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解放の夜明け

深夜零時を回った東京の街は、クリスマスの余韻を残しながらも、どこか物悲しい静けさに包まれていた。


彩音が向かったのは、蓮司と暮らしていた港区の高層マンションではなかった。婚約前から密かに維持してきた、世田谷区の築三十年のワンルーム。古びたオートロックの暗証番号を押し、軋む階段を上る。


「……ただいま」


誰もいない部屋に帰宅の挨拶をするなんて、我ながら滑稽だと思った。けれど、ここだけは誰にも知られていない彼女だけの城だった。蓮司にも、会社の誰にも教えていない。この部屋の存在こそが、五年間の彼女の最後の砦だったのだ。


狭い玄関でコートを脱ぎ、伊達眼鏡を外す。その瞬間、琥珀色の瞳に宿る光が変わった。


六畳一間の部屋は、最低限の家具しかない。小さなキッチン、使い込まれたソファ、窓際に置かれたデスク。けれど彩音にとっては、どんな高級マンションより居心地の良い場所だった。


鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。


「お疲れ様、五年間よく頑張ったね……私」


小さく呟いた言葉が、静寂の中に溶けていく。鏡に映る自分の顔が、こんなにやつれていたなんて気づかなかった。いつから私は、自分の顔すらまともに見なくなっていたんだろう。


キッチンで湯を沸かし、紅茶を淹れる。ダージリンの香りが、張り詰めていた心を少しだけ溶かしていく。蓮司はいつも言っていた。『紅茶なんて地味だ、ワインを覚えろ』と。


窓の外に広がる東京の夜景を見下ろしながら、彩音は長い息を吐いた。港区のタワーマンションからの眺めとは比べものにならない。けれど、このささやかな灯りの連なりが、今の彼女には何より美しく見えた。


解放されたはずなのに、五年という歳月の重さが今になって肩にのしかかる。


紅茶を片手にソファに沈み込むと、記憶が勝手に巻き戻された。


入社二年目、まだ希望に満ちていた頃に出会った蓮司。御曹司の華やかさに目が眩んだわけではない。彼の企画書を初めて見た時、『荒削りだけど、磨けば光るかもしれない』と思った。それが全ての始まりだった。


深夜のオフィスで、何度彼の企画を書き直したことか。


『ここの導線がおかしい』『ターゲット設定が甘い』『このコピーでは心に刺さらない』


赤ペンで埋め尽くされた原稿を、彼女は毎回ゼロから作り直した。蓮司は朝になると『俺の企画、また通ったよ!やっぱり僕には才能があるんだな』と笑い、彩音は『よかったね、蓮司くん』と微笑むだけだった。


何がよかったのだろう。徹夜で書き直した私の企画を、あなたは一度も『ありがとう』と言わなかった。


記憶の中で、蓮司の声が次々と蘇る。


『彩音、君はもう少し華やかになれないの?僕の隣に立つんだから』


食事会の前にそう言われ、慣れないハイヒールで足を痛めた夜。


『君の企画はいつも地味だね。僕が手直ししてあげるよ』


手直しどころか、彼が加えた修正で台無しになった企画を、彩音が徹夜で元に戻した夜。


『僕と付き合えて幸せだろう?桐生の名前があれば、君みたいな地味な子でも箔がつく』


その言葉を聞きながら、なぜ自分は笑っていられたのか。答えは簡単だ。彼女は彼を愛していたのではなく、『愛している自分』という役割を演じていただけだった。


彩音は立ち上がり、部屋の奥にある押し入れに向かった。


積み重ねられた段ボールの一番下、厳重にテープで封をされた箱。五年間、一度も開けなかったそれを、今夜初めて開封する。


「……久しぶり、私の作品たち」


中から現れたのは、数十冊に及ぶスケッチブックと企画書の束だった。どれも匿名で発表され、業界を震撼させた作品の原案。


『Feel the Moment』——あのスポーツドリンクのCMで若者の心を掴み、売上を三百パーセント伸ばした企画。


『母の手』——食品メーカーの企業広告で、日本中を涙させた六十秒のストーリー。


『NEXT STEP』——就活生を勇気づけ、社会現象となったリクルート広告。


全て、彼女の手から生まれたものだった。


業界では誰もが『A』の正体を追っていた。性別すら不明、年齢も経歴も一切謎。ただ、その企画には人の心の奥底を揺さぶる魔法があった。広告賞を総なめにし、クライアントからの指名が殺到しても、『A』は決して表舞台に出なかった。


彩音はスケッチブックのページをめくりながら、当時の自分を思い出す。蓮司の無能さを隠すために、自分の才能も隠した。彼が出世すれば、婚約者の顔が立つと思った。


「……馬鹿みたい。才能を殺してまで守る価値のある男じゃなかったのに」


箱の底から、一枚の古い企画書が出てきた。三年前、蓮司が社長賞を受賞した作品のオリジナル原稿。彩音の筆跡で細かく書き込まれたコンセプト、ターゲット分析、演出プラン。蓮司が提出したものとは似ても似つかない、魂のこもった企画書だった。


あの夜のことを思い出す。蓮司がクライアントに怒鳴られ、青ざめて帰ってきた。


『彩音、助けてくれ。このままじゃ僕のキャリアが終わる』


徹夜で書き上げた企画を渡した時、彼は言った。


『君って本当に便利だね』


便利。その言葉が、今も胸に刺さっている。受賞スピーチで彼は言った。『この作品は僕の全てを注ぎ込みました。支えてくれた皆さんに感謝します』と。会場の片隅で拍手しながら、彩音は唇を噛み締めていた。


企画書を握りしめる指先に、力がこもる。


五年間、どれだけ我慢してきたか。『私なんて』と俯きながら、心の中では何度叫んだことか。


「あなたの企画、支離滅裂すぎて笑えるわ」


声に出してみた。


「そのアイデア、私が三年前にボツにしたやつよ」


言葉が止まらない。


「才能がないくせにプライドだけは一人前ね」


——ふふ。


やっと声に出せた。五年分の本音が、喉元までせり上がってくる。怒りを感じている自分に、少し安堵する。まだ私は死んでいなかった。五年間かけて殺そうとした自分は、まだここにいた。


コートのポケットに手を入れると、今夜渡された名刺に指が触れた。


『株式会社PRISM 代表取締役 氷室透真』


シンプルなデザインだが、紙質と印刷の美しさに彼のこだわりが見える。


『あなたの企画に修正を求めない。そのまま世に出しましょう』


その言葉が何度も脳内でリピートされる。蓮司から一度も言われたことのない言葉。それどころか、誰からも言われたことがなかった。


彩音はスマートフォンで『PRISM 広告』と検索する。ヒットしたのは、業界では異端とされる小さな独立系会社。しかし手掛けた作品は、どれも彩音の心を揺さぶるものばかりだった。


窓辺に立ち、遠くに見える東京タワーの赤い光を見つめる。


彩音の前には二つの道があった。


一つは、このまま帝都エージェンシーに残り、蓮司と美玲の下で働き続けること。屈辱に耐えながら、これまで通り影に徹する道。


もう一つは、氷室透真の手を取り、新しい場所で『A』として表舞台に立つこと。五年間隠し続けた才能を、ようやく自分の名前で世に出す道。


どちらを選ぶべきか、答えは最初から出ていた。でも、一歩を踏み出すには勇気がいる。失敗したらどうしよう。誰かに笑われたらどうしよう。そんな弱気な自分が、まだ心の隅にいる。


でも、もう十分すぎるほど我慢した。これ以上、何を怖がる必要があるの?


スケッチブックを手に取り、白紙のページを開く。五年ぶりに、自分のためだけにペンを走らせる。


浮かんでくるのは、今夜の忘年会の光景。蓮司の傲慢な表情、美玲の白々しい涙、好奇の目で見る同僚たち。そして、真っ直ぐに自分を見つめた氷室透真の眼差し。


ペンが止まらない。アイデアが溢れ出す。これまで押し殺してきた創造性が、堰を切ったように流れ出す。


気づけば夜が明けていた。


窓から差し込む朝日の中、彩音は完成したラフスケッチを見下ろす。自分でも驚くほど、生き生きとした作品がそこにあった。


シャワーを浴び、鏡の前に立つ。いつものグレーのスーツに手を伸ばしかけて、彩音は動きを止めた。


クローゼットの奥、婚約前に着ていたワインレッドのブラウスを引っ張り出す。蓮司に『派手すぎる、僕の隣で着ないでくれる?』と言われて封印した、お気に入りの一着。


「……もう、あなたの隣には立たないから」


袖を通すと、忘れていた自分が戻ってくる気がした。伊達眼鏡を外し、コンタクトレンズを入れる。鏡に映るのは、琥珀色の瞳を隠さない女性。


彩音は小さく笑った。


「五年間、あなたの企画を影で何度直したと思ってるの?」


心の中で、蓮司に向かって呟く。


「これからは私の名前で、私の作品を世に出すだけよ」


出社の準備を終えた彩音の手には、氷室透真の名刺があった。深呼吸をして、番号をタップする。二コールで繋がった。


「氷室です」


低く落ち着いた声が耳に届く。


「おはようございます、園田彩音です。昨夜は失礼しました」


一瞬の沈黙の後、氷室の声に微かな笑みが混じった。


「早いですね。今朝中に連絡があると思っていました」


「……見透かされているみたいで、少し怖いですね」


「怖がらせるつもりはありません。ただ、あなたの作品をずっと見てきた。それだけです」


その言葉には、駆け引きも計算もなかった。純粋に作品を見続けてきた人間の、静かな確信だけがあった。


「あなたは自分の価値を知っている。それを押し殺すことに、もう耐えられなくなっていた。違いますか?」


彩音は窓の外を見た。昨夜と同じ東京の景色が、全く違って見える。


「お話を、聞かせていただけますか」


「もちろん。今日の午後、PRISMのオフィスに来られますか?」


「はい。……伺います」


「お待ちしています、園田さん。いえ——『A』さん」


その呼び方をされると、背筋が伸びる。私が私であることを、認められている気がする。


「……では、午後に」


電話を切った。指先が少し震えている。でも、怖いからじゃない。五年間の枷が、音を立てて外れた。


彩音はバッグの中から、前日のうちに用意していた封筒を取り出した。白い封筒には『退職届』の三文字。


窓の外の東京が、昨夜とは全く違って見える。


「……さあ、始めましょうか」


彩音は封筒を握りしめ、静かに呟いた。


「明日から、私の人生を始める」


伝説のクリエイター『A』が、表舞台に立つ。物語は、ここから本当に始まる。

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