エピソード26:技術士アイリス
完璧すぎる部下を持ち、皮肉にも手持ち無沙汰となってしまった王太后アイリス。
彼女が向かったのは、亡き夫アラン国王ですら立ち入りを禁じた、自分だけの「聖域」でした。
亡き姉と共に追いかけた夢の結晶を前にしたとき、高貴な王太后の姿は消え、一人の「技術者」としての本能が目覚めます。
一人の女性がすべてを忘れて没頭する、情熱と狂気の技術改修。
城の奥深くで繰り広げられる、その熱き記録をご覧ください。
新体制が動き出し、このナバール王国にはかつてない活気が満ちあふれていた。
国王ナバールは周辺諸国との調整のため外遊の準備に奔走し、クリス殿は新たに組織された魔導士団の練度を上げるべく、連日厳しい指導に当たっている。
そして内務特命官となったエドルは、まるで行き場を失っていた全精力を注ぎ込むかのように、恐るべき速度で内政の立て直しを進めていた。
皆が各々の役割を力強く、そして誇らしげに果たしている。
私の元にも、当然ながら王太后として、あるいは王室首席顧問として、決裁を待つ山のような文書が届き始めるはずだった。
それは、夫である亡きアランの不在を私が埋め、この国を背後から支えているという実感を与えてくれる、充実した日々の幕開けになるはずだったのだ。
しかし、現実は少々、私の予想を裏切る形となった。
エドル特命官の献身が、あまりにも凄まじすぎたのである。
私が執務室の机に向かい、羽根ペンを手に取るよりも早く、彼は書類を捌き切ってしまう。
矛盾を潰し、反対勢力の根回しを済ませ、完璧なまでに整えられた状態で、私の元には「サインをするだけ」の紙束が回ってくるのだ。
彼が仕事に没頭するあまり、時折、肌の艶が戻り若返っているように見える現象は、観察対象として極めて興味深い。
だが、このままでは私の「仕事」という名の存在意義が、本当になくなってしまう。
手持ち無沙汰になった私は、執務室の窓から遠く城下に目をやった。
広場では、アルテオが街の子供たちと泥だらけになって戯れている姿が、陽炎の中にぼんやりと見えた。
彼の屈託のない笑い声がここまで聞こえてきそうなほど、その自由奔放な立ち居振る舞いは、私の亡き姉の面影を鮮烈に呼び起こす。
そして、私の意識は自然と、城の一角に停められたあの異質な存在――「魔導ホバー」へと吸い寄せられていった。
アルテオが乗ってきたあの巨大な鉄のソリ。
重力に抗い、地を滑るあの機械こそ、私、そして亡き姉がかつて共有した夢そのものだったからだ。
私は居ても立ってもいられず、広場から戻ったアルテオに許可を求めた。
彼は、私が技術に興味を示したことに驚きつつも、その瞳を少年のように輝かせた。
「もちろんです、アイリス伯母様!ぜひ乗ってみてください。そして、もし気づいたことがあれば、改善点を教えてほしいんです!」
その言葉を待っていた。
私は即座に騎士団の軍馬訓練地を封鎖させ、使用許可を下ろした。
重厚な装甲に包まれたホバーの前に立つと、胸の高鳴りが抑えきれない。
運転席の革張りのシートに座り、魔力炉の起動キーを回す。
底面から湧き上がる、地響きのような強力な浮遊魔力。
キィィィン、という高周波の駆動音と共に、巨大な機体が数センチほど地面から浮上した。
その瞬間に伝わってきた微細な振動が、座席を通じて私の脊椎を震わせ、眠っていた血を沸騰させた。
(ああ……この感覚。たまらないわ!)
私はレバーを押し込んだ。
訓練地の土埃を巻き上げ、ホバーが疾走を始める。
風を切る轟音が耳元を通り過ぎ、速度計の針はあっという間に時速百キロの目盛りを振り切った。
「素晴らしい……!なんて滑らかな出力なの!」
しかし、速度が上がるにつれて、私の技術者としての冷徹な回路が覚醒していく。
「……待って。この出力曲線なら、もっとエネルギー効率を最適化できるはず。空気抵抗を考慮した流線型のフォルムは完璧に近い。けれど、このステアリングに伝わる微小な振動は……何? 共振が起きているわ」
気づけば、私は「王太后」という仮面を完全に脱ぎ捨て、エタン王族の血に刻まれた、純粋な技術者アイリスに戻っていた。
走行を終え、私は熱を持ったホバーのボディにそっと触れた。
この冷たい金属の中に宿る魔法と工学の結晶。
姉が生きていたら、これを見てどれほど喜び、そして技術者としてどれほど悔しがっただろうか。
私の姉――アルテオの母は、私と同じく魔導工学に魅入られた天才だった。
エタンの王女としての責務などそっちのけで、私たちは幼い頃、小さな工房に籠ってホバーのおもちゃを作ることに心血を注いでいた。
姉は「車輪という制約のない乗り物」に夢中だった。
周囲が「王女らしく着飾れ」と急かす中で、姉は油にまみれ、図面を広げては唸っていた。
私も姉の傍を片時も離れず、複雑な魔力制御式を計算し、構造設計を担った。
試行錯誤を繰り返し、無数の失敗を重ね、時には設計思想の違いで激しい喧嘩もした。
しかし、ある日の夕暮れ時。
私たちの手のひらに乗るほどの小さな「おもちゃのホバー」が、確かに地面から浮き上がり、滑るように机の上を走ったのだ。
あの時の姉の、太陽のように眩しい笑顔。
私たちは泥だらけの手で抱きしめ合い、声を上げて二人で泣いた。
あれが、私たちの原点だった。
姉は、その夢を完成させる前に不慮の事故でこの世を去ってしまった。
けれど、時を経て、彼女の愛した息子であるアルテオが、人が乗れるほどの巨大なホバーとして、その夢を現実の形に変えてみせたのだ。
(お姉ちゃん、見ている……? あなたの息子が、私たちが夢見たあの景色を、本当にこの世界に作り出したのよ!)
ホバーのボディに触れる掌に、熱いものが込み上げてきた。
姉は今、きっと天の工房でこの光景を眺め、最高の笑顔を見せているに違いない。
だが、感傷に浸る時間は短かった。
私には、技術者として成すべき使命がある。
ナバールとオーウェンが「地獄の二日間」と称し、心身をすり減らしていたあの凄まじい「揺れ」の原因を解明しなくてはならない。
これはもはや、知的好奇心を超えた私の義務だ。
私は衛兵たちに厳命し、ホバーを城の最奥部にある「私の工房」へと移動させた。
この工房は、亡きアランとの結婚に際し、私が唯一出した条件だった場所だ。
エタンから持ち込んだ高度な精密工具と、門外不出の魔導専門書だけが置かれた聖域。
夫であったアラン王ですら、「何が起きるか分からないから」と立ち入りを禁止した、私だけの秘密の小宇宙だ。
工房の重厚な扉を閉め、閂を下ろす。
豪華なドレスを脱ぎ捨て、使い古された白衣に着替えた瞬間、私は王太后アイリスとしての重圧をかなぐり捨て、一人の技術者アイリスへと回帰した。
巨大なホバーを前に、私は愛用の工具箱からレンチを取り出す。
「さて、可愛がってあげるわ。どこから分解しましょうか。まずは浮上装置のコア部分……この周期的な揺れは、魔力共振の不安定さが原因に違いないわ!」
分解作業を始めると、すぐに問題の核が牙を剥いた。
アルテオの設計は、確かに独創的で力強かった。しかし、彼は若すぎたのだ。
複雑な魔力共振のバランスを保つための緩衝材が、低速域から高速域への移行時にわずかに遊びすぎている。
この「遊び」が連鎖し、あの呪わしい振動を生んでいたのだ。
「これではまるで、子供のおもちゃだわ! アルテオ、発想は天才的だけど、安定性への配慮が絶望的に足りない!」
私は壁一面にアルテオの設計図の写しを張り出し、欠陥と思われる箇所に次々と赤ペンで修正案を叩き込んでいく。
「いらないわ、この制御ループは冗長すぎる! 緩衝材の素材を再選定し、配置をミリ単位でずらすだけで、時速二百キロを超えても王族の馬車のような乗り心地にしてみせる!」
「あああああ! ここよ! ここに新素材の魔力緩衝ゲルを流し込むのよ!」
私は、歓喜と苛立ちが混じり合った奇声を上げながら、夜通しホバーの内部構造を剥き出しにしていった。
配線を引き直し、魔力炉の回路を組み替え、持てる技術と知識のすべてを、飢えた獣のように注ぎ込んでいく。
その姿は、高貴な王太后の影も形もない。
髪は振り乱れ、頬はグリスで黒く汚れ、瞳は充血して妖しい光を放っている。
閉ざされた工房には、激しい金属音と、アイリスの狂気じみた叫び声が、朝まで途切れることなく響き渡った。
そして、後日。
城の衛兵たちの間で、ある奇妙な噂が広まり始めた。
「なあ……お前も聞いたか? あの、城の奥にある『開かずの部屋』からよぉ……」
「ああ、聞いたさ。深夜になると、地響きみたいな音と一緒に、女の笑い声か、あるいは怨念の叫び声みてぇなのが聞こえてくるんだろ……?」
「呪われてるんじゃねぇか、あの部屋……」
若い衛兵たちは肩を寄せ合い、恐怖に身を震わせた。
彼らは知る由もなかった。
あれは、この国を陰で支える美しき王太后が、一人の技術者として至高の閃きを得た時に上げる、純粋なる「歓喜の雄叫び」であるということを。
皆さま、大晦日いかがお過ごしでしょうか。
2025年最後の更新は、ついに「技術者」としての本性を現したアイリス様のお話でした。
深夜の工房から響く奇声……。ナバールたちがその「完成品」に乗せられる日が来ないことを祈るばかりです。
さて、いよいよ明日は新しい一年の始まりですが、ここで皆さまに大切なお知らせがございます!
明日、1月1日の元旦は、本編の定期更新(通常エピソード)をお休みさせていただきます。
その代わりに……新年一発目のお年玉企画として、特別な**「元旦コラボエピソード」**を配信いたします!
【元旦 AM 7:10頃 配信予定】
特別編:『魔導門が爆発したら、氷点下25度の北海道で2トントラックに運ばれる件』
アイリス様が改造した……わけではないのですが、アルテオ陛下の「初日の出くん一号」がとんでもない場所へナバールたちを連れて行きます。
飛ばされた先は、現代日本の北海道。そこで出会うのは、原付に跨った一人の少年で——。
さらに! このコラボには続きがあります。
ナバール視点の物語を読み終えた後、**同日12:10頃(正午)**には、同じく私こと武徳丸の作品で第『【元旦特別編】正夢のドラグーン〜2人と奏でる異世界の初日の出〜』も公開されます。
▼コラボ先(12:10頃 更新予定)
『小説の主人公になれない理由は、異世界転生でもなく、原付で走る14kmの田んぼ道にある。~二人乗り?一緒に帰ろう?今日もカエルしかいない道〜』
https://ncode.syosetu.com/n7733ll/
2026年の幕開けを飾る、一夜限りの(?)奇跡のクロスオーバー。
果たしてナバールは無事に初日の出を拝めるのか、そして北海道の少年と何を語るのか。
明日の朝7:10、どうぞお楽しみに!
それでは皆さま、良いお年をお迎えください!




