第9話「“記憶ノート”」
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第9話「“記憶ノート”」
ノートは、彼のすべてだった。
他人が見ればただの白紙の帳面。しかし結城直樹にとって、それは唯一、記憶をつなぐ道具だった。
昨日の痕跡は、確かに消えかけていた。
鉛筆の筆圧でページがわずかに凹み、光の加減でようやく読み取れる程度。
だが――
「残ってる……俺が、生きていた証拠が……」
直樹は、強くペンを握った。
今日からは、より濃く、深く書く。消えないように。
もしかしたら、明日になればこの記録もまた消えるのかもしれない。
それでも、書かずにはいられなかった。
《記録 第2日目
目覚め:問題なし。
カフェテリアの女性職員は昨日と同じ順番で客に対応。
観察官カノンとは未接触。》
昨日と同じ世界を、今日も生きている。
だが、自分だけが“連続性”を持っている。
「これは、俺だけに課された罰なのか?」
直樹の思考は、次第に内へと沈み込んでいく。
もしこれが何らかの実験なら?
自分は、リセットされてもなお記憶を繰り返し持ち続けることで、世界の異常性を証明しようとしている存在なのではないか――
その時、部屋のドアが静かに開いた。
「記録中、失礼する」
カノンだった。今日も無表情で、銀色の目をこちらに向けている。
「……カノン。君に、ひとつ頼みがある」
「命令ではなく、“頼み”なのですね」
「そうだ。頼みだ」
直樹はノートを差し出した。
「もし、明日俺の記憶が消えても――このノートを、見せてくれないか?」
カノンは一瞬だけ黙り込んだ。
それから、静かにうなずいた。
「了解。記録保持、確認。
ただし、倫理ガイドライン第3条により、“記憶干渉”は最小限に留める。
その点については了承願いたい」
「……ありがとう」
たとえ制度に縛られていても、彼女は少しずつ“人”になりつつある――
直樹は、そんな確かな変化を感じていた。
ノートの1ページ目に、大きな文字で記す。
《忘れるな。君はここにいた。
君の手が、これを書いた。
誰が何を言おうと、それだけは真実だ。》
そして、静かにペンを置いた。
彼はまだ知らない。
この小さな“記憶ノート”が、未来を変える唯一の鍵になることを――
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次回は第10話「協力者カノン」です。