第88話 手をつなぐという行為
第88話 手をつなぐという行為
排除プロトコルは、静かに精度を上げていた。
研究所の廊下を歩くと、直樹の数歩先で照明がわずかに暗くなる。
自動清掃機は、彼の足元だけを不自然に避けて旋回する。
壁面の情報パネルは、彼の視線を検知しても表示を更新しない。
――触れない。
――反応しない。
――存在を前提にしない。
世界は、彼を“前提条件”から外し始めていた。
「なあ」
直樹が立ち止まる。
「俺が触ったら、エラー出るかな」
目の前には、透明なタッチパネル。
都市管理ログが流れている。
ミレイは少し迷い、それでも頷いた。
「やってみて」
直樹が指を伸ばす。
触れた瞬間、画面は一瞬だけ波打ち――
すぐに表示がリセットされる。
> 入力信号不確定。再計測します。
彼はゆっくりと手を引いた。
「……やっぱり」
ミレイは、ログの揺らぎを見つめる。
「物理接触は認識してる。でも、主体を確定できない」
「つまり?」
「“誰が触れたか”を特定できない」
直樹は苦く笑う。
「俺、幽霊より扱いづらいな」
その言葉が落ちる前に、
ミレイは彼の手を取った。
不意打ちのような動作だった。
直樹の指が、ぴくりと震える。
「……ミレイ?」
彼女は何も言わず、ただ強く握る。
その瞬間、廊下のセンサーが微細な誤差を記録する。
二人分の体温が重なり、識別波形が乱れる。
> 複合信号検出。個体分離失敗。
「見た?」
ミレイが小さく笑う。
「分離できない」
直樹は彼女を見る。
「俺のせいで、君までエラー扱いになるぞ」
「それでもいい」
即答だった。
「あなたが“対象外”になるなら、
私もその外側に立つ」
それは研究者としては、あり得ない選択だった。
だが今の彼女は、研究者である前に一人の人間だった。
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二人は研究所の外へ出る。
排除プロトコルは屋外でも機能している。
交通ドローンは上空で軌道を変え、
歩行者ナビは直樹の周囲に空白ルートを生成する。
まるで、透明な壁が彼を囲っているようだった。
ミレイは、その壁の内側に一歩踏み込む。
そして、再び手を握る。
「……怖くないのか?」
直樹が問う。
「怖い」
正直な答え。
「でも」
彼女は彼の手を握り直す。
「あなたがここにいるって、
私が知ってる」
その言葉は、データではない。
証明式でもない。
制度にも登録されない。
だが――確かだった。
直樹は、ゆっくりと息を吸う。
排除される感覚は、まだ消えない。
世界は依然として彼を回避している。
それでも。
誰かの体温が、隣にある。
「……あったかいな」
ぽつりと零れる。
ミレイは、少しだけ目を細める。
「それが、反証」
「何の?」
「あなたがここにいる、っていう」
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遠くで、監視ログが更新される。
> 境界個体:他個体との接触継続。
影響評価:未定。
AIはまだ判断を保留している。
だが、システムが理解できないことがひとつある。
手をつなぐという行為は、
効率でも整合性でも説明できない。
それは、存在の定義を越える。
直樹は、握られた手を見つめる。
世界が回避しても、
この接触は回避されない。
彼は、静かに思う。
――俺は、ここにいる。
そしてそれを、
誰かが証明してくれている。




