文化の違い
夜も更けた頃、グランツ王国の下町にひっそり佇む古書店「夜の梟」。その奥の隠し部屋には、今夜もコーデリアたちが集まっていた。部屋の中央のテーブルには、分厚い資料の束や手書きの地図、セレノア王国の気候や風土をまとめた報告書などがずらりと並んでいる。
「明日の初回レクチャー、ちょっと緊張するな」
椅子に腰掛けた薬師のリュカは、読み込んだメモをぱらぱらと広げながら言った。
「セレノアは山が多くて、冬が長くて厳しいらしい。そのせいか、保存食や乾燥技術がよく発達してる。あと、帰宅時にはお湯で手を洗うのが習慣みたいだよ」
「私たちは水でさっと洗うくらいだけど……衛生意識が根付いてるのね」
コーデリアは頷きながら、地図の余白に小さくメモを添える。
「言葉の使い方にも気をつけた方がいいわ。たとえば、“お疲れさま”って言葉、向こうでは“同情”に近い意味で受け取られる場合があるの」
「それでか。リオンが初日にその言葉を言われたとき、なんとも言えない顔してたな」
アレッサンドロがくすりと笑って思い出す。
「私たちには当たり前でも、文化の違いで“上から目線”に聞こえることがあるのよね」
コーデリアは筆をとりながら、言葉を慎重に選ぶ。
「だから、まず“基本的に同じところ”と“根本的に違うところ”を整理しましょう。それを明確にすることが、誤解を防ぐ鍵になるはずよ」
壁際の黒板には、チョークでリストが書き出されていく。
『共通点:衛生観念、助け合いの精神』
『相違点:言語表現、食文化、気候による生活スタイル』
「これを元に、第一回目のテーマは“日常のすれ違いをなくす方法”で行きましょう」
コーデリアがはっきりと言い切ると、皆の顔に緊張とわずかな期待の入り混じった表情が浮かんだ。
「ユリウスが言っていたよね。“相手を変える前に、自分が理解しようとする努力を”って」
「ユリウスらしい言葉だな。……けど、その通りだ」
アレッサンドロは背もたれに身を預け、微笑みながらうなずいた。
「明日、“学びの場”が“歩み寄りの場”になるといいね」
「うん。それがきっと、このグランツ王国が他国と真に繋がる、最初の一歩になるから」
静かに笑みを浮かべたコーデリアの手元で、ペン先が止まる。
“前世の日本では当たり前だったこと”を、ここグランツでどう伝えるか――それを深く考える彼女の瞳は、誰よりも真剣だった。
夜の梟の窓の外、澄んだ月明かりが静かに差し込んでいた。
誰かを知り、互いを尊重し合う。その準備が、今まさに進んでいる。
ーーー
そして翌日の朝。
下町の片隅に建てられたばかりの国際交流小屋には、静かな緊張感が漂っていた。まだ木の香りが残る室内には、掃き清められた床と整えられた机が並び、壁には黒板と地図、そして多言語で書かれた歓迎の札が飾られている。
コーデリアは胸元を軽く押さえ、小さく深呼吸をした。
「……さあ、始めましょう」
部屋の中には、セレノア王国からの留学生リオン、ミリア、トーヴァルに加え、王城の外交官であるイーリス、そして数名のグランツ王国内の若手貴族たちの姿もあった。
「お集まりいただきありがとうございます。本日は“日常のすれ違いをなくす方法”というテーマで、第一回目の国際レクチャーを始めます」
コーデリアの声は落ち着いていて、柔らかく、それでいて芯がある。
まず提示されたのは、「共通点」と「相違点」のリスト。
「たとえば、“衛生観念”。これは国を問わず、とても大切にされている価値観ですね。ですがその実践方法は少しずつ異なります」
リュカが、実際に用意していた木の桶と湯を使いながら、セレノアで行われている“帰宅時の手洗い”を再現してみせると、子どもたちからも留学生たちからも、興味深げな声が上がった。
「そしてこちら、私たちの間で使われている言葉“お疲れさま”についても、少しお話させてください」
コーデリアはゆっくりと言葉を選びながら、黒板に“お疲れさま”と“同情”という単語を書いた。
「この国では感謝や労いの意味で使われますが、他国の方にとっては“憐れまれている”と感じる場合があります。これを知らずに使うと、良かれと思った言葉が、誤解を生むことになります」
リオンが小さく頷き、口を開いた。
「……まさに、初めて聞いた時に感じたのが、それでした。意味を知れば違ったのですが、最初は“上から目線”に聞こえたのです」
その言葉に、トーヴァルとミリアも思い当たるように顔を見合わせる。
「文化や言葉の“違い”は、悪意ではなく“すれ違い”から起こるものだと思います」
アレッサンドロが黒板の前に立ち、そう付け加える。
「それを防ぐには、“違う”と気づいた時に、相手を責めるのではなく、理解しようとすることが大切です」
ユリウスが以前語っていた言葉が、また一つ胸に響いた。
レクチャーの後半では、いくつかの簡単なシナリオをもとにした寸劇が行われた。
「“道でぶつかった時の一言”」
「“贈り物を渡す時の言い回し”」
どれも日常にありふれた場面だが、そこに込められた気遣いや背景を知ることで、留学生たちは驚きや感嘆を口にした。
最後に、コーデリアがもう一度前に立ち、柔らかな笑みを浮かべた。
「違いがあるのは、当然のこと。私たちは、違うということを恥じる必要も、遠ざける必要もありません。ただ、ほんの少しの“知ろうとする姿勢”と“歩み寄る心”が、どれほど世界を優しくするか――私はそれを信じています」
静寂の中に、そっと拍手が広がった。
それは盛大でも強制的でもない、心からの賛同だった。
交流小屋の外では、春の風が柔らかく吹いていた。
小さな国の、小さな教室から、確かな一歩が世界へと踏み出された瞬間だった。




