表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

陣貝美術館奇譚 -人ならざる者たちの芸術 -

作者: あかみんご
掲載日:2026/06/17

1.


地下にある搬入庫は、静かだった。

地上の展示室を満たす客のざわめきも、

学芸員たちの足音も、ここまでは降りてこない。


コンクリートの壁。

蛍光灯の白い光。

積み上げられた木箱の列。


その中央に置かれた革張りのソファの上。

黒いスーツを着た男が、だらしなく寝転がっていた。


蛍光灯の白い光が、彼の横顔を無機質に照らしている。

彫刻のように整った鼻梁と、その影。

まるで熟練の画家が黒の絵の具を一筆で引いたかのような、

やけに境界線のくっきりとした、端正な顔立ちだった。


その胸元には「陣貝美術館 学芸員」の銀色のバッジが光っている。


彼は片腕で目を覆い、心の中で安らかな声を漏らした。


最高に暇だ。

ずっと、こうしていたい。

何も起きず、誰も来ない。

この絵に描いたような平穏の中に、永遠に浸っていたい。


―――だが。


コツ、と。鼓膜を叩く音がした。

コツ、コツ、と規則正しいヒールの音が、コンクリートの搬入庫へ響いていく。


彼は顔をしかめる。

その足音を聞き間違えることはない。


天敵だ。


視線だけを入口へ向けると、案の定、黒いスーツ姿の女性が立っていた。


館長の秘書だった。

長い黒髪を後ろでまとめ、書類の挟まったバインダーを抱えている。


その姿は美しい。

そして美しいだけに余計に質が悪い。


「クロマキーさん」

「帰ってくれないか」


彼、クロマキーは言った。

秘書は顔色一つ変えずに首をかしげる。


「お忙しいのですか?」

「ああ、天井のシミを数えてる」


秘書は搬入庫の天井を見上げた。


「どこまで数えましたか」

「一、ニ、三。今始めたばかりだ。邪魔をしないでくれ」


「お仕事です」

「いやだ」


「お仕事です」

「絶対にいやだ」

「館長命令です」


クロマキーは天井を見上げた。

終わった。


「くたばればいいのに」

「聞こえていたら喜びますよ」

「なんでだよ」

「生きていると実感できるそうです」

「じゃあ、苦しみながら長生きしろ」


秘書は軽く肩をすくめた。

そしてバインダーから一枚の書類を取り出し、

ソファに寝転がったままのクロマキーへ差し出した。


「警視庁刑事部超常課からの緊急依頼です」

「嫌な予感しかしねぇ」

「怪死事件の遺品整理になります」

「もっと嫌になった」


クロマキーはようやく上体を起こした。

書類を受け取り、目を通す。

何枚もの写真が添付されていた。


豪奢な屋敷。

その中の一室、広い部屋。

血の気の失せた、裕福そうな男性の死体。

押収された大量の美術品。


「……全部で、いくつあるんだ?」


秘書は搬入口のシャッターを指差した。

その向こうには、つい先ほど運び込まれた木箱クレートが天井近くまで積み上がっている。


クロマキーは、しばらく無言になった。


「全部?」


ようやく、彼は口にした。


「全部です」

「誰がやるんだ」

「あなたです」

「誰が決めたんだ?」

「もちろん、館長です」


クロマキーは静かに書類を閉じた。

再びソファへ倒れ込む。


「あのクソババア」


三秒ほど天井を見つめたあと、両手で顔を覆った。


「跡形もなく消滅しろ」

「本日二回目の呪詛です」

「足りねぇ」


秘書は構わず続けた。


「なお、納期は明朝8時となります」


沈黙。


クロマキーはゆっくり顔から手を外した。


「……今なんて?」

「明朝です」

「明日の?」

「はい」

「朝?」

「朝です」


壁に掛かった時計を見る。

現在、午前10時。


「あと二十時間しかねぇぞ」

「そうですね」

「ふざけてんのか」

「『彫像脱走事件』の貸しを返す絶好の機会だ、と館長はおっしゃっていました」

「くたばれ」

「本日三回目です」


クロマキーは立ち上がった。

書類をもう一度眺める。

ざっと数えても百点以上ある。


しかも、そのうち何点、何十点かは、間違いなくただの美術品ではない。


八百万の神、西洋の悪魔、名もなき亡霊―――

古今東西の<人ならざる者>たちが制作した作品群。人外美術品。


ここ陣貝美術館には、そのような代物が跳梁跋扈している。

下手に触れれば、半径数百メートルの時間が逆行したり、

空からカエルが降ったり、最悪の場合は搬入庫ごと異界へ飛ばされる。


実際に飛ばされたこともある。

過去に三回ほど。


「辞めてもいいか?」

「三百四十七回目ですね」

「数えてたのかよ」

「データは大切ですので」


クロマキーは深々とため息を吐いた。


逃げたい。

だが逃げられない。

この美術館から。

そして、この仕事から。

それを誰より知っているのが目の前の女だった。


「……終わったら何か褒美はあるのか?」

「館長から、ねぎらいの言葉くらいは」

「いらねぇ」

「でしょうね」

「じゃあ、君は?」


秘書が首を傾げる。

クロマキーは苛立ちを表情の下に隠して、わざとらしく優雅に微笑んだ。


「達成したら、デートしてくれないか?」


一秒。

二秒。


秘書は瞬きを一つした。

ほんの少しだけ口元を緩める。


「考えておきます」

「お」

「もっとも」


彼女は視線を木箱クレートの山へ向けた。


「まずは朝までに終わらせてください」

「急に現実を突きつけるな」

「では、失礼します」


コツ、コツ、コツ。

ヒールの音が遠ざかる。


やがて静寂だけが戻った。


クロマキーはしばらくその場に立ち尽くしていたが、

やがて目の前の木箱クレートの山を見上げた。


山。

いや、山脈だ。

絶望の山脈。


「……」


静かに拳を握る。

そして小さく呟いた。


「死ね」


誰もいない搬入庫に、その恨み言だけが虚しく響いた。


2.


つまんない。

つまんない、つまんない、つまんない。


「つまんない。ぜんぜんたのしくない」


五歳の少女、つるぎは、不満を隠そうともせずに唇を尖らせた。

大きな窓もない、薄暗くて、ひんやりとした部屋。


白い壁には、色の暗い、

何が描いてあるのかよく分からない絵ばかりが並んでいる。


歩くたびに床に響く足音さえ、なんだか怒られているみたいで居心地が悪い。

すぐ隣で、父親が困ったように眉を下げて、つるぎの頭を撫でた。

普段は仕事で忙しいパパが、珍しく休日に連れ出してくれたから、

大人しくついてきたのに。


山奥にある美術館。

行き先がこんな退屈な場所だなんて聞いていない。


遊園地が良かった。


「ゆうえんちがよかった」


動物園が良かった。


「どうぶつえんがよかった」


「ごめんな、つるちゃん」


父が娘の頭を撫でる。


「でもほら、このお魚の絵。ちょっと可愛いよ?」


父親はしゃがみ込んでご機嫌を取ろうとする。

その「お魚」とやらは、目がたくさんあって全然可愛くなかった。


「すいぞっかんがよかった」


つるぎはわざとらしくぷいっと横を向き、大理石の床に視線を落とした。


「……うん。じゃあ、次は水族館に行こう」

「いま」

「ええっと……」


気まずくなった父親は、気を取り直すように

壁に掛けられた大きな解説パネルに目を向けた。


「……なになに……『深海に潜むとされる魔性の人魚。その吸い込まれるような瞳と、白い肌を描くために用いられた禁忌の絵の具……』」


わざとらしい独り言。


「……へぇ。ただの人魚の絵じゃないのか……」


父親は次第に文字の羅列に目を奪われ、眼鏡の奥の目を輝かせ始めた。


大人という生き物は、どうしてこんな動かない四角い布や、

文字に夢中になれるんだろう。


つるぎはますますつまらなくなって、床の模様を数え始めた。


白い四角。

黒い四角。

白い四角。

黒い四角。


一歩、二歩、三歩。

黒い四角だけを踏みながら、お父さんの足元から、少しずつ離れていく。

誰もいない展示室の奥へと進んでいく。


黒い四角。

黒い四角。

黒い四角。


やがて足元だけを見つめて歩いていた、つるぎのつま先が、

壁の隅っこにある黒くて重そうな鉄の扉にコツンと当たった。


扉の横には、赤くて四角いマークと、

読めない漢字が書かれたプレートが掲げられている。


いつもなら、怖がって近づかないような不気味な扉だ。

けれど、つるぎの耳に、その扉の向こうから何かの音が聞こえてきた。


カチ、カチ。


おもちゃの時計のネジを巻くような、どこか楽しげな音。

何かに呼ばれるように、つるぎは小さな手を伸ばした。


大人用の重いはずの扉は、五歳の女の子の手のひらが触れた瞬間、

油を差したように音もなく、すうっと滑らかに奥へと開いた。


魔法みたいに。


「パパ、みて!」


つるぎは振り返った。


だけどパパは、さっきとは別の絵を見ていた。

夢中になって、聞いてやしない。


ひんやりとした、だけどどこか甘い匂いのする風が、

扉の隙間からつるぎの頬を撫でる。


腹を立てた彼女はパパに背を向けると、

その暗い隙間へと、吸い込まれるように足を一歩踏み出した。


3.


ガン、と鈍い音が響いた。

バールで木箱クレートの釘を引き抜く音だ。


これで、十個目。

残りは、あと九十個以上ある。


時計を見る。

現在、午後三時。

すでに五時間が経過していた。


「地獄に落ちろ」


これで、本日何回目の呪詛か分からない。


「呪われろ、腐り落ちろ、塵に還れ……」


繰り返し呟きながら、クロマキーは木箱クレートから取り出した「マリア像」の危険度をチェックし、報告書に『レベル1。放置すると目から血を流す』と書き込んだ。


時間が足りない。

圧倒的に、納期が足りない。

精神がすり減る。

すでに頭痛が始まっていた。


あの美人秘書の「考えておきます」という微笑みをガソリンにして身体を動かしているが、それもそろそろ限界が近い。


というか燃費が悪すぎる。


「地獄の業火に焼かれて、生き返って、底なし沼に.......」

「おじさん、なにしてるの?」


背後から子どもの声。

クロマキーは飛び上がった。

情けない悲鳴が搬入庫に響き渡る。


危うくマリア像を床に落としかけた。

心臓が口から飛び出るかと思った。

振り返ると、積み上がった木箱の隙間に、小さな人影が立っていた。

白いワンピースを着た、小さな女の子。


五歳くらいだろうか。

大きな目で、不思議そうにクロマキーを見上げている。


なぜ、ここに子供がいる?

当然の疑問が頭をよぎった。


地上の扉は施錠していた筈だ。

たぶん、おそらくは。

ちょっとだけ自信がない。


「おじさん、だれにおこってるの?」

「……誰でもねぇよ。独り言だ」


クロマキーはバールを背中に隠し、引きつった笑みを浮かべた。

子供に聞かせていいセリフではなかった。


「……あのな、お嬢ちゃん。ここは関係者以外立入禁止だ」

「『かんけいしゃ』ってなに?」


容赦ない無垢な瞳に見つめられ、クロマキーは黙り込んだ。

関係者の概念を、こんな子どもにどう説明すれば良い?


「関係者っていうのは……そう、ここのスタッフとか、とにかくここで働く許可をもらってる奴のことで……」

「『すたっふ』ってなに?」

「……えっと……」

『きょか』ってなに?」

「……あああああ!」


言葉のドッジボールどころではない。一方的なマシンガンだった。

ちびっこの純粋無垢な疑問が、ただでさえ疲弊した精神を蜂の巣にしてくる。

人外美術品どころではない。


くそっ。


「パパやママはどうした!頼むから早く戻ってくれ!」


だいたい、親は何をやってるんだ。


「ママはね、おうちにいるよ」

「パパは!?」


少女は口を尖らせた。


「パパは絵をみてるよ」


クロマキーは憤慨した。

こんな小さな子をほったらかしで?


「はだかの女の人の絵とか」


クロマキーは冷静になった。

それなら仕方がない。


「それでね、つるちゃんね。つまんないから『たんけん』にきたの」


子どもの探検には難易度が高すぎる。

ここはダンジョンだぞ。


「あのな、つるちゃん。ここは入ってきちゃだめなんだ」

「どうして?」

「どうしてって……例えば......ほら、そこにある絵を見ろ」


クロマキーは自分の真後ろを指差した。


だが、それが失敗だった。


床に立てかけられた、一枚の絵画。

先ほど木箱から開封したばかりの、まだ危険度チェックを終えていない、

『未検品』の美術品。


キャンバスには、無数の時計の歯車が描かれていた。

その歯車は、生き物のようにぐにゃぐにゃと形を変えながら、

カチ、カチ、と音を立てて蠢いている。


「なにこれ」


つるちゃんの目が輝いた。


「おもしろい!」


彼女が一歩、絵画に向かって足を踏み出す。


「おい待て、触るな!」


クロマキーが手を伸ばした。

だが、遅かった。


少女の小さな手のひらが、キャンバスの表面に触れる。

その瞬間、絵の表面が水面のように激しく波打った。


油絵具の濁流が、少女の手首を、腕を、そして身体を、

ずるりと額縁の向こう側へと引きずり込んでいく。


短い悲鳴。


次の瞬間には、搬入庫から少女の姿が消えていた。


カチ、カチ、カチ、カチ。


絵の中の歯車が、嬉しそうに回転速度を上げる。

クロマキーは、差し伸べた手のまま、しばらく硬直した。


一秒。

二秒。


ゆっくりと、天を仰ぐ。壁の時計を見る。

現在、午後三時六分。残りのノルマ、九十点以上。


絵の枠組みに飾られた、金色のプレートのタイトルが目に止まる。


【時間泥棒】


笑えねぇ冗談だ。

クロマキーは、溜息をついた。


4.


「……おじさん?」


気づいたときには、つるぎは見たこともない場所にいた。

まわりはぜんぶ、絵の具を混ぜ合わせたみたいにぐにゃぐにゃに歪んでいる。


空にはお日様もお月様もなくて、代わりに大きな時計の歯車が、

ガチガチ、ゴトゴトと嫌な音を立てて逆回りしていた。


足元は、冷たくて固い、ガラスみたいな大きな時計の文字盤だ。


ゴン――、ゴン――。


数秒ごとに、どこからともなく地響きみたいな音を立てて、巨大な針が動く。

そのたびに足元が震えて、つるぎはひっくり返りそうになった。


「おじさーん!」


必死にまわりを見回したけれど、誰もいない。

さっきの大きな部屋にいた、おじさんの姿はどこにもなかった。


「パパー!」


声を張り上げても、聞こえてくるのは不気味な時計の音だけ。


怖い気持ちが、胸の奥からいっきにこみ上げてきた。

お腹の奥が、ぎゅっと痛くなる。


じんわりと目が熱くなりだす。

もう一歩も動けなくなって、ペタン、と文字盤の上に座り込んでしまった。


一度涙がこぼれると、もう止められなかった。

声を上げて泣きじゃくり始める。


遊園地が良かった。

動物園が良かった。

水族館が良かった。


こんな、お化け屋敷みたいなところは絶対に嫌だ。


おうちに、かえりたい。


「かえれないよ」


誰かの声が聞こえた。

つるぎは、ビクッ、と肩を震わせた。


「おまえが、じかんをくれるまで」


その声は、耳元でカチカチと、

不気味な歯車を噛み合わせるような音を立てて響いた。


「じかんを、おくれ」


その言葉の意味は分からなかったけれど、とっても恐ろしいことだけは分かった。


「いちびょう、いっぷん、いちじかん」


ぐにゃぐにゃに歪んだ影の中から、ぬうっと「なにか」が湧き出てくる。

それは、古い時計の針がトゲトゲした人間の形に固まったような、

真っ黒い怪物だった。


「いちにち、いっしゅうかん、いっかげつ」


怪物はカチカチと嫌な音を立てながら、一歩、また一歩とつるぎに近づいてくる。

つるぎは恐怖のあまり、指先一つ身動きができなかった。


「いちねん、じゅうねん、ひゃくねん」


ついに怪物の影がつるぎを覆う。

カチカチと狂ったように歯車を鳴らしながら、つるぎに向けて、

ナイフみたいな鋭い針の手をゆっくりと、確実に振り上げた。


こわい。


つるぎは、ぎゅっと目を瞑った。


だれか、たすけて。


「―――おい」


カチカチという不気味な音を力任せに踏み潰すような、低い声が響いた。


突風が、ぶわりと吹く。

硬い金属がぶつかったような音が響く。


つるぎは、更に身をこわばらせた。

だけど、いつまで経っても、何も起こらない。


「……?」


彼女は、そっと目を開けた。


目の前に、黒いスーツの背中があった。

さっきまであの大きな部屋で怒っていた、あのおじさんだ。

おじさんは、怪物が振り下ろした鋭い爪を、

自分の左腕一本でがっしりと受け止めていた。


「泥棒の割には、狙う財布が小さすぎねぇか?」


怪物の身体が、カチカチカチカチ、と震え始める。


「しんにゅうしゃ」


その声も震えていた。


「どうして、どうやって」

「侵入者?」


おじさんはおかしそうに鼻で笑った。


「冷たいこと抜かすなよ。お仲間――だろ!」


おじさんがぐっと腕を突き出すと、怪物の爪が甲高い音を立てて弾き飛ばされた。

体勢が崩れる。その隙を、おじさんは逃さなかった。


右手のバールを大きく引き絞り、ぶん、っと鋭く振り抜く。

鈍い衝撃音とともに、怪物の頭が真横から強烈に殴り飛ばされた。


怪物が悲鳴をあげ、身体の針をバラバラと床にぶちまけながら、

遠くまで吹っ飛んでいく。


信じられないくらい、強かった。

お化け屋敷の怪物が、一瞬でやっつけられてしまった。


「おじ、さん……?」


涙を溜めた目で、つるぎはおじさんを見上げた。


おじさんはバールを肩に担ぎ、つるぎの前でひょいとしゃがみ込んだ。

スーツの袖の破れていたところは、いつの間にか絵の具が乾いたみたいに、

綺麗に元通りになっている。


「探検は楽しかったか?」


つるぎは首をブンブンと横に振った。


「……かえり、たい」

「それがいい」


おじさんはつるぎの頭をポンポンと叩くと、後ろを指差した。

そこには、光の隙間があった。


さっきまでつるぎがいた大きなお部屋の景色が見えている。

「あそこから帰れる。さっさといけ」


言われるがまま、つるぎはその光の隙間に向かってトコトコと走り出した。


光に辿り着く直前。

振り返ると、おじさんはもうつるぎを見ていなかった。


ただ地面の時計をじっと見つめて、

それから光の先にある大きな部屋の時計を見つめて、

じーっと黙り込んでいる。


一秒。

二秒。


やがておじさんは、見たこともないくらい悪い顔をしてニヤッと笑うと、

床でのびていた怪物の首を、がしっ!と掴み上げた。


「おい、時間泥棒」

「やめて、やめて」


怪物が情けない声をあげる。


「まだ消えんなよ」

「はなして、はなして」

「ここ、外と時間の進み方が違うよな?」

「え、あ、そう」


「好都合だ」


おじさんの目が、ギラリと不穏に光る。


「え、え?」

「しばらく借りるぞ。お前も手伝え!ここで残りの検品作業を終わらせる!」


怪物の「やめてぇ!」という悲鳴が、時計の世界に虚しく響き渡った。


つるぎは光のすきまをくぐり抜けながら、幼心に思った。

―――あのおじさん、怪物よりもわるいひとみたい。


5.


午後五時半。

陣貝美術館の正面玄関には、夕焼けの光が差し込んでいた。



「――ふぅ」


ロビーのソファに腰掛け、クロマキーは缶コーヒーを一口あおった。


目の下にはクマが薄っすらと刻まれている。

体中がバキバキだ。

現実では二時間ちょっとしか経っていないが、

精神的な労働時間は軽く二徹を超えている。


例の『時間泥棒』の絵画は、今やただの「ものすごく静かな時計の絵」になっている。気づいたときには搬入庫に転がっていた。最後の方は泣きながら美術品を運んでいた怪異も、完全に燃え尽きたのだろう。


「パパ、もうかえろう。つるちゃんおなかすいたー」

「うん。待っててくれてありがとう」


エントランスの向こうから聞こえてきた声に、クロマキーは視線を向けた。

大階段の手前で、父親に手を引かれた少女が帰路につこうとしていた。美術館のスタッフによる『特殊な処置』を受けた彼女の頭からは、あのぐにゃぐにゃに歪んだ時計の世界も、トゲトゲした真っ黒い怪物の記憶も、きれいに消え去っている。


「もう美術館は嫌になった?」父親が話しかける。

「うん」

「そうか、ごめんな」

「でもね、あのね」


少女は少しだけ微笑んだ。


「ちょっとだけ『たんけん』できた気がする」


彼女はそう言って、記憶の消えかかった頭を傾げながら、どこか楽しそうに笑った。

かすかに残った冒険の残像が、彼女の心を少しだけ弾ませているようだった。


その小さな背中が遠ざかっていくのを、クロマキーはロビーの物陰から、

缶コーヒーを片手に見送った。


「お疲れ様です。クロマキーさん」


いつの間にか隣に立っていた館長秘書が冷ややかな声をかけた。


「うるせぇ。死ぬかと思ったわ……」


クロマキーはソファの背もたれに深く頭を預け、限界を迎えた顔で吐き捨てた。

が、その手にある報告書は、すべての検品が完了したことを示している。

明朝の納期どころか、大幅に前倒し。

文句は言わせない。


秘書はその資料を受け取ると、目を落としながら、淡々と問いかけた。


「それで――事件の犯人である『富豪を殺した美術品』は、どれか分かりましたか?」

「知るかよ。それは警察の仕事だ」


クロマキーは即答し、そのままソファからずり落ちるようにして、

大理石の床にごろりと大の字に寝転がった。


「俺は検査して、仕分けした。それ以上踏み込む義理もねぇ」


天井を見上げながら、クロマキーはボリボリと頭を掻く。

そんなことはどうでもよかった。

それよりも脳裏に浮かんでいたのは、あの絵の中での出来事だ。

あんな小さな子供が、ほんの少しの好奇心で命を落としかける施設。


「……こんな危険な美術館、とっとと潰しちまえよ」


床に寝そべったまま、彼は忌々しそうに悪態をついた。


「ここがなくなったら、困るのはあなたですよ」


そんな彼を、秘書は冷ややかな、

しかしその奥にどこか深い慈愛の籠もった目で見つめていた。


「あなたは、この美術館から離れられないのでしょう?――『ヴィクトール・クロマキーの自画像』さん」


彼は気まずそうに視線を逸らし、黙り込んだ。


彼女の言う通りだった。

彼はこの敷地から一歩も外へ出られない。

キャンバスに描かれた存在が、額縁の外の景色を永遠に手に入れられないのと同じように。

重苦しい沈黙が、夕暮れのエントランスを支配しかけた――その時。


床に転がったままのクロマキーが、何事もなかったかのように、

ぽつりと口を開いた。


「……そういえば、デートの件だが」

「はい」

「返事はOKってことでいいのか?」

「はい」


クロマキーは耳を疑った。

跳ね起きるように上体を起こし、秘書を見上げる。


「ほんとに?」

「ええ。もっとも」


秘書はバインダーを胸元に抱え直し、意地悪に、それでいて楽しげに微笑んだ。


「外へ出られないあなたが、私をどこへ連れて行ってくださるのかは気になりますが」


クロマキーは不敵に笑った。

額縁の中から外を覗くような、どこか超然とした笑みだった。


「ここは美術館だ」

「知ってます」

「呪われた名画の特等席もあるし、庭園の薔薇は永遠に咲いてる」

「ええ」

「それに敷地内のカフェでは紅茶と美味いスコーンが出る。俺の知る限り、この世界で一番まともな場所だよ」


一秒、あるいは二秒。

夕暮れのロビーに、かすかな静寂が戻る。

秘書はすぐには答えず、ただ夕日の光を浴びるクロマキーの顔を、

値踏みするようにじっと見つめていた。


「なるほど」


秘書は降参したように、けれど実におかしそうにクスリと笑った。


「そこまで言われては、断る理由を探す方が難しそうです」

「明日のお昼。休憩時間なら問題ないよな?」


彼女はバインダーを胸元に抱え直すと、

夕暮れの光の中で、今日一番の綺麗な微笑みを浮かべた。


「ええ、楽しみにしています」


それ以上、余計な言葉は交わさなかった。

歩き出した秘書のヒールの音が、夕暮れのロビーにいつもより少しだけ軽やかに響く。


外の世界へは行けない。

彼に許されたのは、この高い壁に囲まれた敷地の中だけ。


けれど、大理石の床からよっこらしょと立ち上がった男の顔に、

悲壮感など微塵もなかった。


呪われた美術館に住む、<人ならざる者>が生み出した肖像画。


世界で一番狭くて、最高に特別なデートの時間は、すぐそこに迫っていた。


<了>




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ