クロストーク
十月も半ばを過ぎた薄曇りの朝、少年は大学寮の自室で、整然と日本語が並んだ葉書に目を落としていた。
枚数は五枚。差出人の住所氏名は同じ。メッセージはどれも一行。
【八月に妹と弟が出来た】
最新の一行に目を走らせ、後三ヵ月で十二歳となる少年は一つ息をついた。
自分は、又、間違ったかもしれない。
事ある毎に、数ある選択肢の中から、最良の手段を採っている自信はある。ただそれは、一番適当だっただけで、全てに於いて完璧ではない。
所詮、人間には、完璧にできることなどないのだろう。
だからと言って、その結論で終わらせてしまっては凡夫だ。
葉書をファイルに挟むと、少年はバックパックに入れた。ファスナを閉めたところで、近づいて来る急いた足音を捉える。
腕時計を見て、変声期前の細い声が呟いた。
「予想通り」
子供であるが故に犯した、もっと歴然とした間違いが、具象化してやって来る。
ココンッ、とせわしないノック音に、少年は表情を澄ましたモノにして応じた。勢い良くドアが開く。
実験チームを組んでいた一人が、肩で息をしていた。少年の次に若い、二十代の助手だ。おはよう、も無しに、切り出す。
「ま、間に合、た――きょ、教授が、君を止めるように、と……」
「と言っても、もう空港に行かないと。土壇場に何です?」
「とぼけないでくれ。あんな強力なウイルスを作れるのは君ぐらいだろう!?」
「朝から早々、あっちを開いたんですか」
少年は片目を細めた。「本論を纏める作業が先だと思ったのになぁ」
助手青年は、既に冬の装いに入っている十月のカナダで、額から汗を流していた。
「君はすぐ帰国すると言うから知らせなかったんだけど、今回のプロジェクトで得た結果論文は、教授ではなくて、ノーマン博士が代表作成することになったんだ」
ふぅん、と少年は冷笑した。
「角突き合わせてギリギリまで揉めると思ったら、教授は筆頭を譲ったんですか」
「つまらないことで、将来君にプラスになる人との間にしこりを残すものか。教授は今後、君の後見人に徹すると、宣言されたんだから」
「あはは。嫌だなぁ、冗談でしょ。あそこで聞いたみんな、誰も本気にしてないですよ。僕も、聞き流してる」
「えっ、し、しかし、教授が協力して下さる、君の、あの素晴らしい理論は――」
「教授には、学術的に一割。金銭的に九割ってトコロかな?」
助手は目を彷徨わせた。
「な、何を……」
「貴男さ、ウイルス製作者を僕だと推察できるなんて、見所がある。そろそろいいように使われていないで、余所に移ったら? 他に誘いはあるんじゃない? 裏で囁かれてるよ、プレ教授の論文はゴーストの臭いがするってね」
青年は口を開閉させたが、言葉は発しなかった。
自嘲の笑みを口角に浮かべ、少年は言を継いだ。
「僕は馬鹿だったよ。噂を知っていたのに、ちらっとでも展開式を見せちゃって……自分でもあんまり面白い閃きだったから、ついつい我を忘れてた」
少年は肩をすくめた。「でもまさか、ああも露骨に横取りを表明してくるとはね。僕には尊敬すべき父が存命だ。他の後押しなんて要らないのに、後援者に成りすまそうなんて、嗤わせる。本人、道化の自覚無いのかな」
青年は、赤から青へと顔色を変えた。震えた声で問う。
「き、君、ど、何処まで、察してる……?」
「回答範囲の広い質問だな」
バックパックを膝に抱え、少年は指先を顎にあてた。「結論を言えば、あのエネルギー生成理論は僕の発想だから、発表したくなったら僕が発表する。例え実用化にここの設備が最適だとしても、やがてもっといい装置が出て来るから、それで釣ろうとしても無駄だ」
「――し、しかし――」
「それからね、着想はわたしが与えたんだ、なんて、教授は言えないよ。この部屋に貴男が忍び込んで方式を写し取ってるのは、しっかり録画してあるから」
「な、何の――」
話だ、と続くのは判っているので、少年は教えてやる。
「僕の実家、こういうの得意だから。超小型隠しカメラなんて、出回ってるのより高性能なのを試作してみたりして。面白半分に、外出時は起動させてたんだよ」
助手が息を呑む音が、妙に大きく響いた。
椅子から立ち上がり、少年はバックパックを肩に掛けた。
「教授に発想を聞いてもらったのは間違いだった。間違いに気づいて、そのままにしておくのは僕のやり方じゃない」
管理人に返す部屋の鍵を、少年は指に掛けてくるくると回した。「僕のノートに入れていたのは昨日抹消した。貴男がこの部屋で書き取ったメモも見つけて処分したし、データ複写していた研究所内のディスクも壊しておいた。ハードに保管されていたデータは、今日、貴男がプログラムを開いた時点で二度と再生できない。プリントアウトしていないことは知っている」
九割型完璧だ。少年は回転する鍵をぱしっと握った。
愕然と立ちすくんでいた青年は、ハッとしたように一歩踏み出した。
「き、君、マスタのディスクかチップは持ってるんだろう」
助手はぎごちなく笑った。「きょ、教授は確かに、君が理論を完成させたら自分の名前で売り込むつもりだったろう。で、でも、僕は、君の権利をないがしろにはしないよ。二人で完成させ、連名で発表しよう」
少年は、卑屈な笑顔から目を逸らした。
「嫌だね」
「な――」
「貴男はいずれ、売ってしまうだろう。生活に生涯困らないどころか、他の好きな研究もやれるだけの利益が簡単に得られるんだから」
上目づかいに、少年は青年を見据えた。「教授も貴男も、過去に先達が導き出した画期的なエネルギーが何に結びついたか、失念している」
ニトログリセリンのダイナマイトも、原子力の核反応も、殺戮の道具とされてしまった。
「僕はあの理論を、世の中に公開するつもりはない」
少年が断言すると、助手は目を剥いた。
「実用化させないなんて、地球規模の損失だっ! 僕等は一日でも早く、資源エネルギーに変わる新たなエネルギーを開発すべき――」
「はっ! そうやって本当に使って欲しい場面に登場するのは、大量に命が消えてからだ。先ず使うのは、新兵器を人体実験してみたい奴等に決まってるっ。わけの解らない新種のエネルギーを買える輩はそんなのばっかりだ!」
「シェリフ、君は視野が固定されてしまってる。僕はそんな方向へ持って行く気は無い。あの理論に大いなる展望を持っているだけだ。頼むからマスタを置いて行ってくれ」
嘆息して、少年は一つ首を振った。
「僕は宇宙線を研究しに来たんだ。プロジェクトは終了した。何の話か解らない」
「君は――君は子供だから、何にも解っちゃいないっ」
だっと助手は飛びかかって来た。少年はすいと身を引く。青年は机に突進し、椅子を跳ね飛ばした。「おっ、おとなしく寄越しなさいっ――その鞄の中だねっ!?」
腰を落として突っ込んで来た青年の脇に、少年は流れるように移動した。すれ違い様、首の後ろに一撃を加える。げぅっ、と声を洩らし、助手青年は床に倒れ込んだ。
少年は顔をしかめ、痺れた片手をひと振りした。自分は肉体労働派ではないと、実感する。
「僕は、ソフトを持ち歩いたことはないんだ」
「……うう……」
朦朧とした目つきを上げかけたが、青年は失神する。
もう、あの理論はこの中にしか入ってない。
こめかみをつついてから、少年はパックを背負い、部屋を出て行った。