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煌めきの檻

十二月二十五日、クリスマス。


東京・六本木の高層ビル最上階。大手広告代理店『帝都エージェンシー』の忘年会場は、まばゆいシャンデリアの光に包まれていた。


グラスが触れ合う澄んだ音色、華やいだ嬌声、そして年末特有の高揚感。それらが混然一体となって、会場を満たしている。


園田彩音は会場の隅で、いつものようにグレーのスーツを纏い、壁に溶け込むようにシャンパングラスを傾けていた。


(……今年もこの季節が来たわね)


琥珀色の瞳が伊達眼鏡の奥で、冷静に会場を観察する。きらびやかなドレスを纏った女性社員たち。高級スーツに身を包んだ幹部たち。誰もが年に一度の晴れ舞台を楽しんでいるように見えた。


(シャンデリアの光、高そうなシャンパン、そして中身のない会話。まるで広告業界そのものを煮詰めたような空間)


彩音の視線が、ふと会場の中央付近で止まった。


完璧にセットされた栗色の髪。仕立ての良い高級スーツを着こなした長身の男——婚約者の桐生蓮司が、ゆるふわの茶髪ロングヘアを揺らす女性と談笑している。白川美玲。今年入社したばかりの新人だ。


美玲が何か言うたびに、蓮司は大げさに頷き、時折肩に手を添える。その距離感は、明らかに上司と部下の範疇を超えていた。


(あら、また美玲ちゃんに構ってる)


彩音はグラスに口をつけ、冷えたシャンパンを喉に流し込んだ。


(まあいいけど。蓮司の『新しい感性』への食いつきの良さだけは、野良猫並みね)


不思議と、胸は痛まなかった。怒りも湧かなかった。五年という歳月が、彼女の心をどこか遠い場所に置いてきてしまったことに、彩音自身もまだ気づいていなかった。


ただ、凪いでいる。


穏やかな湖面のように、何も映さない水面のように。




「彩音、ちょっといいかな」


蓮司の声が、会場のざわめきを切り裂いた。


彩音が振り向くと、妙に改まった表情の婚約者が立っていた。端正な顔立ちは相変わらずだが、その瞳には緊張とも興奮ともつかない光が宿っている。


そして、その後ろには——涙を湛えた大きな瞳の美玲。


「……なに?」


彩音の声は平坦だった。


(この改まった顔。後ろで涙ぐんでる美玲ちゃん。……ああ、なるほど)


嫌な予感がした。いや、それは予感ではなく、確信だった。


(クリスマスに婚約破棄。ドラマチックな演出がお好きなのね、相変わらず)


蓮司は彩音の手を取り、会場の中央へと導いた。抵抗する理由もなく、彩音は黙って従った。


シャンデリアの真下。まるでスポットライトのように、クリスタルを透過した光が二人を照らす。周囲の視線が集まり、談笑していた人々が次々と口を閉ざしていく。


彩音の心臓が、ゆっくりと脈打った。恐怖でも緊張でもない。ただ、終わりの予感を噛み締めるように。


「みんな、聞いてくれ」


蓮司の声が会場に響き渡った。グラスを持つ手が止まり、すべての目が彼らに注がれる。


「僕と彩音の婚約は、今日をもって解消することになった」


どよめきが波紋のように広がった。


「えっ……」「嘘でしょ」「桐生さんと園田さんが?」


ざわめきの中、蓮司は悲しげな表情を作った。眉を寄せ、苦渋に満ちた顔で——しかしその瞳には、他者への敬意など微塵も宿っていなかった。


「蓮司さん……私、やっぱりこんなの……」


美玲が背後で声を震わせる。大きな瞳に涙を湛え、両手を胸の前で組んで。


「いいんだ、美玲。隠し続ける方が君を傷つける」


蓮司が振り返り、美玲の肩を優しく抱く。まるで映画のワンシーンのような構図。


(……傷つける? あなたが?)


彩音の内心で、冷たい笑いが漏れた。


(笑わせないで。この五年間、傷ついてきたのは誰だと思ってるの)


「彩音、君には感謝している。でも、僕たちはもう合わないんだ」


蓮司が向き直り、彩音を見下ろす。その視線には、同情と優越感が入り混じっていた。


「君の企画はもう古いんだよ。時代は変わった。美玲のような、新しい感性が必要なんだ」


言葉が刃のように空気を切り裂く。周囲から小さなざわめきが起こった。


(……古い? 私の企画が?)


彩音の脳裏に、先月の記憶がよみがえる。深夜のオフィス、青白いモニターの光。蓮司が「自信作だ」と持ってきた企画書を、一から書き直した夜。


(先月のあなたのプレゼン、私が徹夜で全部書き直したの、もう忘れたの?)


「私のせいで……ごめんなさい、彩音先輩……っ」


美玲が一歩前に出て、涙を流した。ゆるふわの茶髪が揺れ、大きな瞳から雫がこぼれ落ちる。完璧な構図。完璧な演技。


(その涙、練習したでしょう)


彩音は冷静に観察していた。


(目尻の角度が完璧すぎるのよ。あと、謝るなら私じゃなくて鏡に向かって言いなさい)


「僕の隣に立つ女性には、もっと華やかさが必要なんだ」


蓮司が続ける。その言葉は、五年間で何度も聞いた台詞だった。


「君も分かるだろう?」


(華やかさ。ええ、分かるわ)


彩音の心は、どこまでも凪いでいた。


(あなたが求めてるのは、自分を引き立てるアクセサリーでしょう? 仕事ができる女じゃなくて)


周囲から視線が突き刺さる。同情、嘲笑、好奇——様々な感情が入り混じった目が、彩音を見つめていた。


「やっぱりね」「地味だったもんね」「桐生さんには釣り合わないと思ってた」


ささやきが、さざ波のように広がっていく。


彩音は静かに立っていた。微動だにせず、表情も変えず。


その姿を、会場の反対側から見つめる視線があった。




壁際に一人の男が立っていた。


氷室透真。独立系広告会社『PRISM』の代表。


銀縁眼鏡の奥の切れ長の目が、シャンデリアの下で公開処刑されている女性だけを見つめていた。


黒髪をオールバックにまとめた知的な風貌。スタイリッシュなジャケットを着崩した独特のセンス。三十二歳にして業界で最も勢いのある会社を率いる、若き実力者。


透真はグラスを傾けながら、静かに観察を続けていた。


あの女性だ。


地味なグレーのスーツ。シンプルなローポニーテール。伊達眼鏡の奥に光る、琥珀色の瞳。


彼は業界で唯一、伝説のクリエイター『A』の正体を追い続けてきた男だった。社会現象を起こしたCM、広告賞を総なめにした作品群——その全てに共通する、独特の『呼吸』。


そして今夜、確信した。


彼女こそが、『A』だ。


「……馬鹿な男だ」


透真は小さく呟いた。その言葉は誰の耳にも届かない。


しかしその視線は確かに、彩音の背中を捉えていた。




「……そう」


彩音の声は、驚くほど平坦だった。


会場が静まり返る。誰もが次の言葉を待っていた。泣き崩れるのか、叫ぶのか、縋りつくのか。


蓮司が眉をひそめた。


「それだけ? もっと取り乱すと思ったんだけど」


「期待に添えなくてごめんなさい」


彩音は左手を持ち上げた。薬指に輝くプラチナのリング。五年間、この指を飾り続けてきた——枷。


(取り乱す? 五年も我慢してきた女が、今さら何に取り乱すと思ったの?)


するりと指輪を外す。シャンデリアの光がプラチナの表面で踊った。


(あなたの無能さには、とっくに慣れたわ)


「先輩……怒ってますよね?」


美玲がおずおずと声をかける。


「私、先輩に嫌われたくなくて……」


(嫌う価値があると思ってるの?)


彩音の心の中で、冷たい言葉が滑り落ちる。


(私のボツ企画を盗み見してた子が?)


「……別に。怒ってなんかいないわ」


声は凪いだままだった。


「さすが彩音だ。大人の対応ができる」


蓮司が満足げに頷く。


「でも、それが君の限界なんだよ。情熱がない。輝きがない」


(輝き)


彩音の唇が、かすかに歪んだ。


(……ああ、そうね。私の輝きは全部、あなたの企画書に注ぎ込んできたもの。あなたが受賞したあのCM、誰が書いたか覚えてる?)


「お返しするわ」


彩音は一歩前に出た。そして、外した指輪を蓮司の胸ポケットにそっと入れた。


「……指輪か。まあ、君には似合わなかったしな」


「ええ。大切にしてあげて、美玲さんに」


振り返りもせず、彩音は言った。


(これで終わり。五年間の檻から、やっと出られる)


「あ、彩音先輩……! 待って……」


美玲の声が背中に投げかけられる。


「いいんだ、美玲。追わなくていい」


蓮司が美玲を制止する声が聞こえた。


「彼女なりに整理が必要なんだろう」


(整理? もうとっくに終わってるわよ)


彩音は背筋を伸ばし、一歩一歩、確かな足取りで歩き出した。


(むしろ今、最高に清々しい気分)


周囲の視線を切り裂くように、会場の出口へと向かう。誰も声をかけなかった。誰も追わなかった。


地味なグレーのスーツを纏った女は、シャンデリアの光を背に、静かに会場を去っていく。




ビルを出た瞬間、十二月の夜風が頬を撫でた。


冷たい空気が肺を満たす。吐く息が白く染まり、夜空に溶けていく。


東京の夜景が眼下に広がっていた。無数の光が瞬き、クリスマスの街は華やかに輝いている。


彩音は深く息を吸い込んだ。


「終わった……」


呟いた声は、解放の響きに満ちていた。


「ふふ……」


笑いがこみ上げてきた。


「あはは……っ」


声を上げて笑った。五年間、ずっと演じ続けてきた『控えめな婚約者』という仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。


夜風が黒髪を揺らした。ローポニーテールがほどけ、艶やかな髪が肩に流れ落ちる。


「これからは私の名前で、私の作品を世に出すだけ」


琥珀色の瞳が、夜空を見上げた。


伝説のクリエイター『A』——その正体は、ずっとこの女性だった。桐生蓮司の影で、名もなき協力者として、数々の名作を生み出し続けてきた天才。


その新しい章が、今、始まろうとしていた。




「探していました」


背後からの声に、彩音が振り向いた。


銀縁眼鏡。黒髪のオールバック。切れ長の目。


氷室透真が、そこに立っていた。


「……どなた?」


「氷室透真。PRISMの代表です」


名刺を差し出す透真の目が、真っ直ぐに彩音を見つめる。冷たい印象の中に、本質を見抜く鋭い眼差しがあった。


(PRISM……独立系では最も勢いのある会社。この人が代表? 若いのに)


彩音が名刺を受け取ろうとした時、透真の唇が動いた。


「そして、『A』さん——いえ、園田彩音さん」


彩音の指が止まった。


「ずっとあなたを探していました」


「……っ」


呼吸が止まった。心臓が大きく跳ねる。


(知ってる。この人、私の正体を知ってる——)


「僕と一緒に、本物の広告を作りませんか」


透真の声は静かだが、確かな熱を帯びていた。


「……なぜ、私だと?」


「『A』の作品には、独特の呼吸がある」


透真は一歩近づいた。


「言葉の選び方、間の取り方……あなたが書いた企画書と、同じ呼吸です」


彩音の目が見開かれた。


(……この人、本気で私の作品を見てきたんだ)


五年間、桐生蓮司は一度も気づかなかった。彩音が何度企画書を修正しても、何度CMのコピーを書き直しても、「僕の力だ」と思い込んでいた。


なのに、この男は——


「あなたの才能を隠させる男の隣にいる必要は、もうないでしょう?」


透真の言葉が、夜風に乗って彩音の耳に届いた。


「……ええ、そうね」


彩音は小さく頷いた。


(この人の目……蓮司とは違う。私を『見て』いる)


「返事は急ぎません」


透真が名刺を彩音の手に握らせた。


「ただ、覚えておいてください。僕はあなたの企画に、修正を求めたりしない」


「……」


「あなたの作品は、そのまま世に出す価値がある」


五年間、誰も言ってくれなかった言葉。


彩音の指が、名刺を強く握りしめた。


「……名刺、いただいておくわ」


声が、かすかに震えていた。


(悔しいけど、少しだけ、心が震えた)


クリスマスの夜。


六本木の高層ビルを背に、二人の影が夜風に揺れていた。


園田彩音の、本当の物語が——今、始まろうとしていた。




名刺を握りしめたまま、彩音は夜空を見上げた。


無数の星が瞬いている。いや、東京の空に星など見えるはずがない。あれは全て、ビルの灯り、飛行機のライト、人工の光だ。


それでも、彩音には輝いて見えた。


五年間、ずっと暗い檻の中にいた。自分の才能を隠し、無能な男を支え、影に徹してきた。


でも、もう違う。


「やっと——」


呟きが、白い息となって夜空に溶けていく。


「——解放される」


その言葉の意味を、まだ誰も知らない。


伝説のクリエイター『A』が、ついに表舞台に立とうとしていることを。


そして、桐生蓮司の栄光が、砂上の楼閣だったことが明らかになる日が、すぐそこまで迫っていることを。

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