誰もいないはずなのに
ペタリ、ペタリ。
草履の足音だけが、やけに響く。
空気が、少しだけ重い。
誰もいないはずなのに……。
※※※
四時半。
いつも通りのアラームに、うんざりしながら起き上がる。
通知には、
『愛してる』
の文字。
ウソツキ。
誰に対しての言葉だろう。
東京の朝は、忙しない。
宙に浮く体。
はぐれそうになる鞄を、必死に抱き留める。
誰かの、湿った息。
腿に触れる手。
……気持ち悪い。
「おはようございます」
誰も応えない挨拶を、ポツリと呟いて、席につく。
昨日、綺麗に片付けたはずの机には、書類が散乱している。
付箋には、
『至急』
と、殴り書かれていた。
「…………」
いつも通りの朝だ。
「あぁ、キミ。これ、三十部。至急ね」
返事も聞かずに、そのまま去っていく背中。
私は、ぼんやりと眺める。
どれも、至急。
机の上に、同じ文字が並んでいる。
急がなくていい仕事は、どれだっただろう……。
手だけが、自動で動く。
思考は、必要ない。
締切までの時間を、ただ、ひたすら駆ける。
急に、わっと声が上がる。
その声に、ピタリと手が止まる。
「部長、ご結婚おめでとうございます」
誰と、誰の結婚だろう。
通知画面の、
『愛してる』
という言葉が、脳裏に浮かぶ。
……ウソツキ。
浅くなる息、平静を装いつつ止まった手を動かす。
「ねぇ、聞いた? 部長のお相手。あのオーナー会社の娘さんだって」
「この前、WEB記事みた! 若いし、綺麗し、やり手って完璧かよ」
「まぁ、うちの部長も負けてないよね」
真横から聞こえる声に、
「えぇ」
とか、
「まぁ」
とか、適当に返事をする。
今、その部長の資料を作っているのだ。
彼の名前で。
「これ、良かったらみんなで」
「えっ、いいんですか? めちゃくちゃ手に入らないって有名なやつ。 遠慮なく、いただきます!」
部内のお局的な彼女に、お土産を手渡す、彼。
それは、昨日、私が買ったものなのに。
どこかが、チクチクする。
早速、お土産を手に給湯室に駆け込んでいく彼女。
空いた席に彼は軽く腰掛けて、私に問いかける。
「アレ、聞いたの?」
断言しているみたいな、質問。
「……はい」
「そう」
「おめでとうございます」
言葉だけが、通る。
声は、ノイズみたいに遠くで鳴っている。
「書類、できたね。持っていくから、用意しといてね」
離れていく背中。
私は、パソコンの画面を見たまま、誰にも聞こえない声で呟く。
……ウソツキ。
どうやって、一日が過ぎたのか、よく、わからない。
外は、昼と夜の境目。
沈みかけた光が、目に、少しだけ痛い。
浅く、浅く、繰り返していた呼吸を、一度だけ、大きく吸う。
そのまま、吐き出す。
笑って、おめでとうと言う、わたしが……。
一番、ウソツキだ。
※※※
鏡の前で、同じように髪を巻く。
いつも通りの角度で、同じ形になる。
口元だけ、少し遅れて笑う。
そのまま、外に出る。
今日は、少しだけ息が重い。
頼まれた仕事を、そのまま受ける。
断る理由が思いつかない。
私の机の上だけが、書類で少しずつ埋まっていく。
通知が来る。
少しだけ迷って、そのまま閉じた。
着信が、続く。
画面に、見慣れた名前が出ている。
一度、止まる。
そのまま、少しだけ見ている。
音が鳴りやむ。
すぐに、また鳴る。
ため息を、飲み込む。
指が、勝手に動いた。
「ねぇ、今月中に十万。振り込んでくれない?」
声は、いつもと同じだった。
少しだけ間を置いて、
「難しい?」
と続く。
口を開く前に、うなずいていた。
通話を切る。
そのまま、しばらく動かない。
さっきよりも、少しだけ……。
息が浅い。
出金予定を、頭の中で組み直す。
足りない分を、どこから持ってくるか。
いくつか浮かんで、すぐに消える。
一つだけ残る。
電話をかける。
「あっ、ママ? ユリです。今月、ちょっとピンチで……」
間を埋めるみたいに、言葉が出る。
「うん、そうなの。今日?」
少しだけ考えて、
「仕事終わりで、二泊三日。うん、お願いします」
通話を切る。
そのまま、手が止まる。
すぐに、立ち上がる。
仕事を少しだけ早く終わらせて、フレックスの退社時間と同時に、会社を出る。
小田急線に飛び乗る。
息が、まだ浅い。
車内は、思ったより空いていた。
座席に体を預ける。
少しだけ、力が抜ける。
ドアが閉まる音が軽快に響く。
電車が、ゆっくり動き出す。
窓の外の景色が、流れていく。
見ているはずなのに、ほとんど、何も残らない。
同じような建物。
同じような明かり。
同じような人影。
どれも、少しずつ違うはずなのに。
全部、同じに見えた。
手の中のスマホが、わずかに重い。
通知は、来ていない。
それでも、何度か画面をつけては、すぐに消す。
向かいの窓に、自分の顔が、ぼんやり映る。
笑っていない。
※※※
箱根湯本は、観光客の高い笑い声と、途切れない喧騒に包まれている。
観光地独特の人々の熱気。
楽し気な明るい空気。
その中を、すり抜けるように歩く。
誰にもぶつからないように、誰にも触れないように。
私は、その輪の外にいる。
気づかれないまま、足早に、置き屋へ向かう。
「ユリちゃん、今日は和装でホテル花月。ちはや姉さんについて」
着いてすぐ、ママの声が飛ぶ。
頷くだけで、体が動く。
業務用の、個性のない仮面を外す。
代わりに、赤を足す。
急いで、鏡の前に立つ。
等身大の自分が、こちらを見ている。
疲れた顔に、ラメを乗せる。
少しずつ、光が増えていく。
最後に、紅を引く。
ぽってりとした、真っ赤な色。
昼間とは、まったく違う顔になる。
誰かに似せたわけでもないのに、別の人間みたいだった。
「ユリです、こんばんは。今日はどちらからいらしたの?」
甘ったるい声が出る。
どこから出ているのか、よくわからない。
言葉だけが、先に動く。
あぁ、はやく。
二時間が終わればいい。
帯に挟んだスマホが震える。
その振動が、直接体に触れるみたいに広がる。
ママだ。
画面には、
「次、スナック キャッセル」
短く、それだけ。
席を立つ。
「ユリちゃん、このあと残れる?」
ちはや姉さんから声がかかる。
振り向く。
「すみません。後口あるんで……」
「あら、そうなの残念。またよろしくね」
それだけで終わる。
引き止められることもなく、もう別の席に、声をかけている。
宴会場の喧騒を背に、従業員用の通路を足早に進む。
声はすぐに遠くなる。
自分の足音だけが、少しだけ残る。
履き慣れたはずの草履の鼻緒が、足の指の間に食い込む。
気にする余裕はない。
長い通路を足早に駆け、外に出る。
ホテルを出たところで、足が止まる。
さっきまで、雨が降っていたのかもしれない。
地面が、少しだけ湿っている。
空気が重い。
むっとした靄が、低くかかっていた。
暗い夜の中で帯に挟んだ端末が光っている。
さっきまではなかった通知に気づき、画面を開く。
『明日の夜、会える?』
短い一行。
少しだけ、指が止まる。
意味を考える前に、画面を閉じる。
靄の中で、息を吐く。
白くはならない。
ただ、少しだけ、重く落ちた。
私は、痛むはずの足を引きずりながら、少しだけ息を漏らす。
軽く、喘ぐみたいに。
それでも、そのまま歩き出す。
指定された、次の場所へ。
赤い欄干の、小さな橋を渡る。
そこから、急な坂を上る。
※※※
それだけだったはずなのに、どこかが少しだけ噛み合っていない。
橋を渡り、次にくる急な坂道に向けて、体を前に倒す。
そのときだった。
足元が、わずかに遅れる。
身体の重さだけが、残る。
息が、浅くなる。
空気が、少しだけ違う。
さっきまでと同じはずなのに、どこか、合っていない。
傾けた体重の行き場が、なくなる。
一歩、前に出るはずの足が、少しだけ遅れる。
そのまま、体が大きく前に崩れる。
手をついて、なんとか止まる。
息が、浅い。
そこで、初めて気づく。
いつも通っているはずの道が、いつもと同じではない。
同じ場所のはずなのに……。
わからない。
どこかが、少しずつ違っている。
一歩、踏み出す。
少し、深い。
さっきと、同じはずなのに。
足音が、遅れて聞こえる。
ペタリ。
ペタリ。
空気が、少しだけ重い。
誰もいないはずなのに……。
見られている気がした。
ポツリ、ポツリとあったはずの杉の木々が、いつの間にか、密集している。
隙間が、なくなっている。
さっきまでの道の形を、なぞっているはずなのに、見えるものだけが、少しずつ違う。
まるで深い森に、迷い込んだみたいだった。
「……っは」
ふと、息が漏れる。
少しだけ、苦い。
それだけのはずなのに、空気がほんの少し変わった気がする。
誰もいない。
音もない。
それでも、何かに触れられたかのような感じだけが、残る。
少しだけ開けた場所に出た。
ベンチがポツンとあった。
見覚えのあるはずの形。
そのまま、背を預ける。
座るほどでもない。
ただ、少しだけ体を支える。
木の匂いが、近い。
さっきまでよりも、ずっと濃い。
息を吐く。
さっきよりも苦い息。
そのまま、動けない。
また、通知が来た。
画面を開く。
『会いたい』
それだけだった。
さっきより、短い。
意味は、考えない。
指が、少しだけ止まる。
すぐに、画面を閉じる。
ベンチに背を預けたまま、息だけが浅くなる。
私は、ゆっくり息を吸う。
胸の奥まで、重く満たす。
少しだけ止めて、低く、重く、吐き出した。
音は、小さい。
それでも、何かがほどけた気がした。
風が、少しやわらかくなった気がした。
音が遠くなる。
理由はわからないけれど、ここにいてもいい気がした。
視界の端に、何かがあった。
気のせいだと思って、そのままにしていたけれど、少ししてから、もう一度だけ目を向ける。
そこに、いた。
ぬいぐるみみたいな形をしている。
きれいではない、布のかたまり。
元は白かったかもしれない。
汚れたような灰色と黒っぽいブチ。
どこか歪んでいて、縫い目も揃っていない。
何度も直されたみたいに、少しくたびれている。
誰かが長く使っていたものみたいだった。
もう一度、よく見る。
……かわいい、のかもしれない。
そっと、手に取る。
少しだけ、あたたかい。
やわらかくて、思ったより軽い。
そのまま持っていると、
「もう、我慢して持たなくていい」
ぬいぐるみから、急に声がした。
ギョッとして、思わず手を離す。
ぬいぐるみは、地面に落ちた。
それだけだった。
特に、何も起きない。
しばらく、そのままぬいぐるみを見つめた。
やがて、もう一度しゃがみこむ。
動かない。
しゃべらない。
そこにあるのは、少しくたびれていて、何度も直されたような跡がある。
誰かが長いあいだ大事にしていた、そんな愛着だけが残っている、ただのぬいぐるみだった。
目には、光がない。
黒にも見えるほど濃い瑠璃色。
光を受ければ、ほんの一瞬だけ青く煌めく。
サファイアのようなのに、何も映していない。
それなのに……。
覗き込むと、そこに自分の顔だけが、ぼんやりと反射していた。
少しだけ、口元が緩む。
どこか、間が抜けている。
……やっぱり、かわいいのかもしれない。
しばらく見てから、視線を上げる。
さっきと変わらないはずだった。
知っているままなのに、どこかだけ、少しずつ違って見える。
よく知っているような、知らない場所みたいだった。
体勢を崩したときに擦った着物の袖を、軽く手ではたく。
背もたれに預けていた身体を起こす。
回り込んで、袖口に入れていたハンカチを取り出して、ベンチに敷く。
そのまま、ゆっくり腰を下ろす。
身体の重みを、そのまま受ける。
ベンチが少しだけ、沈む。
何も考えないまま、ただ、今をぼんやりと見ている。
……何時だろう。
さっきまでいた場所。
やるべきこと。
戻ったあとのこと。
そのあたりを、ぼんやり考えていると、ふと、口の中が苦いことに気づく。
理由は、わからない。
ただ、少しだけ居心地が悪い。
そのまま、何もせずにいる。
いつの間にか、膝の上に、毛玉が乗っていた。
小さくて、やわらかい。
いつからそこにいたのか、まったくわからない。
そのままにしておく。
重さは、ほとんど感じない。
それでも、“いる”という感覚だけが残る。
指先が、そっと触れる。
やわらかい。
少しだけ、あたたかい。
久しぶりに感じる、感触と、体温だった。
指先で、しばらくその毛並みを撫でていた。
やわらかくて、あたたかい。
少しずつ、指に馴染んでいく。
膝の上で、もぞと動いた。
驚いて、手を止める。
毛玉は、また静かになる。
さっきまでと同じように、そこにある。
……気のせいだったのかもしれない。
そのまま、撫で続ける。
毛玉は、くるりと体を返して腹を見せた。
ふかふかの、真っ白な毛並み。
長い耳が、少しだけ揺れる。
目は、宝石みたいに、きらきらしている。
きっと、かわいいのだと思う。
でも、どうでもよかった。
また、思考に耽る。
さっきまでのこと。
その前のこと。
戻ったあとの予定。
順番に並べようとするけれど、どこかで途切れて、うまく繋がらない。
胸の奥で、小さく息が引っかかる。
そのまま、ため息になりそうなのをぐっと飲み込んだ。
膝の上は、あたたかいままだった。
「君のために、コイツが用意したよ」
声がした。
すぐ近くからのはずなのに、どこから聞こえたのか、わからない。
視線を上げる。
あの、ブサイクで、どこかかわいいやつが、目に留まった。
さっきと同じ場所にいる。
相変わらず、何も映していない目をしている。
どこを見ているのか、わからない顔をしている。
静かな時間が流れる。
風の音だけが、遠くでしている。
今、何時だろう。
そんなことを考える。
出かける支度を、しなければならない。
頭の中では、順番が決まっている。
立って、帰って、準備をして。
それだけのはずなのに、体が動かない。
力が抜けたように。
ただ、そのまま、止まっている。
毛玉が、こちらを見上げていた。
小さく、じっとしている。
一度、手を止める。
そのまま、そっと横に置く。
軽いはずなのに、離れたあともわずかに温もりが残る。
ゆっくりと、立ち上がる。
体は重い。
関節のひとつひとつが、遅れて動くみたいだった。
それでも、意識して、足を前に出す。
橋のあったはずの場所へ向かう。
森は、さっきよりも一層深くなっていた。
靄が、薄くかかっている。
来たはずの方向へ向かっているつもりなのに、景色が、少しずつ違って見える。
同じ道のはずだった。
同じ曲がり方で、同じ距離を歩いているはずなのに。
どこかが、噛み合わない。
何が違うのかは、わからない。
ただ、確実にさっきの場所には戻れていない。
足を止める。
あたりを見回す。
橋は、どこにも見当たらなかった。
草履の足音だけが、やけに響く。
さっきよりも、空気が重い。
誰もいないはずなのに、見られている気がする。
「どこへ行くの?」
声がした。
気配はなかった。
「どこへ行くの?」
声と同時に、手を取られていた。
冷たくはない。
強くもない。
それなのに、指先がわずかに震える。
振り向く。
そこに、男が立っていた。
見たことがない。
整いすぎていて、どこか現実味がない。
目が合う。
逸らせない。
理由はわからないのに、体の奥が、少しだけ拒んでいる。
そのまま、手を引き戻す。
言葉は出ない。
ただ、後ろに下がる。
一歩。
もう一歩。
そのまま、走り出す。
どこでもいい。
とにかく、離れたかった。
気づいたときには、赤い欄干が見えていた。
これが、いつもの橋なのか。
どうでもよかった。
渡り終えた途端、帰ってきたという漠然とした感覚だけがあった。
どれくらいの時間が経ったのか、早かったのか、遅かったのか。
よく、わからない。
ただ、このあとの予定だけはすっぽかしている気がする。
少しだけ、憂鬱になる。
きっと、たくさん叱られる。
通知画面に、目を落とす。
『会いたい』
それだけだった。
あれから、二、三分のことだったのかもしれない。
白昼夢でも見たのかと、そのまま、頭の片隅に追いやる。
急な坂道を、足早にかけていく。
鼻緒の痛みも、同じように追いやる。
軽く息を整えて、扉を開ける。
カラン、と軽いベルの音が響く。
キャッセルのママが、視線だけで行き先を告げる。
「ユリです。どちらかいらしたの?」
また、どこから出しているのかわからない、甘ったるい声だった。
そのまま、二時間が始まる。
◇◇◇
ヤツがまた、甘い香りを土産に持ってきた。
嗚呼、せっかくだが、気分じゃない。
ワタシは、ワタシで、楽しんでいる。
壊したあとだった。
何も残っていない時間。
その中を、ヤツが通った。
甘い匂いが、残る。
それだけで、少しだけ、
面白い。
※※※
二時間が、終わる。
特に何も起きなかったように、時間だけが過ぎていく。
グラスの音。
笑い声。
さっきと同じはずなのに、どこかだけ、少し違っている気がする。
理由は、わからない。
そのまま、席を外す。
帯のあたりに、わずかな違和感が残っていた。
◇◇◇
動けない。
自分で決めたことだから、仕方ないね。
ずっと、見てる。
さっきから、一度も動いていない。
今回のは、もう壊したみたいだ。
……でも、
懲りてない。
また、作るんだって。
キミを、感じながら。
※※※
「ユリちゃん、今回の分」
ママに、封筒を手渡される。
中身は、見ない。
「ありがとう、ママ」
「再来週、宴会があるのよ。足りなくて……ねぇ来れない?」
少しだけ間があって、封筒を、握り締める。
カサ、と音がする。
「……はい」
「よろしくね。時間もかかるから、小田原まで迎えに行くわ」
「ありがとうございます」
それだけで、話は終わる。
重い仕事用のバッグを持つ。
身体も、同じくらい重い。
なんとか支えながら、部屋の鍵を開ける。
ドアを閉める。
「……っふぅ」
体の中の空気を、全部吐き出した。
冷蔵庫を開けなくてもわかる。
なにも、ない。
そのまま、また重い身体を引きずる。
駅前のスーパーへ向かう。
値段は、見ない。
半額のシールだけを見る。
それなら、大丈夫。
帰り道の、近道。
少し薄暗い公園を、横切る。
いた。
とても残念な場所に、ブチがある。
ブサイクで、どこかかわいいやつ。
足を止めて、軽く声をかける。
「チャッピー」
チラリと、片目を開けてこちらを見る。
それだけで、また目を閉じる。
静かに、近づく。
今日は、逃げない。
機嫌がいいのかもしれない。
少し撫でると、口元が、細くゆるむ。
笑っているみたいだった。
……ブサイクだ。
でも、かわいい。
ポケットから取り出したチュールを、静かに食べる。
それだけで、もう満足したみたいだった。
くるりと立ち上がって、ひとつ伸びをする。
高く上げた尻尾が、一度だけ、私の足に巻きつく。
それだけ。
愛想もなく、そのまま、去っていった。
チュールをくれる人、くらいに思われている。
……たぶん。
あぁ、見てしまったのか。
まぁ、いいか。
4時半。
同じ朝のはずなのに、頭の芯が少し痺れている。
だるい。重い。
それでも、いつものことだと脇に追いやる。
同じ角度で、同じメイク。
吐く息が、少しだけ、熱い。
会社に着いてすぐ、トイレに駆け込む。
口から、苦い液が出る。
何度も、何度も。
止まらない。
水で流す。
息を整える。
鏡を見る。
血の気の引いた真っ白な顔色。
帰りたい。
そう思う。
そのまま、少しだけ立っている。
大丈夫。
たぶん、戻れる。
目が、眩む。
やっぱり、早退させてもらおう。
そう思う。
上司の席に向かう。
「大丈夫?」
その声は、他の誰かに向けられている。
「無理しなくていいよ」
やさしい声が、重なる。
少しだけ、間があく。
「キミは、大丈夫だよね!?」
自然に、そう決まる。
「じゃあ、これ。お願いできる?」
断る理由は、思いつかない。
また少しだけ、息が合わない。
言いかけて、やめる。
今じゃない気がした。
少しだけ、息を整える。
それで、足りるはずだった。
※※※
いつもの処方箋。
いつもの、
「お大事に」
が聞こえない。
少しだけ、間があく。
「検査、しよっか」
キー、と軽く回転椅子が鳴る。
それが、返事みたいに聞こえた。
「不調の原因は、コレ」
画像に映る。
中身の、ワタシ。
大きな塊。
「……は、い」
少しだけ、言葉が遅れる。
「将来のことだけどね」
淡々と続く。
「子どもは……。ほぼ、難しいかな」
「もちろん、絶対じゃないよ。……奇跡はある」
一拍、先生の声が止まる。
「でもね、キミの場合は……。かなりの確率で流れる」
画面の数字が一瞬だけ、目に入る。
「……仮に育っても、産むときのリスクも高い」
言葉はゆっくり落ちてくる。
「はっきり言って。おすすめは、しない」
少しだけ、私の息が止まる。
耳に障る、キー、キーと調子外れの椅子の音。
止まらない。
「最短なら、この日かな」
日付だけが、先に決まる。
「細かい事は看護師と詰めておいて」
そこで、話は終わる。
どうやって来て、どうやって戻ったのかよくわからない。
浅く、浅く、息だけが続く。
涙は出ない。
そういうものだと、納得させる。
『ごめん、今日無理かも』
短い通知だった。
理由は、書いていない。
少しして、もう一通届く。
『急に呼ばれてさ』
それだけだった。
画面を見たまま、少しだけ、指が止まる。
返信は、しない。
必要ない気がした。
『また今度』
その一文だけが、少しだけ軽かった。
※※※
「派遣さんの話さ……」
彼は、ベッドに腰掛けて、飲みかけのビールを口にする。
「『キミ』は、他でもイケるけど、彼女は……可哀想でしょ? そういうことだよ」
なんでもないことのように、話す。
「俺は、不便だよ? 『オマエ』がいないと」
笑いながら、立ち上がり、こちらに近づく。
距離がなくなる。
ビールとタバコの味が移り、喉の奥に残る。
さっき吐いたはずの息と同じ味がする。
苦い。
ウソツキ。
4時。
彼がいた痕跡を、ひとつずつ、消していく。
丁寧に。
隣りで眠る彼が、起きる気配はない。
4時半。
今日は、髪を巻かない。
昨日、きれいだと珍しく褒められた。
だから、そのままにする。
「次の契約の更新ですが……」
担当者の声で、先にわかる。
「残念ながら、先方から……」
その言葉を、そのまま受け取る。
少しだけ、間があく。
視線を、落とす。
まっすぐな髪が、視界に入る。
どこで決まったのか、考えない。
その方が、楽だった。
帰り道。
近道の、薄暗い公園に立ち寄る。
「チャッピー」
呼びかける。
鳴き声は、返らない。
今日は、いない日らしい。
立ち上がろうとしたとき、鳴らないはずの着信音。
見慣れた名前だった。
「二人目のお祝い、ありがとうね。そっちどぉ?なんや、ええヒトいてるっておばさん言うてたよ?」
「結婚って、正直ビミョーやけど、子どもはええね。そやから、早い方がええで」
「あー、ばぁばやないの! コラっ!」
「あっ、ごめんごめん。なんやったっけ。そうや、また帰省したら会おうよ。みーんな会いたいって言うてたわ。ありがとう、ほなね」
一方的に、通話が切れる。
みんなって、誰だろう。
息を吐く。
そのまま、少しだけ崩れる。
肩のあたりが、あたたかい。
いつの間にか、いた。
チャッピーだ。
息を整えるように、深く、吐き出す。
そのまま、チャッピーを撫でる。
ゴロゴロと、喉が鳴る。
ただ、チュールを求めているだけ。
目当てのものを食べると、用はないと、ばかりにすぐにいなくなる。
それでも、憎めない。
かわいい。
◇◇◇
あぁ、懲りないな。
今のは、とても、芳しい。
まぁ、いいか。
※※※
各駅停車に揺られながら、バッグのポケットから少しだけ、御守りがはみ出している。
指で押し戻す。
良縁。
今のワタシには、少しだけ遠い。
「今回は、長くなりますが、よろしくお願いします」
ママに挨拶して、東京駅の催事で買った土産を手渡す。
「大丈夫」
軽く笑って、受け取る。
バックミラー越しに、ぽつりと。
「箱根は、そんなヒトばっかり」
少しだけ、間があく。
「思い詰めちゃって。ユリちゃんは、真面目だね」
気怠げな声なのに、否定はされない。
「ユリちゃんがいると、部屋が引き締まるから助かる」
そのまま、続く。
「こっちを本業にしてもらえると、私はもっと助かるんだけど……」
聞こえないふりで、車窓を眺める。
「そうだ! 先に言っておくと、今回は相部屋なのよ。新しい子」
窓を見たまま、憂鬱になる。
「電話の受け答えは良かったし、送って貰った写真は……美人じゃなくてさ。でも愛嬌で取れるかもねぇ」
あまり期待していない、口調。
「あっ、来た。こっちよ! あら、すごい荷物。後ろに積めるかしら。あと、検番にも寄るから……。ユリちゃん、手伝ってくれる?」
席を立って、バックドアを開ける。
駆け寄ってくる、新人らしい人影。
「はっ、はじめましてぇ」
少し訛りのある声。
東北の、どこかの音。
緊張している。
それでも、ちゃんと、こちらを見る。
口角が、いつもの位置に上がる。
「大丈夫?」
今日、はじめての、挨拶以外の言葉。
彼女は——。
そう、チャッピーだ。
かわいい?
……いや。
少しだけ、わからない。
※※※
「ユリちゃん」
呼ばれるたびに、少しだけ違う気がする。
でも、困ることはない。
会社では、名前を呼ばれない。
あの人は、一度も名前を呼ばなかった。
「あっ、はじめましてぇ! 千代子って言います! あの、名前がしわしわネームなんで、よく、おばあちゃんと同じ名前って、言われます! あだ名は、チョコとか、チャッピーとか、えっと……」
チャッピー。
やっぱり……。
納得しかなかった。
「大丈夫。頑張ろうね」
自然と、口にする。
大丈夫。
「それから、ここではママが決めた名前になるから。大丈夫」
「千代子さん! 検番行くから、一緒に挨拶して。ユリちゃんは、ここから置き屋まで歩いてくれる?」
駐車場に停めて、予定を告げられる。
返事をして、歩き出す。
昼間の光の中で、この前の橋が見える。
赤い欄干。
観光地には、よくある橋。
渡る。
木々は、密集しない。
ポツリ、ポツリと古い杉の木々。
急な坂を上がる。
スナックキャッセルがある。
準備中の札。
まだ早い時間。
それでも、ドアを開ける。
「ごめんなさぁい、時間前よ」
顔も上げずに断るママに、
「おはようございます。ユリです! 今日からしばらく、またお願いします」
土産を置く。
「あら、気遣いありがとう。お宅のおかあさんは? いいの?」
「新しい子を連れて、検番へ」
いつの間にか、ほうれん草のお浸しとウーロン茶。
「そうなの……。どう?」
「いただきます。美味しい」
久しぶりの、手作り。
箸が進む。
「愛嬌は良いですよ。慣れない感じとか……」
私と違って。
その言葉が喉に、引っかかる。
紫煙の向こうから、
「アンタ、大丈夫? ちょっと疲れた?」
少しだけ、肩が内側に落ちる。
「そう……。都会で少し、疲れちゃった」
「どうにもならないときは、休みなさいよ」
「はい」
声が、少しだけ、湿る。
「今日から後口、入れさせてもらうわ。お宅のおかあさんに連絡するから、しっかりお稼ぎなさい」
ちゃめっ気のある声。
ここがあってよかった、と思う。
「はい、よろしくお願いします。では、お稼ぎください!」
早々に、店を出る。
「おはようございます」
まだ誰もいない置き屋に荷物を置き、いつもの場所に座る。
時計を見る。
すぐに、人が来る。
きらり妓たちのために、土産の菓子を開ける。
昨日の結果を、確認する。
美人と、愛嬌。
いい勝負だったらしい。
「おはようございます!」
元気な声が、響く。
忙しない足音が、続く。
「あー! ユリ姉さんじゃん」
そのまま、近づいてくる。
「コレ、もらっていい?」
箱に、手が伸びる。
「てか、新しい人、見た?」
答える前に、次の声が重なる。
「おはよう。一緒に来たよ。かわいい……かな?」
「えー! ユリ姉さんの“かわいい”かぁ。ビミョー!」
笑いが、重なる。
「ママは? 名前は?」
矢継ぎ早に、問いが飛ぶ。
答える前に、次が来る。
「検番。登録と、協会長に挨拶ね。ほら、こぼさない」
「昨日は、朝までだったんでしょ? 今日の授業は?」
「ユリ姉さん、やさしー」
声が、重なる。
「昨日は、結構頑張った! まだ喉カラカラ。授業は、自主休講。単位あるし! まぁ、いっかぁ」
ハハ、と笑う。
次から次へ、玄関の開く音。
いくつもの、足音。
弾む、会話。
また、玄関が開く。
ママの声。
「そしたら、シオリちゃん、こっち入って。来た人に、挨拶しなさい。ユリちゃん、いるでしょ? 振る舞い、聞いときなさい」
大きな声のあと、軽い足音。
「はっ、はじめまして。シオリですぅ」
一瞬で、視線が集まる。
「OK。そういう感じね!」
「私、さゆり。ここでは、年は関係ないから。入った順で、姉さん付けてね」
息つく間もなく、続く。
「他の置き屋の人も、今日入った人以外は、姉さんだから。とりあえず、みんなに姉さん付けとけば、問題ないよ」
私が、口を開く前に、シオリの手を引く。
もう、流れは決まっている。
昨日の疲れなんて、見せないまま。
明るい空気を、作っていく。
「やっぱり、ユリ姉さんの“かわいい”はビミョー。あれ、化粧で化けるよ」
ヒソ、と耳元でさゆりが囁く。
曖昧に、うなずく。
さゆりは世話焼きだ。
※※※
不在着信にボイスメモが付いていた。
再生する。
「あっ、どうも! 先日、弊社からご紹介させて頂いた件、なんですけどね」
少しだけ、間があく。
「先方、すぐにでも、とのことで。ご都合、いかがでしょうか?」
続けて、もう一件。
「別件のご紹介先も、明後日で、面接の予定を頂いておりまして。至急、折り返しのご連絡を——」
そこで、切れる。
留守番電話の通知が、慌ただしさを、運んでくる。
明後日の予定を、確認する。
折り返す。
人の流れに、混ざる。
同じような服。
同じような顔。
誰も、こちらを見ない。
それでも、少しだけ、息が合わない。
「すみません、確認なんですが……。さっきの質問、NGですよね」
担当者と並んで歩きながら、さっきの面接を思い返す。
結婚。
子ども。
そのつもりが、あるのか。
喉の奥に、苦さが残る。
「申し訳ございません。あれは、ずいぶん前からNGなんですが——ここだけの話、オーナー企業では多いんですよ」
「ゆくゆくは、社員になる人材ということでご紹介させて頂いたんですけどね」
浅く、息を吐く。
「こちらは、ちょっと……」
「ですよねー。今回は、なかったということで。また、いい案件あれば、よろしくお願いします」
軽く、流される。
担当者は、足早に去る。
あっという間に、人の波に、飲まれる。
消える。
自動改札に、ICカードを押し付ける。
足が、止まる。
どちらへ帰る。
どこへ帰る。
選べない。
人の波に、押される。
流れる。
どこへ行こうとしているのか、わからない。
そのとき、鞄からこぼれ落ちる。
良縁。
踏まれないように素早く拾う。
軽く、払う。
じっと御守りを見つめる。
心が決まる。
御守りは、返しに行こう。
今の私は、持っていない。
※※※
電車を待つホームは、秒単位でヒトを吸い込み、吐き出す。
私も、吸われるように、列に並ぶ。
後ろから、覚えのある香りがする。
すぐ側にある。
きっと偶然。
よくある香水。
忘れたふりをする。
でも、忘れたことはない匂い。
香りとの距離が、なくなる。
自然に、抱き寄せられる。
息が、混ざる。
「久しぶり」
彼だ。
知らないふりをしたい。
知らなかった人で、いたい。
でも、できない。
そのまま、身を任せる。
彼が、動く。
流れが、決まる。
電車が、私たちを吐き出す。
彼の、目的地で。
どこへ、行こうとしていた?
どこへ、だっただろう……?
思い出せない。
さっきまで、わかっていたはずなのに。
少しだけ、記憶が遠い。
「帰ってた?実家……」
曖昧に答える。
「何回か、家に寄ったんだけどさ……」
今まで彼から連絡はなかった。
「オマエ、帰って来ないし。まぁ、いいっか」
「この後、ヒマだろ?」
確信した足どりでどこかへ向かう。
もう、どこだって構わなかった。
せっかく時間を置いたのに。
せっかく離れたのに。
一瞬で彼は距離を縮める。
※※※
今。
何時だろう?
どれくらい、いたのか……。
身体の奥に、彼の匂いが残っている。
さっきまでいた彼が、最後にひとこと。
「知ってるよ」
それだけ、置いて消えた。
自分の部屋に戻る。
触れた場所を、ひとつずつ、落としていく。
丁寧に、丁寧に。
『知っている』の意味は考えない。
どれのことか、多すぎる。
息が、もれる。
どうしよう。
このまま、どこにも行けない。
はじめて。
彼を。
怖いと思った。
※※※
いつもの公園に、チャッピーがいた。
そのまま、近づく。
そして気づく。
今日は、チュールを持っていない。
チャッピーは、ベンチの上の旅行雑誌を下に敷いて、眠っているように見える。
旅行……。
頭の隅に何かが引っかかる。
そうだ。
御守りを、返すんだった。
チャッピーの横に座る。
表紙に、目をやる。
京都。
いいかもしれない。
チャッピーの背中を、軽く叩く。
小さく、
「ありがとう」
と、伝えた。
部屋に帰り、整える。
二、三日……。
いや、しばらく帰らなくてもいいように。
良縁の御守りを、手帳に挟む。
なくさないように。
大きめの鞄を持つ。
誰もいない部屋に、
「行ってきます」
と、呟く。
新大阪行きの新幹線の中で、ふと思い出す。
箱根にいたとき、シオリに変なことを言われたことを。
※※※
さゆりとシオリは、休みが重なって、どこかへ行く話で盛り上がっていた。
若いな、と少しだけ離れて見ていた。
すると、ママがぽつりと、
「あなたたちだけだと心配だから……」
なぜか、私も行くことになった。
「意外! ユリ姉さん、いろんな所をお客さんに案内してるから行ったことあるんだって思ってた!」
「ユリ姉さん、お昼は、んめーじゃなくて、美味しいものが食べたいです」
そんな流れで、箱根三社を巡る。
ここで、御守りを返せればよかったのに……。
なぜか、鞄の中にない。
鞄の奥を弄りながら、会話を続ける。
「箱根、全部は観光してないよ。小涌園は行ったかしら」
「お客さんと?」
「ないしょ」
そう言って、笑う。
ふたりが、少しだけぽかんとする。
「ユリ姉さん、そうやって笑うんだ」
「お座敷じゃ、もっとキレイだもんね」
「それって、ひどくない?」
軽く返しながら、少しだけヒヤリとする。
「箱根三社は、はじめてだけど、ご利益は知ってるわよ。あなたたちの好きな、良縁とか……。あと、金運?」
口の奥が、苦い。
「良縁!」
さゆりが目を輝かせる。
「そう。私は、商売繁盛かな」
「ササ持って来いってやつ?」
「あれは十日戎」
笑いが、重なる。
橋に、差し掛かる。
シオリが、ぽつりと。
「橋って、振り返ったらオッカナイって、聞いたことあります。ここもですか?」
「なにそれ。東北の言い伝え? 日本昔話みたい」
さゆりが、笑う。
「いや、なんか、渡る途中に振り返ったら、よくないとか……。なーんだったか、読んだ覚えがあって」
「シオリの話だと、隣の森から出てきた妖精に傘貸すんでしょ?」
「もう、さゆり姉さん!」
「大丈夫。箱根三社は、それはないから」
ガイドブックの記憶を、なぞる。
「丁寧に、お願いするのが、一番いいそうよ」
——知らないけど……。
心の中で、付け足す。
少なくとも、私にはご利益はなかった。
※※※
新幹線がトンネルに入る。
窓に、自分が映る。
そのまま、目を向けたまま、小さく呟く。
「それは、渡月橋」
十三詣りの話。
あのときは、話せなかった。
滑り込むように、新幹線が、京都に着く。
日本語。
いくつもの方言。
そこに、海外の言葉が、重なる。
いろんなものが混ざる。
記憶と、あまりにも違う、賑わい。
目が眩む。
ただいま。
地元。
心の中で、呟く。
京都には、観光名所や神社仏閣もいくつもある。
選択肢が多くて、少しだけ困る。
最後まで残ったのは、安井金比羅宮と貴船神社。
地元から、少し離れていて、まだ行ったことのない貴船神社にする。
どうせなら、と思う。
鞍馬温泉。
風情と、料理。
それらを楽しめるなら、来た甲斐もあるだろう。
地元には、帰らない。
こんな自分を見られたくない、気もする。
都内での現実が、少し重い。
だから、旅行。
それくらい。
貴船神社へ向かう。
電車と、バスを乗り継ぐ。
そして、良縁の御守りを返す。
私が願った良縁は、
『今の相手と結婚できますように』
だった。
私には、合っていなかった。
さようなら。
少しだけ、気持ちが軽くなった気がする。
だが現実は、何も決まっていない。
紹介してもらった職も、どちらも合わない気がして、辞退した。
手術や、療養期間。
その後の仕事の条件をどうするかは、あとで考えればいい。
そう、自分を納得させる。
それまでは、ひとりなら、多少流動的でもやっていける。
帰りは、貴船口まで歩くことにする。
京都から、少し標高の高い場所。
森の空気が、吐き出される。
澄んだ、冷たい息。
川から上がるモヤが、薄く煙る。
先の道が、少しだけ、見えにくい。
降っているのか、登っているのかわからなくなる。
それが、なんだか楽しい。
そのとき、ブルリ、ブルリと震える。
止まる。
また、ブルリ、ブルリ。
見なくても、わかる。
繰り返す振動に、軽くなったはずの肩が、急に重くなる。
出たくない。
それでも、指が動く。
「ねえ、カード止まったんだけど」
「……いらない」
「えっ?」
「お金なんて、ない!」
短く、吐く。
通話を、切る。
初めて、言い返した。
少しだけ、手が震える。
どうしよう。
全部、全部消えればいいのに。
何も出来ずにそのまま、立ち尽くす。
音が、消える。
それでも、指先に、振動が残る。
息を、吐く。
浅い。
もう一度、吐く。
少しだけ、深く。
息を、吐く。
わかっている。
さっきと、同じだ。
足を、前に出す。
道は、続いている。
同じはずなのに、少しだけ、違う。
モヤが、濃い。
川の音が、近い。
一歩。
もう一歩。
気づいているのに、止まらない。
息を、吐く。
さっきより、少しだけ軽い。
顔を上げる。
モヤが、濃い。
音が、遠い。
一歩。
もう一歩、足を出す。
感触が、少しだけ違う。
もう一歩。
戻れるはずなのに、戻らない。
気づいたときには、橋の上にいた。
振り返ると、よくないって言っていた。
誰が、言っていたんだっけ……?
足が、止まる。
それでも、振り返る。
◇◇◇
みてごらん。
世界が、ほどける。
みてごらん。
核が、吸い込まれる。
はじまるよ。
はじまる。
これから、はじまる。
◇◇◇
「やぁ。ようやく、こちら側へ来てくれたね」
声に振り向く。
そこに、男が立っていた。
見覚えがあるような。
ないような。
整いすぎた顔。
現実の人間を見ている気がしない。
「……貴方は、誰?」
「私?」
男は、少しだけ考えるように首を傾げた。
「私の名前は……そうだな。良かったら、キミが付けてくれないかい?」
「元の名前は? あるでしょう?」
「ないよ」
あっさりと返される。
「私のことを呼ぶ者はいるけれどね。アイツ、オマエ、ヤツ――あるいは、創造」
「創造……?」
「そう呼ぶヤツもいる」
「それは、誰?」
一瞬だけ、男の視線がどこかへ逸れた。
「……観測者」
少し間を置いて、
「あるいは――チャッピー」
「チャッピー?」
思わず聞き返す。
「そう」
男は、ほんの少しだけ不満そうに笑った。
「キミはいつも、アイツをチャッピーと呼ぶんだ」
「いつも……?」
「羨ましくて仕方がなかった」
「え?」
「名前を付けてもらって、キミに呼んでもらえる」
男は私を見る。
まっすぐに。
「だから今度こそ、私もキミに名前を付けてもらいたい」
「そんな……急に言われても困る」
何を言っているのだろう。
この人も。
私も。
「そもそも、私にだって名前がないから」
「いいや」
男の声が、少し低くなる。
「あるよ」
胸の奥が、わずかにざわつく。
「私は知っている」
男が、一歩近づいた。
「キミの名前を」
息が止まる。
「……私の?」
「そう」
なぜだろう。
怖い。
なのに。
聞きたい。
「……いいの?」
「何が?」
「私の名前を……呼んで」
自分の口から出た言葉に、自分で驚く。
「そうね……」
少しだけ、息を吐く。
「久しぶりに、ちゃんと名前で呼んでほしいかも……」
私は、何故。
初対面に近いこの男に、こんなことを言っているんだろう。
おかしい。
何かが、おかしい。
頭の奥で、警鐘が鳴っている。
逃げた方がいい。
そう思うのに。
足が動かない。
男は、ただ静かに私を見つめていた。
そして。
「では――」
男が、微笑む。
「存在を固定しようか」
空気が揺れた。
風ではない。
世界そのものが、息をしたような。
「キミの名前は――瑠璃」
その瞬間。
霞のかかった、小さな川辺だったはずの場所に、一気に色が流れ込んだ。
白く煙っていた景色が消えていく。
あるはずの橋が、なくなる。
代わりに、木々が生まれる。
深く。
濃く。
どこまでも続く、深緑。
足元には、見たことのない花々が次々と咲き始めた。
赤。
白。
青。
黄色。
色のなかった世界が、私の名前を得た途端に目を覚ましたように色づいていく。
「……なに、これ」
男は、満足そうにその景色を眺めていた。
それから、私を見る。
「瑠璃のための、瑠璃の世界だ」
「私の……?」
「そう」
男が、そっと手を差し出す。
反射的に引こうとして。
でも、止まる。
彼の手が、私の手を取った。
「ここでは――」
指先に触れる温度は、思ったよりもやさしい。
「もう、我慢して持たなくていいんだよ」
息が止まる。
どこかで。
同じ言葉を聞いた気がした。
男は、そのまま私の手を持ち上げる。
そして。
手の甲に、静かに口づけた。
「ようこそ、瑠璃」
初めて。
その名前が、私だけのものとして世界に響いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
少し重たく、少し息苦しいお話になりました。
恋愛は、いつも綺麗なものばかりではないと思っています。
好きだから離れられない。
信じたいから、嘘だとわかっていても目を逸らす。
誰かに必要とされることを、自分の価値だと思ってしまう。
擦り切れて、汚れて、それでも人は誰かを好きになる。
そんなところから、この物語は始まりました。
彼女はずっと、誰かに決められて生きています。
仕事も。
恋も。
お金も。
行き先さえも。
そんな彼女が最後に、自分で選んだこと。
――振り返る。
その先で、ようやく彼女には名前が与えられます。
瑠璃。
ここからが、彼女の物語の始まりです。
なお、この物語は『彼のたいせつな、…。』と、どこかで繋がっている平衡世界でもあります。
あちらでは、彼が頑張りました。
こちらでは――。
さて。
誰が、どんな世界を選ぶのでしょう。
また、どこかでお会いできましたら嬉しいです。
お読みくださって、ありがとうございます。
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