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最後の出勤

十二月二十六日、午前九時。


彩音は五年間通い続けた帝都エージェンシーのエントランスホールに立っていた。クリスマスの装飾がまだ残るガラス張りのロビー、手入れの行き届いた観葉植物、いつもと変わらない受付嬢の営業スマイル。全てが昨日までと同じ風景だった。


しかし今日の彩音は違った。


ワインレッドのブラウスに黒のタイトスカート。蓮司に「派手すぎる」と禁じられていた色が、冬の陽光を受けて深く艶めいている。伊達眼鏡のない素顔には、琥珀色の瞳が静かに輝いていた。


胸ポケットには、昨夜何度も確認した退職届。


五年間、毎朝見上げてきたこのビル。今日で最後だと思うと、不思議と感慨なんてないわね——彩音は心の中で呟きながら、エレベーターのボタンを押した。その指先に、もう震えはなかった。


「園田さん……?」


すれ違った後輩が目を丸くして振り返る。背景に溶け込むはずの彩音が、今日は違う空気を纏っていた。


「え、あの、今日なんか雰囲気違いません?」


「そう? いつも通りよ」


彩音は小さく微笑んだだけで、それ以上何も答えずにエレベーターに乗り込んだ。


いつも通り、ね。五年間ずっと「いつも通り」を演じてきた私が言うと、なかなかの皮肉だわ。


上昇する箱の中で、彩音は静かに息を吐く。階数表示が一つずつ増えていく。心臓の鼓動は驚くほど穏やかだった。


これが最後だ。この檻から出る日が、ようやく来た。



企画部のフロアは、いつも通りの喧騒に包まれていた。キーボードを叩く音、電話の呼び出し音、コーヒーメーカーの作動音。しかし彩音が姿を現した瞬間、空気が凍りついた。


ひそひそ声が波紋のように広がる。


「ねえねえ、昨日の忘年会の話聞いた? 園田さん、桐生さんに振られたんだって」


「えー、かわいそ〜。でもまあ、白川さんの方が華があるもんね。桐生さんの隣に立つなら、やっぱりああいうタイプじゃない?」


「わかる〜。園田さんって地味だし、なんか暗いし。五年も続いたのが不思議なくらい」


彩音の耳に届くように、わざと大きな声で囁かれる悪意。給湯室の前に固まった女性社員たちは、こちらをちらちらと窺いながら口元を歪めている。


……あら、聞こえてますよ? まあいいけど。あなたたちの「Fresh Morning」のコピー、三回書き直してあげたの、誰だと思ってるのかしら。


彩音は内心で冷笑しながら、自分のデスクに向かった。


「あ、園田さんおはようございま〜す。今日もお疲れ様です」


「おはようございます」


この笑顔で挨拶しておいて、背を向けた瞬間に悪口。五年間、本当によく耐えたわね、私。


部長の田所は彩音を一瞥しただけで、すぐにパソコンに視線を戻した。声をかけることすらしない。五年間の貢献に対する、これが会社の答えだった。


彩音はゆっくりとデスクの引き出しを開けた。そこには、誰にも見せたことのない企画書の束が眠っていた。



「あら、彩音先輩。今日も出勤されてたんですね」


来たわね、本日のメインディッシュが——彩音は心の中で呟いた。


白川美玲が、わざとらしい驚きの声を上げながら近づいてきた。ゆるふわの茶髪を揺らし、大きな瞳を潤ませている。その後ろには数人の男性社員が、彼女を守るように控えていた。


「昨日は大変でしたね。私、本当に申し訳なくて……っ」


「白川さん、気にすることないよ。悪いのは君じゃない」


「そうそう。恋愛は自由だからね」


男性社員たちが美玲に同情の視線を送る。被害者と加害者が完全に逆転した構図。


「でも……私のせいで先輩が傷ついたなら、本当にごめんなさい」


美玲は声を震わせ、目に涙を溜めている。しかし彩音には、その演技の下に潜む嘲笑が透けて見えた。


はいはい、目に涙を溜めて、声を震わせて。被害者ぶりの演技、随分と上達したわね。……私の企画書、いくつ盗み見たのかしら。


彩音は美玲の目を真っ直ぐに見つめた。


「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ」


「……え?」


美玲の表情が一瞬固まる。


「本当に、大丈夫。あなたが思っているより、ずっとね」


静かな声。しかしその琥珀色の瞳には、美玲が見たことのない光が宿っていた。獲物を見定める捕食者のような、冷たく鋭い輝き。


美玲は本能的にたじろいだ。何、この目。いつもの園田先輩と違う——しかしすぐに余裕の笑みを取り戻す。


「そ、そうですか。先輩が元気そうで安心しました〜」


「ええ。それじゃあ、私は仕事があるから」


彩音は踵を返した。可哀想に。まだ何も分かっていないのね。自分が何を奪って、これから何を失うのか。



午前十一時、彩音は部長の田所のデスクの前に立った。


「……何だ、園田か」


「お時間よろしいでしょうか。お渡ししたいものがございます」


田所は面倒そうに顔を上げた。彩音が差し出した封筒を見て、わずかに眉を動かす。


「退職届? ……ああ、まあそうなるだろうとは思ってたよ」


「本日付でお願いいたします」


田所は封筒を開けることすらせず、デスクの端に放り投げた。まるでゴミでも扱うように。


「桐生くんとのこともあるし、居づらいだろう。総務に届けておくから、今日中に私物まとめてくれ」


引き留めの言葉は一つもない。五年間、誰よりも残業し、誰よりも成果を出してきた社員に対する態度がこれだった。


「承知いたしました。五年間、お世話になりました」


彩音は静かに頭を下げた。


封筒を開けることすらしない。五年間の貢献への答えが、これ。……ありがとう、部長。おかげで一切の未練が消えたわ。



彩音がデスクに戻ると、フロア中の視線が集まった。退職届を出したという噂は、すでに蜘蛛の巣のように広まっていたらしい。


「ほら見て、園田さん荷物まとめてる。やっぱり辞めるんだ」


「逃げ出すのね〜。まあ、桐生さんに捨てられてここにいられないでしょ」


「五年いて、結局何の実績も残せなかったな。地味な事務仕事しかできない人だったし」


何の実績も、ね。あなたが去年のコンペで出した「未来への架け橋」、誰が徹夜で書き直したと思ってるの?


彩音は何も聞こえないふりをして、デスクの整理を始めた。パソコンのデータを消去し、私物を段ボールに詰めていく。五年間の痕跡が、驚くほど簡単に箱の中に収まっていく。


その手が、引き出しの奥に触れた。


分厚いクリアファイルの束。これこそが、彩音が密かに温めてきた企画書の山だった。「Feel the Breath」「記憶の庭」「一秒の永遠」——どれも提出すれば確実に採用されるアイデアたち。


しかし彩音はあえて出さなかった。蓮司の無能さを隠すために、自分の光を消し続けてきた。


……でも、もういいわ。この企画書たちは、もうここには置いていかない。


彩音は企画書の束を、そっとバッグの中に滑り込ませた。



午後一時、彩音は最後の荷物をまとめ終えた。デスクの上には何も残っていない。五年間の痕跡が、段ボール一つに収まってしまう虚しさ。


ふと視線を感じて顔を上げると、廊下の向こうに蓮司の姿があった。


「これで良かったんだ。彼女には悪いけど、新しい風が必要だったんだよ」


蓮司は美玲と談笑しながら、こちらを一瞥しただけで通り過ぎていった。


「蓮司さん……私、精一杯頑張りますね」


「ああ、期待してるよ、美玲」


美玲が何か囁き、二人で笑い合う。かつての婚約者が会社を去る日に、見送りの言葉一つない。


……ありがとう、蓮司。見送りの言葉一つないおかげで、完全に解放されたわ。


彩音は静かに立ち上がった。不思議と心は凪いでいた。むしろ、ありがとうとすら思った。


あなたの隣で「地味で華がない」と言われ続けた五年間。でもね、私の企画を影で何度直したと思ってるの? これからは私の名前で、私の作品を世に出すだけよ。


段ボールを抱え、彩音はフロアを歩き始めた。誰も声をかけない。誰も目を合わせない。それでいい。この場所に、私の価値を分かる人間は一人もいなかったのだから。


エレベーターホールで、彩音は一度だけ振り返った。


「さようなら」


小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。しかしそれでよかった。届ける相手など、もうこのビルにはいないのだから。



彩音が去った後の企画部フロアで、美玲は勝ち誇った笑みを浮かべていた。


「本当に辞めちゃったんですね、彩音先輩」


わざとらしく寂しそうな声を出しながら、心の中では勝利を噛み締めている。ふふ、これで邪魔者は消えた。蓮司さんも、このフロアも、全部私のもの。


しかしふと、美玲は違和感を覚えた。彩音のデスクは、あまりにも綺麗に片付けられていた。パソコンのデータも、引き出しの中も、何も残っていない。


「……あれ、デスクの中、何も残ってない」


まるで最初から何もなかったかのように。


「まあいいわ。地味な先輩が残すものなんて、大したものあるわけないし」


美玲は肩をすくめて立ち去った。まだ知らなかった。あのデスクの引き出しに眠っていた企画書の価値を。そして、自分がこれから対峙することになる相手の本当の姿を。



帝都エージェンシーを出た彩音は、近くのカフェに入った。温かいカフェラテを頼み、窓際の席に座る。段ボールを足元に置き、バッグから企画書の束を取り出した。


「Feel the Breath」「記憶の庭」「一秒の永遠」——全部、私の作品。誰かの影に隠れる必要は、もうない。


企画書をめくる指先が、わずかに震えた。興奮だった。これからは自分の名前で、自分の作品を世に出せる。


氷室さん……あなたは言ってくれたわね。「あなたの企画に修正は求めない」って。


涙が一筋、頬を伝った。五年間、誰にも認められなかった才能が、ようやく日の目を見る。


彩音はそっと涙を拭い、企画書を丁寧にバッグにしまった。スマートフォンを確認すると、午後三時の約束まであと一時間半。



午後二時五十分、彩音は渋谷区の瀟洒なビルの前に立っていた。


「PRISM」——氷室透真が率いる独立系広告会社。帝都エージェンシーとは対照的な、モダンで洗練された外観。ガラスと白い壁が冬の陽光を反射して輝いている。


深呼吸を一つ。彩音はワインレッドのブラウスの襟元を正した。


もう伊達眼鏡で自分を隠す必要はない。地味なグレーのスーツで背景に溶け込む必要もない。バッグの中の企画書が、確かな重みで彩音を支えている。


ガラスのエントランスに映る自分の姿を見つめた。琥珀色の瞳に、かつてない決意が宿っている。


五年間、あなたの企画を影で何度直したと思ってるの?——心の中で、彩音は蓮司に向かって呟いた。これからは私の名前で、私の作品を世に出すだけよ。


「PRISM」……ここが、私の新しい舞台。伝説のクリエイター「A」が、本当の姿で表舞台に立つ。第二章の始まりよ。


自動ドアに手をかけようとしたその時——


「園田彩音さん」


背後から、低く落ち着いた声が彩音を呼び止めた。


振り返ると、銀縁眼鏡をかけた長身の男性が立っていた。黒髪をオールバックにまとめ、スタイリッシュなジャケットを着崩した独特のセンス。切れ長の目が、彩音を真っ直ぐに見つめている。


氷室透真。


彼は静かに微笑んだ。


「いえ——『A』さん、ですね」


冬の風が、彩音の黒髪をそっと揺らした。

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