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屋敷から、エドモンはクラシックカーを運転して戻って来た。
アルベールは車いじりが好きらしい。特にクラシックカー。昔の物とは言え、屋敷にあるのは、どれも大体ぴかぴかだった。
エドモンが乗って来たのをローズも見せてもらったが、やはり新車の如く磨き上げられていた。明るい赤色が春らしい。アパルトメントの庭先が華やぐ。
こんな色のもお持ちだったのねと眺める横で、C六号が、ローズの色ですね、とコメントした。
「えぇ?」
「この色は、ローズ・レッドです」
C六号が言い換えると、エドモンが愉快そうに目を細めた。優秀だ、とアンドロイドの背を軽く叩く。
「シトロエン社のトラクション・アヴァン七CV。今でも充分、現役でいけます」
エドモンが説明してくれたが、ローズは、はぁ、としか返せない。大きなおもちゃのような見た目で、いい感じではある。
室内から窓枠にもたれて見ていたシェリフが、のんびりと言った。
「父さん、ソレ、手放したいんだそうだ」
「あら……そうなんですか」
〝ローズ〟の車を手放したいと言われると、そこはかとなく気が沈む。
「ムッシュ・カイレはクラシックカーに興味があるそうだから、この機会に、欲しいと言うなら安く譲るつもりだ」
それで〝見せびらかす〟ことになったのか。
ローズが納得していると、奇妙にシェリフがにっこりと笑んだ。
「是非、頑張って売ってくれ、ローズ」
「は――?」
「忘れちゃ困る。只今、ここでは君が女主人だ。ムッシュ・カイレはそう思っている」
シェリフは非常に楽しそうに、己を親指で示した。「俺は初仕事を終えた新人弁護士でしかない」
ぽかんとするローズに、シェリフは順番に手で示していった。
「エドモンは君のお抱え運転手。Cは君の執事。諒解?」
「そ、そんな――お屋敷に連絡をくれたんですから、わたしの立場なんてムッシュ・カイレは御存知なんでは」
「マーニュ家は、そう簡単に内情を外に漏らさないよ」
にこやかにシェリフは言ってのけた。「あの弁護士が、君を裕福そうだと言っていたじゃないか。事実、君は結構、裕福だ」
エドモンがお茶目にウインクしてきた。
「ちゃんと買ってもらえるよう、打ち合わせしましょう」
「ローズの執事を頑張っています」
C六号まで胸を張り、ローズは庭で立ち尽くす。
まさかこんなミッションが控えていたとは、思いもしなかった。
約束の日、ウジェーヌはA市の駅を出た。
バルバラとは出会って二週間で結婚した。その数日後に宝くじの当選が判明。何という幸運の女神を射止めたことかと、自分自身が誇らしかった。
そんな新婚の妻が呆気無く逝ってしまった時は、驚き嘆いた。が、彼女の預金を相続できないと知った時の方が、衝撃が大きかった。
葬儀や諸々の届け出が済んでしまうと、バルバラはもう過去の人だったのだ。
記憶に残っているのは、ほぼ手つかずの筈の、宝くじの当選金額だった。
彼女の隠し子とも言える一人娘について少し調べてみると、離婚した相手が引き取り、以降、バルバラとは交流も無い様子。
そんな親不幸な子供に、労無く大金が渡るなど納得できるものではない。ウジェーヌには、バルバラの無駄遣いを止めて預金をさせたという〝功績〟もある。
幸い、娘は予想よりマトモだった。
本当にバルバラの子供か? と思った。
バルバラは派手で、浮き立つ感じだった。
その娘は対照的に、しっとりと、ひっそりとしていた。二十代前半にして、母親よりずっと落ち着いた印象。
そんな若さで使用人を幾人も使い、高級車を乗り回している。
金に縁があるという点は、似た者親子だったようだ。
『ひょっとすると、マドモワゼルにとって、マダムの遺産ははした金ですね』
簡単に相続放棄してきたので、弁護士が肩をすくめてそんな感想を述べていた。
いささかムッとした。〝はした金〟にしがみつこうと躍起になっていると、指摘された気分だった。
別に自分だって、生活に困っているわけじゃない。今回の遺産程度の預金は、自分名義の口座にもある。
単に、親とろくな関係も結んでこなかった子供なんぞに、濡れ手に粟の金を譲るのは良くないと思ったまでだ。
駅舎を出たウジェーヌは、黒塗りの高級車を探した。
ルノーのヴェルサティス。
元はVIP用に生産されたそうですね、と初老の運転手がへらりと笑いながら言っていた。
「ムッシュ・カイレ、こちらです」
男の声で、ウジェーヌはそちらへ顔を向けた。美しい赤の車の傍らで、例の運転手が手を上げている。
やぁ、と歩み寄ったウジェーヌは、おぉ? と思わず声をあげた。
「これ、ひょっとしてトラクション・アヴァンじゃないですか?」
「流石ですね、そうですよ」
運転手は破顔し、後部座席のドアを開ける。「残念ながらウチの御主人、クラシックカーには詳しくないんですけどね」
「え、詳しくないのに、こんなイイのに乗ってるんですか」
「衝動買いだったみたいですね。色がね、御自分の名前と同じって点が気に入ったみたいで」
何だそりゃあ、宝の持ち腐れに近いじゃないか。
内心で悪態をついてウジェーヌはシートに座る。座り心地はヴェルサティスと雲泥の差だが、かなり状態はいい。
滑らかに、走り出した。
そろそろ飽きてきてるみたいなんですよ、と運転手はのほほんと言った。
「わたしとしては勿体無いって思うんですけどね。まぁ、しょうがないですね。先日、ムッシュ・カイレ、クラシックカーにも興味があると言っておられたんで、乗りおさめの気分で、コレでお迎えに上がらせてもらいました」
「あぁ、嬉しいです。素敵な気分だ、ありがとう」
車内のあちこちに目を走らせながら、ウジェーヌは尋ねた。「衝動買いって、幾らで手に入れたかは知ってます?」
えぇ、大体は、と運転手は応じ、金額を口にした。最近ハマりだしたので相場にさほど通じていないが、状態の良さを考えると妥当な値段に思える。
そこそこ詳しそうな運転手が高いと評しないから、まずまず標準だろう。衝動的に買うにしては高い買い物なのは間違いないが。
これに飽きるなんて罰あたりだな。
車窓の外を流れる長閑な風景を見ながら、ウジェーヌは口を曲げていた。
アパルトメントに着いた母の最後の夫君は、今日はビズゥをして来ようとはしなかった。C六号と一緒に出迎えたローズに、呆れたような目を向けてくるにとどまった。
本日も派手な柄のネクタイを締めている。渦というか、水玉のような模様だ。
客人を伴ってリビングに入ると、待機していた公証人が早速仕事にかかった。書類の内容を解説し、サインが必要な場所を示してくる。
ウジェーヌは念入りに目を通した後、サインした。ローズはどういう内容か予め話してもらっていたので、すぐ記す。
残りの手続はお任せください、と公証人が請け負い、リビングを出て行った。
一仕事済んで、ローズは息をつく。
珈琲をお持ちします、と執事も退室し、ウジェーヌと二人きりになった。
もう一仕事の幕が上がった気分で、ローズはウジェーヌのネクタイ柄を見る。
「何度も御足労いただいてしまって、すみませんでした」
「構いませんよ。前に言った通り、傷心旅行も兼ねていますからね」
気さくな返答が来て、懸命にローズは平静を装う。
「その、今日のお迎えの車で、少しは、お心が癒せたで、しょうか」
つっかえて、ローズは咳払いして誤魔化す。ウジェーヌは眉根を寄せた。
「マドモワゼル、聞きましたよ、あんないい車に飽きてきているとか?」
非難めいた口振りで言われ、ローズは引きつりそうになりながら微笑を浮かべた。
「価値が判らないのにクラシックカーなどを乗り回すのは、如何なものかと……そのぅ、知人に、言われ、ました」
大きくウジェーヌが同意を示す。ローズは喉がからからで、今一度咳払いした。「やっぱり、そうですよね。それで――ですので、あれは売って、普通の車に買い替えようと、思っています」
口を閉ざし、ローズは水玉模様を上目づかいに見る。その柄を隠すように、ウジェーヌは胸の前で両腕を組んだ。目線を上げると、難しそうな顔つきをしている。
「僕に買わないかって持ちかけています?」
どきんとして肩が動いたが、同じタイミングでドアがノックされた。掠れた声で、どうぞ、と促せば、C六号が盆を持って入って来る。
執事が置いてくれたカップに目を落とし、ローズは肩をすぼめた。
「バレバレでしたか?」
「かなりね」
ウジェーヌは口を歪めて応じたが、唐突に金額を告げてきた。「この値段でいいなら」
聞いていた額より高い。いいと応じたかったが、戸惑ってローズは目を彷徨わせた。即に決定を伝えるなと、シェリフに言われている。
脇に控えていたC六号が、つと身動いた。目を流すと、銀縁の眼鏡を外し、ベストの胸ポケットに入れる。そして、しれっとして低声を発した。
「その値段なら、わたしに売ってほしいです」
え、とローズとウジェーヌは同時に声をあげた。
執事は、どうしたのか、うっとりと続けた。
「主色の車に乗れるなんて、使用人冥利に尽きます。その値段なら、わたしの給与でも払えますから、是非、わたしに」
ウジェーヌが身を乗り出して来た。
「まっ、待ちなさいよ――あの車で拘るべき点は色じゃないでしょう!」
「す、すみません」
おろおろとローズが視線を交互させると、何故かウジェーヌが値をぐんと上げてきた。C六号が悔しそうに口を突き出す。
旧家の執事としてその態度は拙いです、とローズは言ってあげたかったが、それよりも先に場を治めるべきだった。
「その――そのお値段で、ムッシュ・カイレにお譲りします。Cさん、貴男は、お客様と競るなんて駄目です」
はい、と不服そうにC六号がそっぽを向く。
いきなり大きな子供のようになったアンドロイドに困惑しながら、ローズはウジェーヌを振り返った。
「あの、すみませんでした。本当に宜しいんですか?」
ウジェーヌはハタとした感で、ややの間、自分が提示した額を惜しむような顔をした。が、口を引き結ぶと顎を引いた。
「僕に払えるのはマドモワゼルも御存知の筈です」
後は〝車に多少詳しい〟エドモンが、種々の手配をしてくれた。
ウジェーヌが口座を持っている銀行の支店がA市にもあったので、そこの小切手で支払ってもらう。
登録証等の書類は用意してあり、今日の日付を記した物にサインをして右上を切り取る。
「悲しんでばかりもいられませんからね。バルバラの分も楽しく生きていきます。マドモワゼルも、お元気で」
書類と車のキーを受け取ると、ウジェーヌはそう言って、購入したばかりのトラクション・アヴァンに乗って帰って行った。
アパルトメントの玄関先で見送ったローズは、心許ない気分だった。
弾むような足取りで運転席に乗り込んだから、多分、ウジェーヌには満足な買い物だったのだろう。
ローズも、初めに聞いていた金額よりずっと高く売ることに成功したので、喜んでいいのだろうか。
疲れ切って室内に戻ると、キッチンのドアを開けてエドモンが笑いかけてくれた。
「お疲れさま。お湯を沸かしています、お茶にしましょう」
ローズは駆け寄って、口早に問うた。
「あのお値段で旦那様は許してくださるでしょうか」
「無論です。かなりの利益になりました。ローズにもボーナスが出ますよ、きっと」
「利益が出たんですか、良かった……」
胸を撫で下ろすローズの前で、エドモンはニヤリとした。
「ムッシュ・カイレ、気前のいい人で良かったですね」
「ホントに。でも大丈夫なんでしょうか、今回の遺産を殆ど使ってしまうことになったような……」
「元々宝くじの当選金でしょう? 欲しい物が買えて良かったんじゃないですか」
「わたし、クラシックカーがあんなに高いなんて、知りませんでした」
屋敷にはもっと高いのもありますよ、とエドモンは快活に笑う。
うっかり傷でもつけたら大変だ。ローズは、屋敷の車庫へ不用意に近づかないようにしようと心に決めた。