③過去を振り返るアツシ
その日の午後、アツシは物置部屋に訪れた。
欠伸をしているクロエを持ち上げると、段ボールに入れて蓋をする。
それを脇に抱えると、向かった先はいつもの公園だ。
今日もベンチで横になり、貧乏ゆすりをしていると、あの女の子がポニーテールを左右に揺らしながら、駆け寄ってくる。
「おっじさーん! クロエちゃんは元気?」
「ああ、その中にいるよ」と、アツシが指を指す。
女の子は段ボールを開け、クロエの小さな頭を撫で始めた。
一緒に入れてある餌に気付くと「クロエちゃんのご飯!」と言って、アツシを見上げた。
「やっぱりおじさん、いい人だったんだね」
いい人だと言われたのは、生まれてこのかた初めてだ。
アツシは少し照れた。
「お、おう。まあな。へへっ」
笑顔の女の子は、腰のポケットポーチから何かを取り出した。
「これ、あげる!」
屈託のない笑顔で、何かを差し出してきた。
またお年玉袋か?
いや、違った。駄菓子だ。
十円、二十円のガムやチョコ。
これがお礼かよ、とアツシは鼻で笑った。
それから二人は毎日、午後三時過ぎに公園で会うようになった。
女の子の名前が、赤西結衣という事も知った。
結衣は毎回、クロエをあやしながら、アツシの知らないアニメや少女漫画の話ばかりをしてくる。
最初は、わずらわしく感じていたアツシだったが、次第に結衣に会う事を楽しみにしていた。
そんなある日の事だ。
アツシは、いつものようにベンチに寝転がり、股間をボリボリ掻いていた。
ふと、結衣から貰った駄菓子が、まだポケットに入っている事に気付いた。
それは十円ガムだった。
取り出し、口の中に放り込む。
とたんに甘く懐かしい味が、口の中いっぱいに広った。
グレープ味だ。
だが、しばらく噛んでいるとすぐに味は無くなり、ただの白く柔らかい塊になる。
そこからは、ひたすら顎の運動だった。
アツシはゆっくりと目を閉じる。
十円ガムは、まるで自分の人生のようだ。
幼少期は楽しかったんだ。
保育園、幼稚園に通っていた頃。
毎日、玩具やボールで遊んだり、鬼ごっこをした記憶がある。
美味しい昼食を食べて、お昼寝をした後はオヤツも出てきた。
毎日が楽しくて、しょうがなかった。
だが小学校に上がってからは、個々の能力の差に関わらず、全ての授業が一律に進んでいく。
当然そこには勉強が出来る子、運動が得意な子、またクラスの人気者が現れる。
教室という狭い空間の中で、徐々に格差のようなものが生まれ始めた。
アツシは勉強も運動も苦手な上、うまく友達も作れず、ひとり取り残された気持ちになっていた。
そうした中、悲劇が始まった。
母親の再婚相手、岡野健作が現れたのだ。
健作はアツシに五年間、毎日虐待を繰り返した男だ。
とにかく、目が合うと引っ叩くのだ。
しかも、アツシが遊びに行く事はもちろん、家で漫画を読んだりテレビを見る事も許さなかった。
かと言って、勉強をしても殴られた。
もし頭が良くなり、将来自分よりも稼ぐようになったら許せない、という理不尽な理由だった。
虐待が終わったのは、アツシが中学生になった頃だ。
酒に酔った健作が路上で喧嘩をし、相手の男を殴り殺してしまったのだ。
これにより健作は刑務所暮らしとなり、アツシの長く辛かった虐待は、やっと終わる事になる。
しかし、幸せは訪れてくれなかった。
その翌年、女手一つで必死にアツシを育ててきた母の孝子が、過労で亡くなってしまったのだ。
以後アツシは、親戚の家を転々とした後、施設で過ごす事となる。
この幼少期から続く不幸な体験が、アツシの世を拗ねた、歪んだ性格を形成していった。
中学校を卒業したアツシは、高校には行かず働き始める。
しかし、どの職場でも上手く馴染めず、劣等感はさらに増え続けた。
友達も恋人も作れず、心から楽しいと思える事も何一つなかった。
ギャンブルにも手を出したが、結果は散々。
莫大な借金を作り、毎日のように借金取りから逃げ回るようになった。
そして四十歳を過ぎた頃、アツシは悟った。
もう俺の人生は終わっている。
正社員になれる能力などない。
結婚も無理、貯金も無理。
今さら頑張ったところで、何も変わらない。
いたずらに時間を費やし、疲弊し、醜態を晒すだけだ。
なんとバカバカしい事か。
まさに十円ガムだ。
甘いのは最初だけだ。
すぐに無味無臭の日々が訪れ、後は噛めど無くならない死体の様な塊を、いつかゴミ箱に吐き捨てるだけ。
それだけ。
それが俺の人生なんだ。
……もう終わりたい。
……さっさと終わりたい。
……こんなクソみたいな人生。
つづく……




