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日本には梅雨と言うのがあるらしいが、フランスには無い。
以前ローズが住んでいた県は、雨が殆ど降らなかった。ここM県は、適度に降る印象がある。
六月下旬の昼下がりは、穏やかだった。
からりと乾いたシーツを数枚両腕に抱え、ローズは同い年の先輩メイドと、マーニュ家の敷地内を歩いていた。大物専用の干場から、煉瓦造りの短い小道を数分行けば、屋敷に戻れる。
先輩は明日が休日で、心なしか弾んだ足取りだ。色移りしないと言う明るい口紅の色も、気分を盛り立てている感じ。
今日のデザートは何が出るかなぁ、と言ってから、先輩はローズの反応を待たずに、あら、と続けた。足を止める。
ローズは止まれずに数歩進んでしまってから、慌てて同僚の傍へ戻った。どうかしたんですか、と訊く前に、先輩の視線の先に気づく。
美しく配された木立の合間から、散歩可能な庭園が見える。庭師達の技術の結晶とも言える、花壇や剪定された植木が点在していた。季節柄、緑の色が活き活きとしている。
そんな自然の額縁の中に、長身のアンドロイド執事が居た。プラチナブロンドに銀縁眼鏡。ワイシャツにネクタイとベスト。いつもの恰好だ。その恰好で、腰を落とし気味に、ゆったりと足を前後に出したり引いたり、妙な動きをしている。
壊れたんじゃないわよね……?
ローズは、ちょっと心配になってC六号を見つめた。彼が精巧な機械だと知っている人は、この屋敷に今、何人居るのだろう。
製作者の御曹司、シェリフは只今、日本へ出かけている。筆頭執事のエドモンも一緒だ。
他に知っていそうなのは、当主のアルベールぐらいか。
旦那様が居らっしゃれば、大丈夫かしら。
盲目的な結論に至ったローズの横で、先輩が不思議そうに呟いた。
「何やってんのかしらね、サニエさん」
何でしょうね……としか言えずに、ローズは執事の動きを改めて見やる。奇妙だが、壊れているにしては滑らかな動作だ。
なんとなく、見たことのある動きのような気がしてきた。
何処でだろうとローズが乏しい記憶をまさぐる間に、先輩がぶつぶつと、社交ダンスかなぁ、と洩らす。
その声が大きかったのかどうか、執事が、ついとこちらを見た。途端に二十代の外見に少々そぐわない笑顔になる。やたらに嬉しそうな破顔ぶりだった。
こんにちは、と挨拶するや、C六号はコンパスの長い足であっと言う間にメイド二人の所へ来た。にこにこと、レンズの奥のエメラルドグリーンの目を細める。
「持ちましょうか」
大丈夫です、と言いかけたローズの隣で、ありがとうー、と先輩がちゃっかりシーツを押し付けた。わたしはいいです、と言うのもナンで、ローズも差し出された手に預ける。
軽々と歩き出しながら、アイロン室ですか? とC六号は問うた。そうです、と先輩が機嫌良く並ぶ。ローズも後に続いた。
先輩はローズと大差無い背丈だから、やっぱり彼の顔を見ようとすると完全に見上げる態だった。振り仰ぐようにして尋ねる。
「さっき、何してたんですか」
「練習です。ジュウジュツの」
ああ、とローズは思わず声をあげてしまう。
何? と先輩がマスカラでくるんとした睫毛をぱちぱちさせ、ローズは少し照れながら言った。
「ジュウジュツ、小学校で、ちょっとやったことがあったのを思い出しました」
両親の離婚後、八歳でローズは父親に連れられて引っ越した。引っ越した先の学校で、柔術は必修科目だったのだ。
へぇー、と先輩は面白そうに応じた。
「そういや、友達で教室に通ってる子、居たなぁ。ここでも、ベローさんが習ってるって言ってたような……なんでか、何処の町にもジュウドウやジュウジュツの教室あるよね、一軒ぐらい」
年配の先輩メイドの名前が出たが、ローズは心許なく、そうなんですか、と相槌を打つ。時折、どうしてこうも自分は情報に疎いのかと情けなくなる。
ローズの代わりにC六号が、A市にもジュウドウ教室があるみたいですね、と言った。
通うんですか? と先輩が興味ありげに訊く。いえ、と執事の横顔が柔らかく微笑した。
「ムッシュ・シェリフからビデオを貰っています。観て覚えます」
「観ただけで覚えられるんですかぁ?」
ちょっぴり疑わしげに先輩が言う。
Cさんなら覚えてしまいそうだとローズは思ったが、執事は生真面目に、型だけは、と応じた。
「後は実際に動いて覚えます」
「あー、それで、やってみてたわけね」
屋敷に着き、先輩が使用人用のドアを開ける。
C六号はアイロン室へ足を向けつつ、笑いかけてきた。
「ローズ、経験者なら、今度教えてください」
面食らって、ローズは首を振った。
「わたし――無理です」
物覚えの悪さは筋金入りだ。柔術についても、礼儀作法と型の稽古をしたとか、お辞儀を覚えるのが結構大変だったなぁという、感想じみたことしか頭に残っていない。「やったことがあるのは、もう随分前なんです」
とても人間臭い仕種で、C六号はほんの少し顔を傾けた。さらりと白金の短い前髪が揺れる。
「じゃあ、わたしが頑張って覚えて、ローズに教えます」
なんで、と浮かんだけれど、無邪気な申し出は不快ではなかった。いかにもC六号らしい。
んま、と先輩が悪戯っぽく眦を下げた。いいんじゃない? と笑む。
執事はアイロン室にシーツの山を運び入れると、練習してきます、とそわそわした様子で去っていった。
「ちょっと変わってるけど、いい人ね」
アイロンの支度をしながら、先輩は楽しげに声をひそめた。「ローズったら、迫られてるじゃん。いいんじゃない、彼。判り易いわぁ」
寸時ぽかんとしてから、ローズは笑ってしまった。
「迫るなんて、あり得ません」
「えー、でもぉ」
「初対面から、あんな感じの人なんですよ」
まっさらだったコンピュータに、たまたま、早い段階でローズが記録された。それだけのことだろう。
いずれ古いデータとして消されてしまう可能性が大いにある。淋しいけれど、それはしょうがないことだとローズは解っていた。
人間も、似たようなものだったから。
ローズは、大きめの紙袋を手に、急ぎ足で自宅へ向かっていた。
雨が紙袋を濡らして、破けてしまわないか気になっていた。
雨なんて、珍しかった。
今日はもういいわよ、とベビーシッター先から早めに帰らせてもらえるのも珍しかった。
恋人はまだ大学で講義を受けているだろうから、帰るまでに、久しぶりにまともな食事を作っておこうと思った。
集合住宅に帰り着き、鍵を出す。
嗚呼――開ケチャ駄目――
玄関を開ける。
雨宿リシテ帰レバ良カッタノニ――
二部屋しか無くて、奥の部屋で彼と見知らぬ女性が抱き合っていたのは丸見えだった。
夕食の材料が、次々と足元に落ちた。
アレハ、袋ガ破ケタカラダッケ――?
瞼を上げると、暗い室内が目に映った。
マーニュ家の、私室。
さらさらと、外の木々に注ぐ雨音が聞こえてくる。
夢なら、別の光景を見たっていいだろうに……
胸奥に詰まっていたような息を、ローズは吐き出した。
枕に頬をうずめ、寝具にくるまり直す。
もう三年が過ぎようとしているのに、どうして今頃、蘇ったのか。
そういえば、フィリップも最初、Cさんのように何かと声をかけてくれたんだっけ……
構ってもらえたのが嬉しくて。自分も大概だと思っていたのに、それを上回る子供っぽいところが放っておけなくなって。
将来の為に資格をたくさん取っておきたいと言われ、疑いもせずに家賃や生活費はローズが一手に引き受けていた。
すぐクビになるからカツカツの生活だったけれど、君が頑張っているって僕は知ってるよ、という慰めに救われていた。
だが、あの雨の日。
どういうこと、と震えながら問うたローズに、フィリップは気まずそうながらも、よくあることだよ、と言った。
確かに、ローズの周りでは当たり前のように繰り返されてきたことで。
言い返せなかった。
なんとか言えたのは、出てって、だけだった。
相手の女性は、大学近くのパン屋で働いていたらしい。その後すぐに、市場で二人が買い物をしているのを見かけた。
楽しそうな姿に、ローズは己がとても惨めだった。
よくあることだったのだから、見逃すなり受け入れるなりすれば良かったのか。
そうすれば、独りにならずに済んだのかもしれない。
夢でまで、同じ光景を見ることも……
ローズは寝返りを打つと、湿った睫毛をゆるりと伏せる。
今更だった。