春の風
春の陽射しが揺れる市場の通り。
果物の甘い香りと、焼きたてのパンの香ばしさが混ざり合い、人々の声がにぎやかに響いていた。
「わあ!苺が出てる! 春の苺は、香りが濃くて美味しいのよね」
コーデリアが目を輝かせてつぶやくと、アレッサンドロがくすっと笑う。
「苺より先に、あの人に目が行ってたみたいだけど知り合いかい?」
兄の指差す先――古びた木の屋台に、年配の男が立っていた。
肩を落としたような姿勢で、だが一つ一つの品物は丁寧に並べられている。
頬のしわは深く、口元はへの字に固く閉じられていた。
「……あのおじいさま、会ったばかりの頃はもっと無愛想だったのよ。でも今は、ほんの少し柔らかくなったの」
コーデリアは微笑みながら、そっとその店へと歩み寄った。
「こんにちは。今日の干しリンゴも、いい香りですね」
老人がゆっくりと顔を上げる。
その瞳が、はっと見開かれた。
「……こりゃ……コーデリア様か。まったく、顔を見るだけで春が来たみたいだ」
「まぁ、お上手ね。じゃあ、お礼代わりに春風を届けに来たと思ってくださいな」
コーデリアがにこやかに笑いかけると、老人は口の端をわずかに緩めた。
「このあいだのびわの葉の話、本当に助かったよ。腰を悪くして動けなくなった時に、コーデリア様が言ってたあのびわの葉を煮出した湿布…かなり効いたんだ。驚いたよ」
「そう……よかったわ。腰を痛めると動きたくなくなるし、そうすると心もふさぐでしょう?」
老人の瞳が、どこか遠くを見つめる。
「……女房がな、去年の冬に先立って。それから、朝も夜も黙って果物ばっかり並べてるうちに、誰とも話さなくなってた。なんだか、声の出し方も忘れてしまいそうでな」
コーデリアは、そっと屋台の端に手を添えた。
「おじいさま、人は歳を重ねれば重ねるほど、『あんたがいると助かるよ』って言ってもらえることが大事なのよ。
誰かに頼られて、必要とされて――そして、可愛がられるってこと。とっても大事」
そう言って、いたずらっぽく片目をつむってウインクする。
老人は吹き出しそうになったのをこらえ、咳払いをひとつした。
「……可愛がられる…か。わしが?」
「ええ。ふふっ、意外とあなたの顔って、愛嬌があるもの」
「こりゃまいった…。コーデリア様にそう言われちまったら、そりゃ嬉しいもんだな」
老人が、少しだけ照れくさそうに笑うと、袋に干しリンゴを詰め始めた。
「一袋いただいていこうかしら。今日のおやつにね。あ、でも、甘すぎないのを選んでくれたら嬉しいな」
「任せときな、コーデリア様」
干しリンゴの袋を手渡すその声が、さっきよりずっと柔らかくなっていた。
そのとき、隣の屋台から陽気な声が響く。
「まぁまぁまぁ、コーデリア様! またとなりの頑固じいさんが、コーデリア様の優しさにほだされてるってわけね!」
声の主は、色とりどりの布や刺繍入りの小物を並べた屋台の女店主。
ふくよかな体に、赤いスカーフを頭に巻いて、にこにこと笑っている。
「お久しぶりです、おばさま。今日のリボンもかわいいですね」
「まあ、ありがと。今朝、嫁が新しく編んでくれたの。お洒落しないとこの商売、目立ってなんぼですからねぇ」
コーデリアがくすりと笑って「素敵な心がけです」と返すと、おばさんはちらりと隣の老人を見て、声をひそめた。
「それにしても……このじいさんが、コーデリア様と話してるときだけは、ほんとに穏やかな顔になるんだから。普段は、誰かが手伝おうとしても“触るな”“放っとけ”って、絵本に出てくる意地悪爺さんみたいな顔してるくせにさ」
「ふん。余計なお世話だ」と老人は鼻を鳴らしながらも、どこか居心地悪そうに頬をかいた。
コーデリアはふふっと笑い、二人に視線を向ける。
「人ってね、誰かが少し心を開いてくれるだけで、ずいぶん変われるのよ。
意地を張って“平気なふり”をしてたって、本当はちょっとだけ誰かに『大丈夫?』って聞いてもらいたい時もあるもの」
おばさんが深く頷く。
「わかるわぁ…わたしも若い頃は、何でも一人で背負い込んで失敗ばっかしてたっけ。助けてって言うのも、頼るのも、ちょっとした勇気が要るのよねぇ」
「でもね――」
コーデリアはそっと、二人の顔を見てから続けた。
「その勇気があるって、実はとっても格好いいことなの。だから、おじいさまも…これからはもう少し周りに頼ってみて」
「……ふん。コーデリア様に言われたら、そうしないわけにもいかねぇな」
しぶしぶ、というふうを装いながらも、どこか嬉しそうな声。
おばさんがにやりと笑ってすかさず言う。
「ふふ、じゃあ明日から、荷運び手伝ってやるよ。
ほら、年寄りは甘やかされるくらいがちょうどいいって、さっきあんた言ってたじゃない?」
「……言ったのは、コーデリア様だ」
「でも、うれしそうだったじゃないの」
そんなやりとりに、コーデリアは手を口元に添えて、くすくすと笑った。
老人の耳が、ほんの少し赤くなっている。
アレッサンドロがその光景を見て、ぽつりとつぶやいた。
「……すげぇな、お前。ほんとに、まるで街が変わっていくみたいだ」
「ふふっ……大げさよ。でも、ね」
コーデリアは春の風に髪をなびかせながら、どこか遠くを見るような目で言った。
「大切にされた経験って、人の中にちゃんと残るの。
それが一粒ずつ、少しずつ積もっていったら、きっと心はまた柔らかくなる。
……わたし、そう信じてるのよ」
「……信じてる、か」
「ええ。だって、わたしも、誰かにそうしてもらえてきたから」
アレッサンドロと並んで歩く帰り道、コーデリアはそっと干しリンゴの袋を抱きしめた。
「今日も、いい日だったわね」
「お前がそう思えるなら、きっとそうなんだろうな」
そう言って微笑んだ兄の声に、春の風がやさしく頷いた。




