2
翌日はあまり思わしくない空模様で、雨が降ったりやんだりしていた。
雨がやんだ隙に、ローズは同い年の先輩メイドと、ごみを専用倉庫へ運ぶ作業をしていた。
ビニール地のエプロンと手袋を嵌め、使用人玄関と倉庫をせっせと往復する。
膨らんだ最後の袋を運び入れる寸前、再びぱたぱたと地面が濡れ出した。先輩と二人、急いで倉庫へ走り込む。
あっと言う間に、バケツを引っくり返したように激しく降り出した。開け放しの出入口から見える煉瓦道に、次々と水滴が当たっては跳ね返り、小さな飛沫が散る。地表付近がうっすらとけぶる程だった。
「ちょっとこれは――今出たら、ずぶ濡れになっちゃうわね」
休日や敷地の外へ出る時以外の先輩は、やや化粧が薄い。それでもローズよりはずっとくっきりとした色の口を曲げて、先輩は出入口の庇の辺りまで足先を出し、濃い灰色の空を窺った。
雨があがったら虹が出ないかと期待しつつ、ローズも一緒に上方を眺めやる。真っ直ぐに、白い筋となって見えるくらいに降っていた。
数分しても、雨脚は衰える気配が無かった。
木製の屋根を叩く重めの雨音が、倉庫内に無数に響き渡る。
そのBGMに飽きたのか、先輩がつやつやしたオレンジ系の唇を開いた。
「あのさぁ、冬にA市に行った時、何か無かった?」
ローズは、答に詰まった。
ノエル間近に、あったことはあった。
シェリフのフリをしていたC六号が誘拐された。その日の内に、平然とエドモンが連れ帰って来たけれど。
ともあれ、そんなことを軽々しく話すのは拙い気がする。
「えーと……特に……?」
「ホントにぃ? シェリフ様に迫られてない?」
「え?」
〝何か〟の種類が違ったようだ。
そういえばシェリフには、使用人の間で、女癖が悪い云々の噂があった。すっかり忘れていた。
ちょっと笑いながら、ローズは言を継いだ。
「わたし、シェリフ様のお好みじゃなかったんですね」
「でも昨日、抱き寄せられてなかった? 遠くからだったから、はっきりは判んなかったけど」
あの〝セクハラ〟か。ローズは肩をすくめる。
「昨日は〝うっかり〟を忠告されました。それだけです」
「何か弱みを握られて、脅されたりしてないでしょうね。そんなことになったら、ちゃんと言ってよね。大人しく追い出されることないわよ、メイド一丸でスト起こすことだってできるだろうしさ」
先輩は口を突き出して言う。意外な申し出に、ローズはどぎまぎと頷いた。
「シェリフ様、そういうこと、しそうにないですけど……」
「でもローズが来るちょっと前に、一人、シェリフ様絡みで辞めてったのは事実よ」
戸枠に寄りかかり、先輩は綺麗に描いた眉をひそめた。「まぁ、わたしも新入りだったし、詳しくはないけど」
結局のところ、自分の感覚を信じるしかない気がする。
「A市では、皆さん紳士でしたよ」
だから、ローズはそう言うにとどめた。
ほどなく雨がやみ、先輩と屋敷へ戻ったローズは、メイド長に呼び止められた。当主の執務室へ行くようにと言われる。
「一人で、ですか」
「取り敢えずは。わたしは後でいつでも力になりますよ。ともかく行ってらっしゃい」
急かされて、ローズはビニールの手袋とエプロンを外す。
アルベールに会えるのはささやかに心躍ったが、一人となると不安でもあった。
受け継いだ大叔母の遺産は無駄遣いしていないから、何かあるとすれば彼女の後任で始めたメイドの方だ。
この二年弱、頑張ってはきたけれど、旧家のメイドとしては落第となってしまっただろうか。
お入り、との許可が聞こえ、ローズが緊張して執務室に入ると、銀髪の美男は大きな執務机を前にして悲しそうな顔でこちらを見た。
「先程、連絡が来たんだけど……マダム・バルバラが亡くなられたそうだ」
ほんの刹那、誰? と思ってしまった。思ってしまったことに、動揺した。
「母、ですか……?」
「元の姓はレスコー。結婚で、ファロの後、二つ経て、亡くなられた時はカイレのようだが……」
さしもの覚えの悪いローズも、実母の結婚前の姓は覚えていた。
「母ですね……」
絨毯張りの床に目を落とし、ローズは顎を引く。
大叔母の死を知った時は、酷く喪失感に苛まれたのに。
実母の死は、ソレを知ったという感覚ぐらいしかない。
ローズが七歳の時に離婚した両親は、親権に関しても揉めていた。実情は、権利を巡ってではなく、義務を巡って。
婚前にきちんと取り決めていなかった所為で揉めに揉めた末、ローズは父親に引き取られた。後になって、養育費をより払える方が引き取るべきだとの、母の主張が決め手になったと聞かされた。
「脳梗塞で倒れて……そのままだったそうだ」
アルベールは静かに告げた。「葬儀は済んでしまったらしい。君のことを、ムッシュ・カイレは知らなかったそうで……」
曖昧にローズは頷いた。死因にも葬式にも、関心が湧いていなかった。
「絶縁状態でしたので、仕方ありません」
「うん……だけど、ローズ、君に遺産があるそうだ」
「は――?」
大叔母が遺してくれたのも意外だったが、養育費を出し渋った母が遺していたなんて耳を疑った。
「あるそうなんだよ。オレリア程の額ではないようなんだが。それで、ムッシュ・カイレから連絡が来た」
知らせらしき紙面に淡々と緑眼を投げ、アルベールは革張りの椅子の背にもたれた。「君は喪中でもあるわけだし、有給休暇を出す。A市辺りで会談を設けるといい。例のアパルトメントを好きに使っていいから」
「……御迷惑をかけて、申し訳ありません」
大叔母の時はアルベールと公証人がきちんと手続をしてくれたので、ローズは整った書類を見せてもらってサインをしただけだった。
しかし今度は、マーニュ家は本来、何の関わりも無いことだ。ローズが自分で弁護士などを手配しなければならない。
クビになるよりはずっとマシな事態だったが、初めてのことで目眩を感じた。何から手をつければいいのか……
とにかくもローズが一礼して退室しかけると、それからね、と当主が付け足してきた。
「わたしは一応まだ、書類上では君の財産管理を委ねられている。今回の相続に関しても発言権があるので、代理人を同行させてもらうよ。解らないことがあったら、相談するといい」
「――ありがとうございます、助かります」
安堵で、声が震えそうになった。
アルベールは、優しく微笑をくれた。
休暇をいただくことになったと伝えに行くと、既に話は通っていたのか、メイド長はぎゅっとローズを抱き締めてきた。
「落ち着いたら戻って来るのよ。待ってますからね」
大叔母にされた心地で、はい、とローズははにかむ。
そのまま休暇に入っていいと言われ、ありがたく甘えることにした。
宛がわれた私室に戻って荷作りを始めると、ドアがノックされた。開ければ、姿勢良くエドモンが立っている。
「明朝には出れそうですか?」
訳知り顔で問われ、戸惑いながらも、多分、とローズは応える。ではそのつもりで手配しますね、とエドモンが目を細めるので、ローズはおずおずと青い瞳を見た。
「エドモンさんが、旦那様の代理人をしてくれるんですか?」
「いえいえ。執事は補佐でしかありませんよ。今回は、坊ちゃんが代理を承りました」
ローズは小さく口を開ける。エドモンは、笑んだまま続けた。「大丈夫ですよ、坊ちゃんはこういうのも得意ですから」
何となくそれで納得できてしまうのが、かの青年の特異なトコロだった。
翌朝、ローズは、シェリフ、エドモン、C六号という、先の冬とそっくり同じメンバーでA市内のアパルトメントへ出発したのだった。
アパルトメントに着いてすぐ、母の最後の伴侶となったウジェーヌ・カイレ氏に連絡をとった。
電話で話した印象は、気さくな人だった。傷心旅行も兼ねたいそうで、県外から出向いてくれると言う。翌週、ここで会うことが決まった。
ローズの報告に、傷心ねぇ、とシェリフは三階の私室で半眼を閉じた。
「まぁ、遺書で示してもらえなかったわけだもんな。遺産は最愛の伴侶に譲る、と」
マーニュ家のコネクションで調べたところ、今回の遺産は遺言に因ってローズに来るモノではないらしいのだ。
遺言が無かったが故に、来るようなのだ。
財産の相続順位は先ず子供にあり、バルバラは結婚回数の割に、子はローズしか居なかった。
遺産の総額は、一人なら一、二年働かずに暮らしていける程度。こつこつ貯めたのではなく、あぶく銭。亡くなる少し前、たまたま宝くじが当選して転がり込んで来た代物だった。
何処までも、幼心にぼんやりと覚えている母らしい感じだ。行き当たりばったりな生き様が滲み出ている。
己の生き方も似たり寄ったりで、ローズは溜め息をつきたい気分だった。
「わたし、正直なところ、要らないです。幸い、お金には困っていませんし」
「そういう風に話をつけても構わない。決定権は君にある」
シェリフは応じて、目を眇めた。「俺としては、カイレ氏を見てから決めたいが。金だって、どうせなら有効に使ってほしいだろうからね」
「じゃあ、やっぱりムッシュ・カイレが相続するのがいいんじゃないですか?」
「ローズの口座に入ってもいいと思うが? 君は滅多に引き出さないから、銀行としても助かるだろう」
「そういうものですか……?」
「銀行は、金をただ保管しているわけではないよ」
よく解らなくて、ローズは、はぁ、と相槌を打つ。
シェリフは、デスクに頬杖をついた。
「ところで、ローズ、紅茶淹れてくれないかな。賃金は後程、纏めて請求してくれていいから」
「わたし、ここに滞在中も、お給料を貰っている身ですよ。お持ちします」
ローズは笑って退室する。
ドアが閉まると、青年の傍らに佇んでいたC六号が、ムッシュ・シェリフ、と口を開いた。
「お母さんが亡くなるのは、悲しいことではないんですか」
「悲しいことだ」
頬杖をついたままでシェリフは教える。「C、人の心は、見かけだけでは判断できないこともある。ただ、ローズは見かけどおりの感情しか、母親にいだいていないかもしれないけどね」
オレリアが亡くなる直前まで気にしていたわけです……と、やはりシェリフの横に居たエドモンが小さく言う。
ちょっと解らないです、とC六号がぽつんと述べた。
「ちょっとで何よりだ」
シェリフは唇の片端を上げた。