ありがとうから始まる朝
まぶしい朝の光が差し込む部屋の中、私はもぞもぞと身を起こした。
さっき見た夢――あれは本当に夢だったのだろうか。けれど、頭の奥のほうがじんわりとあたたかい。
確かにあのノートを読んで、前世を思い出して、それから……。
「…とりあえず起きよ。」
そんな風にのんびりしていると、ノックの音とともに部屋の扉が開いた。
「お嬢様、おはようございます。お着替えのお手伝いに参りました」
いつもの侍女のエリーナが、にこやかに歩み寄ってくる。淡い水色のメイド服が、朝の光に透けてきれいだった。
前だったら私は「遅いわよ」とか「もっと柔らかいブラシを持ってきて」とか、何かにつけて文句を言っていたかもしれない。
でも、今は――
「エリーナ、ありがとう。いつも手伝ってくれてうれしいわ」
「……っ!?」
ブラシを手にしていたエリーナの手がぴたりと止まり、目をぱちぱちと瞬かせた。
「お、お嬢様……いま、“ありがとう”と……?」
「ええ。いつもきれいに髪を整えてくれて、感謝してるの。……いままで、わがままばかり言ってごめんなさい」
私は、少しだけ首をかしげて笑ってみせた。
エリーナはしばらく固まっていたけれど、やがてふわっと表情をゆるめて、目を潤ませながら微笑んだ。
「……いいえ、お嬢様。そのお気持ちだけで、十分すぎるほどです」
そんなやりとりを、部屋の外からこっそり見ていた別の侍女が、慌てて立ち去ったのを私は知らない。
そしてその数分後――
「えっ、コーデリアが“ありがとう”って!?」
「しかも“ごめんなさい”まで!?」
「熱は?熱は測ったんですか!?」
「夢の中で人格が変わったんじゃ――」
「やめてくださいご主人様、怖がらせないで!」
コーデリアの両親――ベルフィオーレ公爵夫妻と使用人たちが、急遽執務室に集まって緊急会議を開いていた。
一方その頃、当のコーデリアはというと。
「お食事がいつもよりおいしい気がするわ。ありがとう、マリア」
「ひっ……あっ、いえっ!ありがとうございますお嬢様っ!」
「ふふ、そんなに驚かないで」
使用人たちの戸惑いにも、コーデリアはにこにこと微笑んで応じる。
続いてやってきた家庭教師のマダム・カトリーヌにも、ぺこりとお辞儀。
「おはようございます、先生。今日もよろしくお願いします」
「お……お、おほほ、なんとご丁寧な……。お嬢様、今日も麗しいですわね?」
「まあ、先生ったら。そんなお世辞、前は言ってませんでしたよ?」
「……あら、お覚えで?」
微妙に焦るマダム・カトリーヌをよそに、コーデリアはご機嫌で授業に臨んだ。
その日の午後。再びベルフィオーレ家の執務室では――
「……つまり、どういうことなの?」
母であるレティーシア公爵夫人が、眉間にしわを寄せてつぶやく。
父親のアルベルト公爵は、何度目かのため息をついた。
「コーデリアは、今朝から“とてもいい子”になってしまったらしい」
「病気……ではなさそうね」
「神託を受けた可能性は……?」
「いや、それは騎士団経由で報告が来るはずです。確認しましたが、今のところなしと」
「うーん……」
一同は頭を悩ませながらも、コーデリアの変化に希望を見出し始めてもいた。
一方、当のコーデリアは――
「やっぱり、“ありがとう”って、言われると嬉しいのね」
紅茶を一口すすりながら、小さくつぶやいた。
日本のおばあちゃんだった頃に、よく言っていた当たり前の言葉が、こんなにも人を笑顔にするなんて。
「うん、これは……きっと、いいことなんだと思う」
まだ何もわからない。でも、心に残っているノートの言葉だけを頼りに、コーデリアの小さな変化は今日も続く。