⑨反撃のアツシ
アツシは、恨みのこもった、低い声を出した。
「……やめろよ、クソオヤジ……」
「あ? 何か言ったか?」と郁太。
「猫を投げるな……、母ちゃんを殴るな……」
「母ちゃん? 何言ってんだ、お前」
アツシは苦しそうに、壁に寄りかかり立ち上がった。
その瞬間、郁太の表情から笑みが消えた。
クロエを手放すと、アツシに近付く。
トドメの一撃を、食らわそうとしたのだ。
——冷蔵庫を持ち上げてろ。
また、嫌いな声が聴こえた。
それは、アツシの鼓膜に絡みつくと、不愉快に何度も反響した。
——冷蔵庫を持ち上げてろ。
「冷蔵庫……? 持ち上げてやるよ……」
アツシは半目を開き、フラフラとキッチンへと向かう。
冷蔵庫を見つけると近づき、両手でガッチリと掴んで持ち上げた。
その奇妙な行動を、呆れた顔で見つめる郁太。
「お前、何やってんの?」
かつて、アツシが冷蔵庫を持ち上げさせられた時、常に思っていた事があった。
この冷蔵庫を、健作にぶつけてやりたいと。
健作のハゲた後頭部を睨みながら、いつも想像していた。
想像する事で、少しだけ反撃した気持ちになれたからだ。
それで、五年間もの虐待に耐えてこれた。
「早く下ろせよ。頭おかしくなったか?」
冷蔵庫を抱えるアツシに、郁太が近づく。
冷蔵庫は大きい上に、食品も沢山入っている。
ズッシリとした重量だ。
「フーッ、フーッ!」と荒い息を吐き、必死で持ち上げるアツシ。
手は充血し、痺れていた。
顔も紅潮し、こめかみの血管がピクピクと浮き出る。
脇汗も、ぐっしょりだ。
「終われるかよ……」
「あ?」と郁太。
「やられっぱなしで……終われるかよ……ひぐっ……ひぐっ……」
アツシの目から、沢山の涙が溢れた。
「このまま、やられっぱなしで……終われるかよぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお!!」
涙は、滝のように流れ出す。
それは頬を濡らし、光り輝いた。
これほど涙が出たのは、生まれて初めてだ。
今、三十年以上ずっと抱えてきた健作への怒り、憎しみが、大爆発したのだ。
アツシは、一歩二歩と進んだ。
バチンッと、コンセントの外れる音がした。
面倒臭そうに郁太が、アツシの持ち上げた冷蔵庫を、反対側から掴む。
「おい、いいから下に降ろせよ、バカ」
アツシは降ろさないどころか、前のめりに加速して、郁太を押していく。
「おい、危ねえだろ!」と、郁太が怒鳴る。
だが、そんな声など、もうアツシには聴こえない。
アツシは、振り絞るような声で呟いた。
「子供を虐待するような奴は……」
きつく目を閉じる。
さらに、沢山の涙が絞り落とされた。
「子供を虐待するような奴は……クズだぁぁぁぁぁぁ!!」
鬼の形相に変わったアツシ。
「うおおぉ!」と、獣のような雄叫びをあげた。
その顔は、涙と鼻水とヨダレで、グシャグシャだった。
徐々に、郁太をリビングの奥へと、押しやっていく。
郁太は、身の危険を感じた。
「お、おい、バカ! やめろっ!」
大きさと、重量のある冷蔵庫に、押され続ける郁太。
遂に、リビングの奥に設けた縁側のガラス戸まで、押し込まれた。
これ以上押されたら、大変な事になる。
「マジで、やめろって!」
アツシは吠えた。
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ————————————————————————————————‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
ガシャーン!!
……ドスン!!
もの凄い音が、近所中に響いた。
ガラスを突き破り、冷蔵庫と共に倒れた郁太。
しかも、冷蔵庫の下敷きになっている。
郁太の意識が遠のいた。
その後、冷蔵庫に入っていた牛乳が、彼の顔へと流れ落ちる。
「がはっ……ぐはっ……」
むせ込む郁太。
彼の顔は真っ白に染まり、もう誰なのか分からなくなっていた。
一方、押し倒したアツシも、郁太の側でうつ伏せのままだった。
全身の痛みと疲労で、ピクリとも動けない。
だが、嬉しかった。
とても、愉快だった。
あの健作(郁太)を冷蔵庫で、押し倒したのだ。
まさに、人生最高の気分だった。
「クックックッ……ざまあみろ……ざまあみろ……ざまあ……みろ……ボケが……」
つづく…… (次回、完結)




