷まで、鬱蒼とした森のような庭が延々と広がっていた。

 道が無いのか、木々の合間、ぼこぼこした場所をうねうねと十数分走った。やっと着いた豪奢な三階建ての屋敷は、確実に部屋数が二桁あるように見えた。

 一応なけなしのスーツで来たものの、安物だったから恥ずかしかった。通された部屋で身を縮めて座っていたら、なんと当主が公証人と共に直々に現れた。

 羞恥も忘れ、ぽうっとしてしまいそうな容姿の人だった。

 二枚目当主から挨拶と叔母を悼む言葉を告げられた後、すぐ公証人にバトンタッチとなり、本題に入った。

 遺言状のローズに関する部分が示され、遺品の一覧を渡された。数は多くなかった。病で、大体の死期を悟れたから、着々と私物の処理を進めていたらしい。

 曾祖母由来の装飾品、アルバム、幾つかの小物、そしてローズに名義替えを指定した銀行口座。

『こちらに明記されているように、預金はどうしても困った時に使うようにとのことです。その判断はアルベール・ドゥ・マーニュ氏に委ねられていますが、ローズ・ファロ嬢名義への変更が優先されますので、貴女には遺言状の一部無効を申し立てる権利があります』

 預金額がかなり高く、ローズは思いがけず湧いた財産に喜んだ。が、怖じ気づきもした。額が高過ぎたのだ。

 きっと、ろくに困っていなくても、自分に言い訳して使ってしまう。しかし失業したばかりで、まとまったお金が喉から手が出るほど欲しかった。

 迷いに迷って、かなり長いこと黙り込んだのだと思う。

 ホットチョコレート(ショコラ)のカップを当主の低声で勧められて、初めてローズは我に返った。

『あ――すみません……お時間を、とらせてしまって……』

 ローズが甘いショコラを一口含むと、アルベールが優しく微笑んだ。

『マドモワゼル、失礼ながら、貴女のことは少々調べさせてもらいました。わたしは、先々貴女の為にも、口座は貴女自身が管理した方が良いと判断しています』

 うろたえて、ローズは当主と公証人を交互に見た。当主はにこにこしているし、公証人は黙って見返してくるだけだった。

『わたし、あの、あまり、自信が……』

 唇にちょっと付いたままの、ショコラの泡を拭う余裕も無かった。そんなローズに、銀髪の美男は真面目な口振りで言った。

『良かったら、オレリアの後を引き継いで当家で働きませんか。給与は貴女の受け継ぐ口座に振り込みさせていただきます。当家で働いてもらえれば、貴女が妙なお金の使い方をなさったとしても、まぁ判る。その際はわたしからセーブを促しましょう』

 如何ですか、とアルベールは見事にローズの迷いを解消させてしまった。


 そうしてローズは、マーニュ家で予備メイドとして、住み込みで働き始めた。

 メイド長の下で、懸命に仕事を覚えた。掃除、洗濯、アイロンがけ、ベッドメイク、買い物、料理……大叔母の名誉と当主のお膳立てを壊すわけにはいかなかったから、必死だった。

 オレリアの姪っ子にしては覚えも行動も遅いわねぇ、とメイド長は呆れたように言ったが、一年経つ頃には、逐次の完了報告に黙って頷いてくれるようになった。

 ただ、一年経とうとも、口数が少なく地味な淡色を好むローズは、陰気で幼稚、と他の三十人近く居る同僚から評され続け、一線を引かれていた。

 だから〝シェリフの所に臨時で行ってほしい〟と上から要請が来た時も、誰も引き止めてはくれなかった。元より一番の新参者で、メイドとしての戦力は最底辺だったろうから、そう惜しまれる筈もなかったのだが。

 行きたくありませんと主張できる性格でもなく、諾々とメイド長に連れられて当主に挨拶へ行くと、アルベールは、やぁ、と笑んだ。

 殆ど一年ぶりに面と向かって会った当主は、随分頑張ってると聞いているよ、と満足そうに緑眼を細め、指導の賜物だね、とメイド長を褒めた。

 シェリフの母親でアルベールの妻だったフローラという人は、十年ほど前に交通事故に巻き込まれて亡くなったそうだ。

 以来、アルベールは浮いた話も無いまま独身でいるという。ローズには親と言って大差無い年齢の筈だが、人生を謳歌しているのがよく解る、若々しく眩しい男性だった。

 メイドの仕事の合間に見かける程度でも、ローズは次第に、ささやかなときめきに心が躍るようになっていた。休憩時間にメイド達が、ムッシュ・アルベールは優しくって素敵、と言い合っているのを端で聞いて、内心で同意していた。

 それだけで、充分幸せな日々だった。

 だのに、当のアルベールに、屋敷から送り出される羽目になってしまった。

 メイド達からはあまりいい噂が聞けなかった、彼の一人息子の元へ――

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