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約束の日、エドモンが車で駅まで迎えに行ってくれて、ウジェーヌと今一人がアパルトメントにやって来た。
母と絶縁状態でなければ義父と呼んでいたかもしれない人は、傷心旅行にしては派手な柄物のネクタイをして現れた。
玄関ドアの前でローズはC六号と出迎えたが、ウジェーヌは車を降りるなり、そわそわと左右に横歩きして黒光りする車体を眺めていた。同道の壮年男性の方が、先に挨拶してくる。弁護士ということだった。
弁護士が挨拶していることでようやくこちらの存在に気づいたかのように、ウジェーヌは両手を少し広げて歩み寄って来た。
「あぁ、この度は何と言っていいのか――」
ビズゥをするような体勢でウジェーヌはローズの方へ顔を出しかけたが、C六号がにゅっと両手を彼へ差し出した。
「遠くから、ようこそ」
「やぁ――いや、ここは静かでいい所ですね」
ぎゅうぎゅうと二人で握手している間に、どうぞ中へ、とローズはぎごちなく笑んで玄関を開けた。エドモンが運転席からちらりとこちらに青い目を投げ、片手を上げて車を車庫へ回して行く。
アパルトメントに入ると、黒地のスリーピーススーツをさらりと着こなして、シェリフがキッチンから出て来た。上着がややロングで、古風ながらノーブルな仕立だ。
「はじめまして、弁護士をしております、サニエと申します」
ぬけぬけと詐称し、お話は上で、とシェリフは階段を示す。壮年弁護士は、お若いですね、とコメントした。なり立てです、と青年俄か弁護士は微笑する。
二階のリビングで、一同はテーブルに着いた。
ローズが用意しておいた珈琲を、C六号が各人の前に出してくれる。
綺麗な所作で辞儀をしてC六号がリビングから消えると、本題に入った。
既に知らされていたバルバラが倒れて亡くなった時の話に始まり、遺産について纏められた書紙が壮年弁護士から提示される。金額も事前に判明していたモノだった。
バルバラの買った宝くじが高額当選したことは、ウジェーヌも知っていた。大金だったので、小切手で持ち帰ろうとした彼女を説得し、銀行へ預金させたのは彼だったそうだ。
死亡で凍結された口座を解除する段になって、その権利が夫以外にあることが明らかになった。バルバラのただ一人の実子――ローズだ。
「僕等はまだ新婚で、遺書に関してまでは話し合ったことが無かったんですよ」
ウジェーヌはそこで言葉を切ると珈琲のカップを傾ける。弁護士が後を受けるように説明した。
「つまりですね、マダム・バルバラは遺言をしなくても、財産はムッシュ・ウジェーヌへ贈与されると思っていたようなんです」
母ならありそうなことだと、ローズは黙然と弁護士を見つめる。弁護士は革の鞄から、別の書類を出してきた。「類推する根拠はこちらに――結婚前の契約書です」
もしも残念ながら離婚することとなった時の、主に財産に関する契約書だ。
項目はごく少なかった。バルバラとウジェーヌは、財産を合計してから等分することにしていたようだ。
結婚前の財産も含めた一切合財を等分する気とは、熱に浮かされて決めた感がある。
互いに大した財産を持たない若いカップルの選択に多いが、バルバラは四十過ぎだった筈だ。ウジェーヌも同年代と思われる。
何かのキャラクタのようにも見えるウジェーヌのネクタイ柄を、ローズは上目づかいに見た。小さく散りばめられていて判然としないが、馬だろうか。
隣で書類に目を落としていたシェリフが、会談が始まってから初めて発言した。
「ムッシュ・カイレ、お子さんに関することが契約書に無い理由を伺っても?」
「僕も再婚なんですが、前妻との間に子供は居ません。前から、子供は別段、望んでいませんでした。今回はバルバラの歳を考えてもね。だから、決めなかったんですよ」
ウジェーヌは、ふぅと淋しそうに息をついた。「ショックですよ。お互い、隠し事は無いと信じていました。けれどバルバラ、娘が居るなんて一言も言ってくれなかった」
間を置かずに弁護士が言葉を添える。
「子供に興味の無いムッシュに、言う必要も無いと考えていた節があります。何より、マダムとマドモワゼルは、ほぼ断絶していましたよね」
「かれこれ十五年は」
ローズは苦笑気味に首肯する。重々しい表情で弁護士は頷き返した。
「ムッシュとの結婚時に、マダムはマドモワゼルのことは念頭にも無かったんじゃないでしょうか」
「そうでしょうね」
だのに遺産がローズに行きかけているなんて、皮肉な話だ。思わぬ大金が当選して、使い道をあれこれ考え、喜々としていたのだろうに。
美味しく淹れた自信があるものの、ローズの前に置かれたカップの中身は、減ることなく冷めていく。
シェリフは先程から品良く飲んでいる。又一口含んでからカップを置くと、その前で両手を組んだ。
「ムッシュ・カイレ、マダムが貴男の前に結婚していた相手は御存知ですか」
ウジェーヌはきょとんとした。
「僕の前と言うと、マドモワゼルの父親――ムッシュ・ファロですか?」
「違います。マダムは四度結婚されている。貴男と結婚される前の夫君には連れ子が居ました。離婚時の親権はそのまま夫という契約で結婚なさり、綺麗に別れています」
初耳のことが含まれていた。しかしながら、その内容以前に、ローズは妙な点に感心してしまった。
離婚手続はすんなりいっても数ヵ月かかる。相当面倒だろうに、母はよくもまぁ三度も繰り返したものだ。
唇をすぼめてローズがシェリフを見やると、弁護士が口を挟んできた。
「それが本件とどういう関わりが? 亡くなられたマダムの、本件に関わりない過去を暴くようなことは慎むべきかと」
ブルーグレイのタイをほんの少し緩めるように指を掛け、シェリフは弁護士を一瞥した。
「失礼。依頼人の名誉の為に申し上げました。実子に限らず、マダム・カイレは全ての子供に関心が薄い人だったのではないかと」
弁護士は先般のバルバラとローズに関する自論に思い至ったのか、小さく咳払いした。ともかく、と話の軌道を戻してくる。
「わたしとしては、マダムの遺志はわたしの依頼人にあると判断しています。見たところ、マドモワゼルは裕福な暮らしをなさっている。お互い、無用な裁判は避けたいですね」
〝裁判〟の一語にうろたえ、ローズはシェリフに目を投げる。本当は主である人のエメラルドグリーンの双眸が、ほわりと細まった。
「少しお時間をいただきます。珈琲のおかわりを運ばせましょう」
促されるまま、ローズはシェリフに連れられてリビングを出た。
数十分後、リビングに戻ったローズは、相続放棄する旨をウジェーヌと弁護士に告げた。
以降の話し合いはスムーズに進み、一週間後、公証人による正式な手続と書類作成が行われることになった。
次の日、ローズはぼんやりとキッチンに立っていた。
一週間はA市にとどまると確定したわけで、少し日持ちのする簡単な料理を作っておくつもりだ。
鍋の中では豆のフランス風煮込みが、くつくつと音を立てていた。
グリーンピースがだいぶん柔らかくなったろう。そろそろ落とし蓋を取り出す頃合いだ。
塩や胡椒、バターを用意していると、C六号がキッチンに入って来た。ローズは時計に目を走らせて焦る。午後三時が近づいていた。
「お茶ね? 少し待ってください」
はい、とC六号はこっくり頷く。ローズは鍋の火を極限まで弱め、隣のコンロにやかんを置く。
「手伝います」
「ありがと――ソーサーとカップをお願いします」
茶葉とガラスポットを取り出してから、ローズは鍋に向き直る。落とし蓋を外して二度目の味付けをし、味見。ちょっと濃くなってしまったかもしれない。ミキサーにかけてスープにした方がいいだろうか。
ひとまず鍋の火を止め、やかんの方を注視するとC六号が横に並んだ。
「ムッシュ・シェリフが、お茶を一緒にと言ってました」
「そうですか。エドモンさんも……?」
早朝から何処かへ外出した執事は、昼食には戻って来なかった。
「先程、連絡が来ました。明日の夕食までには戻れるそうです」
そう、とローズは湯気が出始めたやかんに目を落とす。
何か、今回のことで迷惑をかけていないといいけれど。
相続放棄はウジェーヌに会う前から漠然と選択していたことだったし、結局そうしたことに後悔は無い。
一旦リビングを退出した時、君の思うように、とシェリフも言ってくれた。
ただ、俄か弁護士はこうも言った。
『俺は、マダム・バルバラの遺志は君に向いていると思っている』
『え……』
ローズは信じられなかったが、シェリフはネクタイを緩めてから、長い睫毛を伏せ気味に続けた。
『マダムは結婚を四度経験し、最初以外は契約書を作成している。子連れとも結婚したことで、自分が死んだ時の財産相続権が先ず君にあると知っていた筈だ。だから、敢えて遺書を作成しなかった。最終的にあれほどの額を遺すつもりだったかは判らないが、誰に遺すかという一点に於いては君が頭にあったに違いない』
『そんな――だって、どうして……?』
『君を捨てたつもりでいても、心の奥底で、完全には切り捨てられずにいたんだろう。でなければ、その都度、遺書を作成しなくてはおかしい。離婚よりずっと簡単に、作成も破棄もできるんだから。俺は、そう考えている』
そう、考えているが……と、シェリフは苦く笑んだ。『証拠が無い』
やかんが鳴き出し、ローズは火を止める。ミトンの鍋掴みでやかんをコンロから降ろし、茶葉の入ったポットに湯を注いだ。
透明なポットの中で踊る茶葉を眺めつつ、独り言のようにローズは尋ねた。
「エドモンさん、今日はどちらへ……?」
寄り添うように黙って立っていたC六号が、生真面目に反応する。
「屋敷です。ムッシュ・カイレは最近、クラシックカーにも興味があるとか。それで、旦那様の一台を見せびらかしてみるそうです」
ローズは車にもてんで詳しくないのだが、昨日のウジェーヌの様子からすると、シェリフが常用しているのはいい車なのだろう。
それにしても、見せびらかす、という表現が、何やらエドモンにそぐわない。言い出したのはシェリフか。彼なら似合うかと言うと、やはり何処となく違う気もするが。
取り敢えず、今日のエドモンの外出はある種、趣味の一環のようで、ローズは安心した。
何だかんだ、今回の遺産相続の件で当事者のローズがしたことと言えば、ウジェーヌへの連絡と相続放棄を告げただけだ。他の対応は、全てシェリフとエドモンがしてくれている。公証人も、マーニュ家専属の人が来てくれるそうだ。
ローズが後できるのは、来週、書類にきちんとサインすることぐらいだろう。
もはやこれ以上の手間を雇い主達にかけずに、片づいてくれることを祈るばかりだった。
紅茶を乗せた盆を持つC六号に続いて、ローズは階段を上がった。
二階が近づくと、ピアノの音が聞こえてきた。
知らないメロディだ。片手で弾いているのか、ゆっくりと優しい印象。子守唄のような……
C六号がそっとドアをノックすると、音がやんだ。どうぞ、と返って来る。
リビングに入れば、シェリフが片隅にある電子ピアノのスツールから立ち上がったところだった。今日はTシャツにデニムジーンズだ。昨日の恰好の方がピアノには似合っていた。
シェリフとローズが席に着き、テーブルに茶器と小ぶりのマカロンが並ぶ。
さっきの綺麗な曲でした、とローズが言うと、シェリフは口角を上げた。
「映画で使われた曲だ。俺の母さんが好きだった」
そういえば、シェリフ様は結構早くにお母さんを亡くしてたっけ。
十年以上経っているらしいから、少しは話題にしても大丈夫だろうか。ローズは、ソーサーとカップを手にしながら訊いてみた。
「奥方様、映画が好きだったんですか」
「まぁ、人並に? 物語が好きで、夢見がちな人だったよ」
さらりと答えてくれて、シェリフはカップを傾ける。くすりと短く笑声をこぼした。「俺を異世界で産んだと話してくれた。色々と、当時の状況を細かに」
「――楽しそう」
ローズは、そんなことを母にしてもらった記憶など皆無だ。両親は二人共、家を空けがちだった。
「なかなか巧い語り手だったよ。とても空気の美味しい、清々しい世界だったそうだ。精霊も実在するらしい。その精霊が守護をしている人物が、医者のような職業で、出産を助けてくれたとか」
なるほど凝った作り話だ。ローズはカップを持ったまま、続きが気になってシェリフを見やる。
おどけたように眉を上げ、青年は続きを語ってくれた。
無事に子供が生まれ、こちらに帰れるか判らなかったから、ひとまず生まれた子にはあちら風の名前をつけた。
数日後、あちらの風習に従い、子を清める為に泉へ入ろうとしたら、元の世界に戻っていた。
こちらの世界も、あちらで過ごしただけ日が流れていた。臨月だった奥方が忽然と消えていたのだから、屋敷は大騒ぎになっていた。
事情を説明したものの、何処で産んだか知らないが、産気づいてパニックになっていたのだろうと片づけられた。母子共に無事だったことから、良かった良かったと一時の失踪についてはそれきりになった。
「あの世界に、もう一度行けるなら行きたい、と母さんは言ってた。ロトと風の精霊にちゃんとお礼を言いたいから、と」
宝くじみたいな名前の医者ですね、という感想は呑み込んで、ローズは小首を傾げる。
「シェリフ様の名前って、あちらのモノだったんですか?」
いや? と空になったカップとソーサーを、シェリフはテーブルに置いた。
「ソウト・マーニュ・アリクというのが、あちらの名前だ」
「へぇー」
「シェリフの名は祖父さんがつけた」
「――わたしも、名づけは祖母です」
「ふぅん?」
「なんか、変な由来なんですよ」
ローズは思い出して肩をすくめた。「曾祖母が日本人だったから、祖母は日本語が少しできたそうです。それで、わたしが生まれた時、母から一部、名前を取ったんだそうです」
「〝バラ〟か」
あっさりと言い当てられて少々驚きつつも、ローズは頷く。
「音が、日本語で薔薇のことなんだそうです」
「うん、洒落てる……その話は、マダム・バルバラに聞いたのかい?」
「……えぇ」
シェリフの母がしてくれたお伽噺には及びもつかない、短い話だ。
「やはり、マダムは、君を忘れることはできなかったんじゃないかな」
己が腰を抱くようにして、シェリフは長い足を組んだ。「ブランクが大き過ぎて、もう、親と称することはできなかったんだろうけどね」
くいとローズは紅茶をあおった。ブランデーを混ぜたいところだったが、そのまま空ける。
「わたし、動作がとろいのって母に似たんだと思います」
ふぅん、とシェリフは唇の端をちょっぴり上げる。ローズはマカロンを半分にちぎりながら、ぼやいた。「今頃になって……お金とかね……」
ただ傍に居てくれるだけでも良かったのに。
静かにシェリフが立ち上がり、ピアノへ移動する。
奏で始めたのは、先程の曲らしい。片手で、単音で。短い曲。
さっきは温かく聴こえたけれど、今度は淋しく聴こえた。
もどかしい、母と自分のような曲。
傍に居てくれたら、もう少し思い出もあったかもしれないのに。
名づけの話をしてくれた顔さえ、思い出せない。
シェリフ用に甘さを控えて作ったマカロンは、やや塩味がした。