娘婿の思い出
夜の梟。
いつもの隠し部屋には、穏やかな笑い声と湯気の立つハーブティーの香りが満ちていた。
「今日の“学びの小屋”、本当に大盛況だったね」
アンドリューが嬉しそうに頬杖をつき、机の上に置かれた“台所の安全手帖”を撫でるように見つめる。
「子どもたちも大人たちも、お貴族様までみんな真剣に聞いてくれてた。想像以上だったな」
アレッサンドロが言いながらティーカップに口をつけ、ほっと息をつく。
ふと、コーデリアがユリウスの方を見て、くすっと笑った。
「そういえば……前世で、娘婿が“手作り本格カレー”を振る舞ってくれたことがあったじゃない?スパイスから全部用意して、もう何日も前から仕込んでて」
「懐かしいな」
ユリウスも笑みを浮かべる。
「“この辛さがクセになるんです”って、得意げに言ってたよね。自分で焙煎したクミンだのコリアンダーだの……」
「そうそう、やたらこだわってて、でもちゃんとおいしかったのよ。辛すぎたけど」
「クミン? コリアンダー?」
リュカが不思議そうに目を瞬かせたあと、手を打った。
「……ありますよ、それ。どちらも薬草として輸入品扱いだけど、知ってるところに在庫があります。まさか、その組み合わせを知っているとは」
「ふふ、前世の知識って言っても、庶民の台所で見かけるようなものだったのよ。特別、特殊っていうより、日常の一部だったから」
コーデリアはそう言って笑った。
「でも、料理としての使い方を知ってる人はほとんどいません。薬として分類されてますから……香りを生かすとか、相乗効果とか、そういう発想自体が珍しいんです」
「となると、これはまた“学び”になるな」
ユリウスが顎に手を当てて考える。
「カレー……は難しくても、“香辛料を使った保存食”として、何か新しい伝え方ができるかもしれない」
「いいわね。食べて覚えるって、一番説得力があるもの」
「だったら、再現してみましょうか」
リュカが静かに立ち上がる。
「記憶の味、ですね」
「うん。娘婿の味は、なかなかのものだったから」
コーデリアが優しく笑い、湯呑を手に取った。
外では虫の音が鳴き始めている。
グランツの夜が、静かに、そしてゆっくりと夏へと向かっていた。
ーーーー
数日後。
《夜の梟》の隠し部屋には、再びおなじみの面々が集まっていた。今夜の目的は――“懐かしいカレー”の再現。
リュカが持ち込んだ木箱には、香ばしい香りを放つ香辛料の小袋がいくつも並んでいる。
「これがクミン、こっちがコリアンダー。そしてこれはターメリック……」
丁寧に並べられたそれらは、まるで宝石のように見えた。
「懐かしい……この匂い」
コーデリアが目を細めて呟くと、ユリウスもそっと一つの小袋を手に取った。
「確か、最初に炒めて、香りを引き出してたよね」
「そうそう。玉ねぎとニンニクと一緒に炒めて……って、玉ねぎってこっちでもあるわよね?」
「ありますとも。甘くて保存も効く優秀な作物ですよ」
リュカがうなずきながら、手際よく小鍋に材料を放り込んでいく。
やがて部屋中に、スパイスと炒め玉ねぎの芳ばしい香りが広がった。
「……これは、食欲をそそるね」
リオンが感嘆の声を漏らす。
「でも、この香辛料って、かなり高価なんでしょう?」
アンドリューが少し首をかしげて言うと、リュカが頷いた。
「輸入品なので、一般の市場ではほとんど見かけません。けれど、量を工夫すれば少しの量でも香りが立つ。だから――」
「だからこそ、もっと庶民にも広めたいのよね」
コーデリアがリュカの言葉を引き取るように言った。
「たとえば、“ひとさじの魔法”みたいな感じで、一回の食事にほんの少しだけ使うレシピ。味も保ちも変わって、なにより食べることが楽しくなる」
「保存食や乾物と合わせれば、物資が少ない時期でも応用が利く」
ユリウスも真剣な表情で続ける。
「実際に作って試すべきだな。庶民の台所でできるレシピとして」
「例えば、乾燥豆と干し野菜の煮込みに、炒めたクミンを加えるだけでも、ぐっと風味が出ますよ」
リュカが、早速手元のメモに「貧民街レシピ」と書き込みながら話す。
「じゃあ名前は……“まかないカレー風煮込み”なんてどう?」
リオンが冗談めかして言うと、コーデリアが笑った。
「素敵ね。気負わず、でもちょっと特別な響きがある」
鍋の中で、スパイスの香りと具材がなじみ、あたたかな金色の煮込みが完成する。
「では、さっそく試食を」
皆が一口含んだ瞬間、思わずため息が漏れた。
「……おいしい」
「懐かしい……!」
「これ、辛さを抑えたら子どもたちも喜ぶ味だよ」
「じゃあ、このレシピを“台所の安全帖・特別付録”として追加しようか」
アンドリューが楽しげに言うと、皆が頷いた。
「この香りを、“安全”と“希望”と一緒に届けたいの」
コーデリアは、湯気の向こうにかすかにほほ笑んだ娘婿の顔を思い出しながら、静かに呟いた。
彼女の“懐かしい”は、誰かの“はじめて”になる。
そしてまた、新しい物語が、グランツ王国のどこかで始まろうとしていた。




