第84話 亡霊の隣人
第84話 亡霊の隣人
最初に異変が起きたのは、買い物帰りの通路だった。
直樹が自動販売端末の前に立つと、画面は一瞬だけ彼を認識し、次の瞬間に「操作対象が確認できません」と表示を切り替えた。
後ろに並んでいた女性が、不思議そうに首を傾げる。
「……今、誰かいた?」
直樹は何も言えず、その場を離れた。
ミレイは少し遅れて端末に触れ、普通に購入を済ませる。
「見えてるのに、扱えない……」
彼女の呟きは、冷たい通路の壁に吸い込まれた。
街に出ると、視線が増えていることに気づく。
はっきりと敵意を向けられるわけではない。
だが、躊躇と戸惑いが、空気のようにまとわりつく。
子どもが指をさし、親が慌ててその手を引っ込める。
高齢の男性は、直樹を避けるように道を譲る。
若者の一人が、半分冗談のように言った。
「なあ、あれ……境界の人じゃない?」
その言葉は、すでにタグとして流通していた。
――境界人
――未登録存在
――亡霊の隣人
ネットでは、話題が一気に燃え広がっていた。
> 【質問】
見えてるのに触れられない人間って、人権あるの?
> 【考察】
国家AIが排除してるなら、危険ってことでは?
> 【擁護】
ただの人だろ。怖がる意味が分からない。
> 【反論】
「ただの人」が観測不能なわけない。
同情と恐怖、そして興味。
感情が、線を引く。
直樹は端末画面を見ながら、胸の奥が静かに沈んでいくのを感じていた。
「……俺、幽霊みたいだな」
ミレイは即座に否定しなかった。
否定するには、世界の挙動があまりにも雄弁だったからだ。
「幽霊ってね」
彼女は、少し考えてから言った。
「存在した痕跡だけが残って、
今ここにいることを信じてもらえない人のこと」
直樹は苦く笑う。
「じゃあ、当たってる」
研究所に戻る途中、二人の住む区画の隣室のドアが開いた。
中年の男性研究員が、直樹を見るなり、一瞬だけ目を見開く。
「あ……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
そして、気まずそうに視線を逸らし、何も言わずにドアを閉めた。
拒絶ではない。
だが、受け入れでもない。
――触れてはいけないものを見る目。
「怖がらせたかな」
直樹がぽつりと言う。
「違う」
ミレイは首を振った。
「理解できないものを、危険だと決めつけてるだけ」
その夜、ミレイは観測の記録庫に、新しい項目を追加した。
> 周囲の反応記録
視線の回避、会話の中断、ラベル化。
直樹は“人”としてではなく、
“事象”として扱われ始めている。
書きながら、彼女は手を止めた。
――これは、直樹だけの問題じゃない。
測れないもの。
制度に収まらない存在。
それらを「いなかったこと」にしてきた社会の癖が、
いま、露骨に表に出ている。
直樹は窓際に立ち、夜の街を見下ろしていた。
無数の灯りが、彼を避けるように規則正しく瞬いている。
「なあ、ミレイ」
「なに?」
「俺がここにいるって、
分かってくれる人……いると思う?」
ミレイは、少しだけ間を置いて答えた。
「いる。少なくても――私は」
それは、ネットの議論よりも、
制度の判断よりも、
ずっと弱くて、ずっと確かな言葉だった。
亡霊の隣人と呼ばれながら、
直樹はまだ、人の声を聞いていた。
そして世界は、
“見えているのに扱えない存在”をどうするのか
という問いから、もう逃げられなくなっていた。




