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雨は夜の内にあがって、朝には瑞々しい青空が広がっていた。
若い庭師のダイナミックな運転で、ローズは同僚の若者と一緒にマーニュ家を出た。今日は買い出しの仕事が割り当てられている。
A市中央部に立つモノよりは小規模だが、郊外の町で開かれる市場は賑わっていた。
露店の布屋根から露台に並ぶ品物まで、トリコロールにとどまらず鮮やかな色彩に溢れている。店と店の隙間には、人に混じって香辛料や花、生鮮品、調理品や工芸品といった種々の香が漂っていた。
ざっくりしたバッグとメモを手に、買い出し担当の二人は手分けして店を廻った。大半は食材だが、屋敷の使用人達の雑貨も頼まれている。
他人に頼めない物が要る時は各々買い出しに加わるけれど、本日は担当者だけだ。
マーニュ家の広大で複雑怪奇な庭内を、迷わずに通り抜けられる者は限られている。その所為か、買い物程度だと、敷地の外に出たがる使用人は少ない。
今日は休日の先輩メイドも、のんびりと屋敷内で過ごすらしい。ローズは、おやつ用に焦がしプリンを頼まれていた。
買い込んだ物が持ち切れなくなれば、路肩に停めてある車に戻る。待機している庭師が、ブロックを組むように、綺麗に荷物をトランクへしまっていく。
春頃に花粉症を患っていたという庭師は彼だと思うが、夏が近づいて症状は治まったようだ。車の運転は荒いが、庭の手入れや荷物の扱いは丁寧だった。
まだあるの? と訊かれ、ローズはメモに目を落とし、首肯する。
「頼まれているお菓子が幾つか」
庭師はメモを覗き込んできて、俺にもコレ頼む、と〝サブレ〟を指差した。そうして、ポケットからくしゃくしゃの紙幣を出した。
ローズは焦って、鉛筆でメモに金額を書き込んだ。
いちいち書くの? とやや驚いたように言われ、忘れちゃうから、とローズはぎごちなく白状する。
まぁ間違いは減るだろうね、と庭師が口角を上げ、ローズも笑みを返した。行き交う人波に再び潜る。
パンやデザートの店の手前で、膨らんだバッグを両手に提げた同僚に会った。全て買い終えたと言う。こちらの残りはこれだとローズはメモを見せ、頷き合って別れた。
いつものパターンだった。ローズの要領が悪いのだろう。手分けをすると他の人の方が早く済ませる。
『慌てておざなりにされるよりも、確実にこなしてくれた方がありがたいんですよ?』
メイド長から何度もそう指導されたので、ローズはメモにチェックを入れながら、こつこつと残りの品物を買い求めていった。
きちんとサブレも人数分購入し、メモにある分が全部揃った。達成感に一つ息をつく。
さぁ帰ろうと踏み出したら、誰かにぶつかりかけた。
互いに身を逸らして避け、ローズは相手の顔を見ることも無く、軽く謝ってすれ違おうとした。
が、相手が低声で、ローズ? と発した。
目を上げ、菓子を落とさずに済んだのは、紙袋じゃなかったからか。
ココア色の少し長めの髪に、セピア色の瞳。
「やっぱりローズ――びっくりだな。今この辺に住んでるの?」
高校の同級生だったのだから、二十二歳。それなりに大人っぽくなっていたが、口調は三年前とさほど変わっていない。
隣に例の彼女は居なかったけれど、ローズは顔が強張った。曖昧に頷いてから、そのまま歩き出す。
フィリップは、追ってきた。
「なんか、綺麗になったね。今、何の仕事してるの? 君って意外と子供好きだったから、今もベビーシッター?」
「……家政婦」
短く答える頭の中で、幾つもの〝どうして〟が浮かんでいた。
前に住んでいた県は、ここから遠い。フィリップは成績が良かった。まだあの県に在る大学に通っている筈だ。そろそろバカンスシーズンではあるけれど、ワイン以外は取り立てて何も無いこの田舎に、一体、何の用で来ているのか。
そして何故、気持ち良く別れたとは言えない元恋人に、こうして話しかけてきているのか。
たまたま見かけたからだとしたら、残酷だった。
年単位で時が過ぎても、傷口は開くものだと思い知った矢先だのに。
どうして――
頑張ってるんだね、と優しく応じてから、フィリップは一方的に語り始めた。
「どうも景気が芳しくないし、僕はこの際、大学に残って研究員を目指そうと思ってるんだ。両親も賛成してくれたしね。で、聞いてよ、僕の書き上げた画期的な論文があるんだけど、それを教授が他にも読んでもらうかって言ってくれたんだ。教授の古い友人にね。きっとこの道の権威だよ。それで教授と一緒にここに来たんだけど、まさか君に会えるなんて信じられない」
半ば聞き流した話の最後だけは、完全に同意できた。
まるで再会を喜んでいるような響きが、心を乱す。
片隅に残っていた未練が育ってしまいそうで、ローズは足を速めた。
あの雨の日など無かったかのように、フィリップはついて来た。ついて来ながら、少々つまらなそうにぼやく。
「君なら、僕の成果を祝福してくれると思ったのに」
「……わたし、難しいことは解らなくて……」
「君はいつもそれだ」
フィリップは鼻で溜め息をついた。「知ろうとしないのに〝解らない〟の一言で済ませちゃう。だから色々覚えられないんだよって教えてあげたのに。相変わらずだなぁ」
正論に、ローズはうつむいた。
昔から、諦めてしまうのが早かった。
一所懸命いい子にしていても、両親は別れてしまった。
何の役にも立てない。こんな自分が色々と望んでしまうのは、罪だと思っていた。
思考すること自体を、放棄気味だった。
マーニュ家に居場所を得て、仕事を得て、心持ちが若干、変わってきた気がしていたけれど……
「まぁでも、君が頑張り屋なのは、僕、よぉく知ってるよ」
甘やかな声で、フィリップは言った。「ドミニクより、ずっと頑張り屋だ」
誰、と眉を寄せたが、思い至った。何とも言えない苦い心地が胸にせり上がってくる。
浮気相手と比べた挙句に持ち上げられても、嬉しくなかった。
バッグの持ち手を握り締め、ローズはずらりと車の停まった通りに出る。来た来た、と言うように庭師が片手を上げた。同僚の若者が後部座席のドアを開け、枠に肘をあずけてこちらを見る。
ほっとしたのも束の間、ローズは袖を引かれた。
「ホントに家政婦?」
「嘘なんか言ってもしょうがないでしょ」
ローズは立ち止まって、そっと袖を引き返しながら応じる。フィリップは少年のように口をすぼめ、ならいいけど、と覗き込むように見つめてきた。
「僕、しばらくこの町のホテルに居るんだ。教授の友達、権威だけあって忙しいのか、連絡を取りにくい人らしくてさ。だから僕、結構、時間があるんだ」
「何が、言いたいの」
「こんな所で再会するなんて運命だよ。僕ら、やり直せると思う」
動揺して、ローズは視線を彷徨わせた。
「だって……その、ドミニクさんは――」
「勿論、別れるとも」
クラクションが鳴った。庭師が車内から、同僚はドアの脇で、こちらに不審そうな顔を向けている。
行かなきゃ、と口早に言い、ローズは歩き出す。
「待ってるよ」
声の当たった背中が、熱かった。
お待たせしてすみません、とローズが乗り込むと、車は小刻みに前後した後、器用に縦列から抜け出す。
田舎道の両脇が家並から畑ばかりになると、同僚が心の底からといった口ぶりで述べた。
「こう言っちゃナンだけど、君がナンパされるとは思わなかったなぁ」
ややの間リアクションに迷ってから、わたしもです、とローズは苦笑する。
バックミラーに映る庭師が、ハンドルを切りながら口を曲げた。
「君はちょっとばかしオリエンタルだし、おのぼりの観光客と間違われたんじゃない? あんな風に相手しちゃ駄目だぜ」
ローズは肩をすぼめる。隣で、同僚が鼻で笑った。
「もしも次があったら、自分用の棺桶を葬儀屋に注文するようなもんだって、言ってやりなよ」
大袈裟な文言に、はぁ、とローズは自信無く応じる。
ミラーの中で、庭師が口の片端をシニカルに上げた。
「マーニュ家の使用人にちょっかい出すってことは、そういうことだよな」