第85話 仮住まいの部屋
第85話 仮住まいの部屋
研究所の最下層、かつて予備実験室として使われていた一室が、二人の仮住まいになった。
白い壁。
簡易ベッドが二つ。
古い給湯ユニットと、小さなテーブル。
それだけの空間だったが、直樹は扉を閉めた瞬間、胸の奥がわずかに緩むのを感じた。
――ここでは、追い出されない。
都市は彼を拒絶していた。
通路は避け、機械は反応せず、視線は線を引く。
だがこの部屋だけは、何も判断しない。
「……狭いね」
ミレイが、少し照れたように言う。
「十分だよ」
直樹はそう答えたが、声は思ったより低かった。
最初にしたのは、湯を沸かすことだった。
給湯ユニットは古く、起動音がやけに大きい。
水が温まるまでの数十秒、二人は黙って立っていた。
――何もしない時間。
それが、ひどく久しぶりだった。
ミレイはカップに湯を注ぎ、簡易的なスープを作る。
研究所の保存食だ。味は最低限だが、温度がある。
「どう?」
「……あったかい」
その一言に、ミレイは小さく笑った。
食事は静かだった。
噛む音、スプーンが器に当たる音。
それだけが、この部屋の“現実”を証明していた。
直樹はふと、自分の手を見る。
血管の浮き、わずかな震え。
それらが、確かに今ここにある。
「なあ、ミレイ」
「なに?」
「俺さ……」
言葉を探すように、一度息を吐く。
「ずっと、“生きてるふり”をしてた気がする」
ミレイは黙って続きを待った。
「リセットの中では、毎日がやり直しで。
選択も失敗も、全部なかったことになる。
だから……重さがなかった」
彼は、テーブルに手を置く。
「でも、今は……」
スープの湯気が、ゆっくりと消えていく。
「失敗したら、取り戻せない。
嫌われたら、元に戻らない。
それが、怖い」
ミレイはうなずいた。
「それが、“生きる”ってことだと思う」
簡単に言うが、その言葉には、彼女自身の覚悟も滲んでいた。
夜になり、照明を落とす。
ベッドは別々だが、距離は近い。
直樹は横になり、天井を見つめる。
ここには監視の光も、警告表示もない。
ただ、静かな呼吸が二つ。
「……眠れるかな」
「眠れなくてもいい」
ミレイの声は、研究者のそれではなかった。
「今日を、ちゃんと終わらせれば」
直樹は目を閉じた。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
それは、時間に縛られない存在ではなく、
今を生きる身体の証だった。
――生きている。
その事実が、
怖くて、重くて、
それでも、どこか温かかった。
仮住まいの部屋で、
直樹は少しずつ、
“存在”ではなく“生活”を取り戻し始めていた。




