エピソード40:将軍恋物語3
温泉街の散策を続けるナバール一行。
案内役のルルーナに連れられてやってきたのは、火山の熱を利用した名物料理「地獄蒸し」の食事処でした。
そこで一行を待ち受けていたのは、異国の文化である「箸」という名の難敵。
最強の将軍オーウェンが、たった二本の木の棒を前に、人生最大の窮地に立たされます。
そして、親切心から差し伸べられたルルーナの「追撃」が、彼の理性を限界まで追い詰めることに……。
案内された「地獄蒸し」の食事処は、火山地帯の熱気をそのまま形にしたような、活気溢れる場所だった。
至る所にある蒸気口からは「シュシュッ!」という勢いのある音が響き、巨大なせいろがいくつも並べられている。
「さあ、こちらへどうぞニャ。ここは王都でも一番、熱の質が良いと評判の店なんですニャ」
ルルーナさんに導かれ、俺とオーウェンは円卓につく。
やがて、職人風の獣人の男が「お待たせ!」と威勢よく、目の前のせいろの蓋を開けた。
――ボフッ!
真っ白な爆音のような湯気と共に、素材の香りが爆発した。
中から現れたのは、丸ごと一匹蒸し上げられた見事な白身魚と、甘みが凝縮された色鮮やかな野菜。余計な味付けをせず、大地の熱だけで調理されたその姿は、ある意味でどんな豪華絢爛な宮廷料理よりも贅沢に見えた。
「さあ、召し上がってくださいニャ。この国の伝統的な食べ方……『お箸』を使ってどうぞ」
ルルーナさんが微笑みながら差し出してきたのは、二本の細い木の棒だった。
俺はそれを受け取り、指先でその感触を確かめる。
「箸か……。懐かしいな。昔、母上に無理やり練習させられたことがあった。獣王国の伝統的な作法は、いつか必ず役に立つと言って……」
母上――アイリス皇太后の顔が脳裏をよぎる。
ドラグーンではフォークとナイフが主流だが、母上は「王たる者、世界の文化に精通せよ」と、幼い俺にスパルタ教育を施したのだ。
当時は豆を一粒ずつ皿から皿へ移動させる訓練に涙したものだが、今、この場所でその教えが結実しようとしていた。
俺は記憶を頼りに指をかけ、カチカチと箸先を鳴らす。
よし、鈍っていない。
しかし、問題は俺の隣に座る男だ。
「…………」
オーウェンは、まるで伝説の聖剣か、あるいは解除を間違えれば爆発する古代の魔導具でも手渡されたかのように、並々ならぬ緊張感を全身から漂わせながら箸を見つめていた。
その顔は、魔族の軍勢を前にした時よりも険しい。
「……オーウェン。それは剣じゃないんだから、そんなに強く握るな。木の棒だぞ、折れるだろうが」
「はっ! ……し、しかしナバール様、この細く、掴みどころのない二本の棒だけで、滑りやすい魚の身を制圧し、さらに重力に抗って口へと運ぶなど……至難! これならば、飛来する矢を素手で掴む方が、よほど物理学的な正解に近いかと存じます!」
「何を難しいことを言ってるんだ。ほら、見てろ」
俺はお手本とばかりに、箸でふっくらとした魚の身を切り分け、口に運んだ。
口の中で魚の旨みが溶け出し、大地の滋味が広がる。……美味い。
「あら、ナバール様はお上手ですニャ! ドラグーンの方なのに、まるでこちらの方のようですニャ」
ルルーナさんの称賛を受け、俺は少し得意げに頷いた。
だが、そのやり取りが、隣の男のプレッシャーをさらに加速させた。
「ぐっ……! 我が主が成し遂げられたことを、このオーウェンができぬはずがない……! いざッ!」
オーウェンが意を決して、獲物を狙う鷹のような鋭さで箸を突き立てた。
だが、彼の手は「鉄壁の守護神」としての筋肉がつきすぎている。繊細な制御を拒むその指先が、限界まで力んだ瞬間。
――カチッ!
箸の先が無情にも交差し、強い弾性によって弾かれた魚の身が、皿の上をスケートのように滑っていった。
戦場では数多の敵を切り伏せてきた「剛腕」が、たった二十センチほどの木の棒を前に、完全に沈黙している。
「あ、あらあら。オーウェン様、お箸は力でねじ伏せるのではなく、優しく添えて、導くのがコツですニャ」
見かねたルルーナさんが、くすりと楽しげに笑って席を立った。
そして、あろうことかオーウェンの背後に回り込み、彼の右手にそっと、自分のしなやかな手を重ねた。
「ひゃっ、…………ッ!?」
オーウェンの口から、これまでの二十七年の人生で、そして俺が彼と出会って以来、一度も聞いたことのないような情けない裏返った声が漏れた。
背後から包み込まれるような形になり、ルルーナさんの柔らかな手の温もりが、彼の革手袋越しに伝わる。
さらに、彼女が覗き込むように顔を近づけたため、ピンと立った猫耳がオーウェンの首筋をくすぐるほどの距離になった。
漂うのは、温泉の湯気と、彼女特有の甘く落ち着いた香り。
「こうして、一本は下の指でしっかりと固定して……もう一本を、人差し指と中指で動かすんですニャ。ほら、私と一緒に動かしてみてください」
ルルーナさんは、先ほどまでのドジっ子ぶりが嘘のように、箸使いだけは非常に優雅で手慣れていた。
だが、教えられているオーウェンの方は、もはや箸が二本あるのか四本あるのかすら分かっていないだろう。
(……おい、オーウェン。お前の『気』が限界を突破して、店中のせいろの蒸気より熱くなってるぞ。このままだと全身の血管が沸騰するんじゃないか?)
ルルーナさんの柔らかな誘導によって、箸は滑らかに動き、見事に一口大の魚の身を捉えた。
そのまま、彼女は手を離さず、オーウェンの腕ごと、その身を彼の口元へとしなやかに運んだ。
「はい、あーん……ですニャ?」
衝撃。
それは、ドラグーン王国最強の盾が、生涯で受けた最大の打撃だった。
ルルーナさんに深い意味はない。ただ、箸が使えない大切なお客様に対し、おもてなしの心で手伝っているだけだ。
しかし、オーウェンにとっては、いかなる古代呪文や高位魔法よりも致命的な一撃だった。
彼は顔面を沸騰した火山のマグマのように真っ赤に染めたまま、パクパクと空気を求める金魚のように口を動かした。
思考は停止し、生存本能だけが「口を開けろ」と命じている。
彼は最終的に「カチン」と、物理的な音が周囲に聞こえるほどの勢いで全身を硬直させた。
「……ナバール様。俺は、今日、ここで……生涯を終えるのかもしれません……」
ルルーナさんに箸を握らされたまま、魂が口から半透明になって抜けかかったような声で、オーウェンが呟く。
その瞳は焦点が合っておらず、どこか遠い天界の光でも見ているかのようだった。
「何を縁起でもない。しっかりしろオーウェン。お前、ルルーナさんが手を離したらそのまま後ろにひっくり返るぞ」
「……自分は、既に……地に足がついていない心地であります……」
俺はそんな彼を哀れみの目で見つつ、これ以上のフォローは逆効果だと判断し、見ないふりをして自分の食事に戻った。
母に仕込まれた箸捌きで、静かに、そして冷静に、極上の魚を口に運ぶ。
横では、未だにルルーナさんが「あら、食べてくれませんかニャ?」と、小首を傾げてオーウェンを覗き込んでいる。
そのたびにオーウェンの体からプシュッ、と蒸気(のような魔力)が漏れる音がした。
ドラグーン王国が誇る、無敵の守護神。
彼が今、一人の女性の親切心によって、文字通り灰になろうとしている。
食事が終わる頃、オーウェンの前には綺麗に骨だけになった魚の皿があった。
しかし、彼がどうやってそれを食べたのか、どんな味がしたのか……本人の記憶には、ルルーナさんの手の感触と「あーん」という残響以外、何一つ残っていないに違いなかった。
「……美味しかったですかニャ、オーウェン様?」
「は、はっ! ……極上の、殺傷能力でありました……!」
「……?」
ルルーナさんの不思議そうな顔を横目に、俺は胃を休めるための茶を啜った。
どうやらこの将軍、国に帰る頃には、精神的に一皮剥けているか、あるいは恋という名の業火で燃え尽きているかのどちらかだろう。
ご清読ありがとうございます。
箸という名の異文化の壁、そしてルルーナさんの「あーん」という名の最終兵器。
戦場では無敵を誇るオーウェン将軍も、恋の波乱には防戦一方のようです。
ナバールが涼しい顔で食事を楽しむ傍らで、精神的死闘を繰り広げるオーウェン。
この不器用な恋の行方は、果たしてどこへ向かうのでしょうか。
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