5
相続についても車の販売についても片がつき、母が埋葬された場所へ出かけて花を手向け、二日後、ローズはシェリフ達と共に屋敷に戻った。
思いがけず何人かの使用人達から、大丈夫なのか、とか、元気を出せといった声をかけてもらった。
翌日から、ローズはこれまで通りにメイドとして働き始め、日常が戻って来た。
今日は同い年の先輩メイドと、屋敷の内側の窓掃除だ。
一階の廊下の窓を、互いに両端から中央へ向かって順番に拭いていく。
距離が縮まってくると、先輩が他愛無い話を始めた。話題はローズが不在だった間の屋敷での事々。実に平穏だったようだ。食事に出た新しいデザートが美味しかった話や、休日に観たTVの話。
「そうそう、先週はちょっと面白いコトがあったわよ。旦那様がエドモンさんと一緒に車の塗装をした日があってねぇ。もう職人並の手際で、あっと言う間に塗り替えちゃったらしいんだけど」
出て来た単語の幾つかに、ローズは仕事の手が遅まる。
先輩は手を止め、思い出したのか、くすくす笑った。
「庭師クンがね、知らずに近くで剪定してたみたいなのよ。塗料が赤だったものだから、鼻かんだりうがいしたりしたら、吸い込んじゃってたその色が出たのね。原因不明の出血って騒いでさぁ。騒ぐ元気があるならさっさと病院行けって怒られて」
硝子を上から下へ撫でるようにワイパーを動かしつつ、ああいう塗料って臭いで気づきそうですけどね、とローズは素朴な疑問を口にする。
先輩は、そうなのそうなの、と可笑しそうに肩を揺らした。
「庭師クン、庭師のくせに花粉症なんだって。鼻が詰まってて気づかなかったらしいのよ。で、マスクしなよ、ってみんなから言われてさ」
賑やかだったろうなとローズは頬を緩める。
先輩はひとしきり思い出し笑いをしてから、やおら、しみじみと言った。
「その後すぐにエドモンさんがその車で出かけてさぁ、シェリフ様がローズについて屋敷を出てるって知ったんだよね。ローズったら、やっぱり迫られてるんじゃないかって心配したよー」
不意に、何を言ってるんでしょうね、と背後からメイド長の声がした。先輩だけでなく、ローズも肩が跳ねてしまう。
すみません、と直立したローズと先輩が声を揃えると、カーテンらしき大量の布を腕に掛けたメイド長は鼻で息をついた。
「まったく貴女達はおかしな噂話ばかりして……坊ちゃんは旦那様に似て、立派な紳士ですよ」
普段から孫自慢気味にシェリフのことを話すメイド長なので、全て鵜呑みにはできない。けれど、他の使用人達に比べ、彼女の評価の方が事実に近い気はしている。
大人しく小言を受けるローズの隣で、先輩が意を決したように尋ねた。
「じゃあ、イザベルさんって、どうして出て行ったんですか」
「結婚したからです。お相手はアメリカに住んでますから、ついて行ったんですよ」
「えー、なんだぁ」
先輩が拍子抜けしたような声を出す。メイド長は呆れたように、布を腕に掛けたまま腰に手を当てた。
「何を考えていたの、しょうがないわねぇ。坊ちゃんとイザベルは確かに親密な時があったみたいですけどね、二人共納得して離れてますよ」
メイド長はそれで話を切り上げた。上でそんな話するんじゃありませんよ、と釘を刺すのは忘れず、きびきび廊下を歩み去った。
一、二階の窓掃除を終え、昼食を挟んでから、ローズは先輩と三階に上がった。下の階と同じく、両端に別れて拭き始める。
薄めた洗剤を吹き付け、T字型のワイパーで水切りをした後、布で乾拭き。
長い廊下には六十枚近い窓硝子がある。二枚終えた頃、近くの階段から複数の足音が上がって来た。ローズは手を止めて姿勢を正す。
姿を見せたのはシェリフだった。C六号が一緒だ。
やぁ、とシェリフが口の端を上げ、こんにちは、ローズ、とアンドロイド執事が穏やかに目を細める。
シェリフは窓辺で立ち止まると、続けていいよ、と外に目を投げながら言った。枚数があるし、できれば先輩と同数こなしたいので、ローズは小さく頷くと掃除を再開する。
拭き終えた窓の前で、先日のボーナス要らないんだって? とシェリフは訊いてきた。
貰えません、とローズはワイパーを手にして応じる。
「わたし、大したことできませんでしたし……ムッシュ・カイレの気前が良かっただけですし」
「あれが相場だけどね」
「え、じゃあ、それほどの利益は出なかったんでしょうか」
「利益は、相当出ているよ」
エドモンと似たような雰囲気で、シェリフはニヤリとする。「だからボーナスを出せる」
そうですか、とローズは一所懸命に手が休まないように動かす。
つと、青年の中性的な声が笑った。
ローズが横目に見やると、シェリフは窓の外、下方を見ていた。こちらの視線に気づいたのか、指でも下を示す。
「あの花壇、ムッシュ・カイレのネクタイを思い出さない?」
示される先を目で追って、ローズも思わず笑ってしまった。
丸い花壇達に植えられたピンクの花々。上から見ると派手な水玉模様だった。
「似てますね」
「二回共、インパクトのあるネクタイだったな、彼は」
えぇ、とローズはワイパーと布を持ち変えつつ、アパルトメントの三階からもあの柄が見えたんだろうか、とよぎった。
車を売った日、シェリフは三階に居て、ウジェーヌの前には現れなかった。
三階の窓からも玄関先に立つ彼のネクタイ柄が目立っていたのかと思うと、ローズは新たに笑いが込み上げてくる。
「母さんの好きな花なのに、しばらく違う人が浮かんでしまいそうだ」
笑みを含んだ声音で言って、シェリフが歩き出す。
あ――そういえば、とローズは通り過ぎかけた青年を見上げた。
「あの、奥方様が好きな曲の、映画――タイトルを知りたいんです」
あれから、メロディが耳に残ってしまっているのだ。
シェリフは、ほんの微か、緑眼を眇めた。
「〝ニュー・シネマ・パラダイス〟」
急いで脳裏で繰り返して、ローズはちょっと笑んだ。
「今度のお休みに、借りて来ます」
いいね、とシェリフがゆるりと微笑すると、わたしも観たいです、とC六号が言った。
再び歩き出しかけていたシェリフは足を止め、寸時、沈黙した。
「C、悩ましい自己主張をするようになったね」
「……ちょっと解りません」
「今回は解らなくていい」
言い合いながら、二人は一室に入って行った。
休日、ローズは教えてもらった映画をレンタルして観た。
素敵な作品だった。
あのメロディが、効果的に使われていた。ピアノではなく、フルートで。
他の作中曲も良かったので、更に次の休みに、今度はサウンドトラックをレンタルしてみた。
シェリフの母が好きだった曲。
もどかしい、バルバラとローズのようだとも思った曲。
曲名は〝愛のテーマ〟だった。