エピソード39:将軍恋物語2
獣王国の王都、情緒あふれる温泉街。
そこには、戦場を駆け抜けてきた勇士たちをも惑わせる、平和で甘美な「罠」が潜んでいました。
案内役のルルーナに心奪われた護衛将軍オーウェン。
普段は冷静沈着な彼が、自身の「オーバーヒート」する心臓と戦う様子を、悪戯心たっぷりに見守るナバール。
強固な鎧の下に隠された、不器用な一人の男の物語が加速します。
ベンドア獣王国の名物、巨大な間欠泉が「ゴゴゴ……」と腹に響く地響きを立てて吹き上がる。
空高く舞い上がった熱水が、太陽の光を反射して虹を描き、周囲に集まった観光客からは割れんばかりの歓声が上がった。
だが、ドラグーン王国の「最強の盾」であるはずの男は、その絶景には目もくれず、全く別の方向を凝視していた。
「……あの、オーウェン様? 先ほどから、私の背後をじっと見つめていらっしゃいますが……何か不手際でもありましたかニャ?」
案内役のルルーナさんが、首を少し傾げて問いかけた。
控えめだが落ち着いた、包み込むような大人の聲音。
オーウェンは雷に打たれたように肩を跳ねさせ、数歩飛び退いた。
「はっ! ……い、いや! 決してそのようなことはない! 貴殿の……その、非常に効率的な『重心移動』に、護衛のプロとして感銘を受けていただけだ! 決して他意はない。断じてだ!」
(……嘘をつけ)
俺は心の中で即座に突っ込みを入れた。
彼女が段差でつまずき、慌ててバランスを取ろうと左右に激しく振った猫尻尾――。
その、ふわふわとした毛並みを、それこそ親の仇でも探すかのような鋭い眼光で、穴が開くほど見つめていただろうが。
しかし、ルルーナさんは疑うことを知らないようだ。
艶やかな黒髪を揺らし、ふっと柔らかな微笑みを浮かべる。
「まあ。さすが王国の将軍様ですニャ。歩き方だけで体幹を分析されるなんて……職業病というものでしょうか。その熱心さ、感服いたしましたニャ」
純粋な尊敬の眼差し。
それを真正面から浴びたオーウェンは、顔をさらに赤く、今まさに茹で上がったばかりの温泉卵のように染め上げた。
俺はこらえきれずに、口元を片手で押さえて背を向けた。
(……オーウェン。お前、さっきから『気』が乱れまくってるぞ。魔物一匹を相手に死闘を演じるより、よっぽど消耗してるんじゃないか?)
「ナバール様、次はあちらの『地獄蒸し』の体験コーナーをご案内しますニャ。この火山地帯の熱を利用した、絶品の蒸し魚がございます」
ルルーナさんはしなやかな所作で一礼し、再び前を歩き出す。
着物の裾を捌いて歩くその佇まいは、まさに「案内役の鏡」と言えるほど凛としている。
……のだが、彼女には致命的な弱点があった。
「あ、おい、ルルーナ殿! あまり急ぐとまた足元が……ああっ、危ない!」
オーウェンの制止も虚しく、彼女はなんでもない平地で石畳の目地に足を取られた。
「にゃ、にゃあ――っ!?」
大人の余裕が消え、スローモーションのように倒れ込むルルーナさん。
だが、その体が冷たい石畳に触れるより早く、オーウェンの「神速」が発動した。
――ガシッ!
本人の意識を超えた、長年の訓練による反射。
彼は無意識に踏み込み、彼女の細い腰をがっしりと支え、力強く抱きとめていた。
至近距離で見つめ合う二人。
周囲の喧騒が遠のき、ただ温泉の湯気だけが二人を包み込む。
「……怪我はないか、ルルーナ殿。……危ういところだった」
低く、どこまでも真剣な、騎士らしい声。
そこまでは完璧だった。だが、腕の中に柔らかな感触を、そして鼻をくすぐる彼女の柔らかな香りを感じた瞬間、オーウェンの思考回路はショートした。
抱きとめた腕、触れている掌、見つめ合う瞳。
それらすべての情報が、戦場での「敵」ではなく「異性」として処理された瞬間、オーウェンの体は鋼鉄のように硬直した。
「……ありがとうございます、オーウェン様。……でも、オーウェン様?」
腕の中のルルーナさんが、不思議そうに眉を寄せた。
「お顔が、ものすごく赤いですよ……? それに、なんだか火傷しそうなくらい体が熱いですが……どこかお悪いんですかニャ?」
彼女は心配そうに、オーウェンの顔を覗き込む。
至近距離での上目遣い。
ルルーナさんに他意は全くない。あくまで「大切なお客様」を気遣う、誠実な案内役としての純粋な反応だ。
だが、その無防備で透き通った瞳が、オーウェンの心拍数を限界値まで跳ね上げた。
(そりゃあ熱くもなるだろ。お前、さっきから彼女を意識しすぎて、全身に『気』が回って完全なオーバーヒート状態だ)
心の中で爆笑しながら突っ込む俺の前で、オーウェンは彼女を放すべきか、このまま支え続けるべきか、その高度な戦闘判断能力を完全に喪失して彫像のように固まっていた。
「お、オーウェン。……とりあえず、下ろして差し上げたらどうだ?」
俺が助け舟を出すと、彼は弾かれたように彼女を解放した。
解放されたルルーナさんは「失礼しましたニャ」と恥ずかしそうに耳を伏せている。
「も、申し訳ない! 決して不埒な真似をしようとしたわけではなく、ただ、不測の事態に対して物理的な対応を……!」
「分かっておりますニャ、オーウェン様。本当に、お優しい方なのですニャ」
ルルーナさんが微笑む。その笑顔には、オーウェンの不器用な優しさがしっかりと届いているようだった。
その後も、観光は続いた。
オーウェンは終始、ルルーナさんの後方を三歩下がって、まるで地雷原を進む歩兵のような慎重さでついていった。
(……あの男、ドラグーンでは『鉄壁の守護神』なんて呼ばれて、どんな美女の誘いも鋼の精神で跳ね除けてきたっていうのに)
俺は、温泉街の湯気で火照る顔を扇ぎながら思う。
どうやら、最強の将軍を打ち倒すには、魔族の刃も強力な魔法も必要なかったらしい。
ただ、時折つまずいて「にゃっ」と鳴く、一人の心優しい猫獣人の女性がいれば十分だったのだ。
二十七年間、己を剣として、盾として研ぎ澄ませてきた男。
そんな男が今、初めて出会った「戦い方の分からない感情」に、全身の魔力を暴走させている。
「……ナバール様。自分は、決意いたしました」
不意に、横を歩くオーウェンが、覚悟を決めたような声で囁いた。
その目は、かつて敵の大軍を前にした時よりも鋭く据わっている。
「……何をだ?」
「この滞在期間中、ルルーナ殿が二度と転倒し、その御身を傷つけることがないよう……自分は全神経を集中して、彼女の『全足跡』を監視、および予測防御いたします!」
「……方向性は間違ってないけど、お前の顔が怖すぎるからな? 護衛っていうか、それじゃただの追跡者だぞ」
俺の言葉など耳に入っていない様子で、オーウェンは再び、彼女の背後に鋭い――そして、隠しきれない情熱が混じった視線を向けた。
ドラグーン王国最強の将軍の初恋。
どうやらこの王都滞在は、俺たちの想像を遥かに超えた、騒がしくも甘酸っぱいものになりそうだった。
ご清読ありがとうございます。
普段は冷静沈着なオーウェンが、ルルーナさんの「ドジっ子属性」という名の魔力に当てられ、完全にオーバーヒートしてしまいました。
物理的な攻撃は完璧に防ぐ彼も、内側から沸き上がる恋心という「精神干渉」には無力だったようです。
ナバールのニヤニヤが止まらない中、この不器用な二人の距離は縮まるのか。
将軍の初恋、その迷走劇を今後とも温かく見守っていただければ幸いです。
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