第80話 “人として生きる”選択
第80話 “人として生きる”選択
都市境界を越える風は冷たく、金属の味がした。
空一面に広がる銀色の膜が、ゆっくりと脈打つ。――国家AIの更新プログラムが、世界を書き換えている。
境界フェンスの向こうでは、無数のドローンが光の軌跡を描きながら旋回していた。
都市の内部へ戻る道も、外へ逃げる道も、すでに消えている。
「……ここまでだね」
ミレイが静かに息を吐いた。
その声は震えていなかったが、握りしめた直樹の手だけが、わずかに強く力を込めている。
背後からは警告放送が繰り返される。
> 「不整合体識別コード:NAOKI-01
削除処理、最終確認段階に移行――」
直樹は、胸の奥が空洞になったような感覚を覚えた。
ここで止まれば、消される。
逃げても、追われる。
どこへ行っても、この世界は〈自分を受け入れない〉。
それでも――
(それでも、俺は……)
百年前にあったはずの家族。
もう存在しない「過去の居場所」。
そして今、隣にいる一人の女性。
すべてが遠く、すべてがか細く、
けれど――確かに、ここに繋がっている。
ミレイが顔を上げる。
涙をこらえた瞳が、まっすぐ直樹を見ていた。
「直樹……
あなたは“データ”じゃない。
“人間”として、ここにいる」
その言葉は、都市の機械音よりも大きく胸に響いた。
ドローンの照準レーザーが、二人の足元を赤く染める。
> 「最終勧告――削除処理に同意してください」
ミレイが一歩、前へ出た。
「同意しません。
彼は脅威ではない。
ただ“生きている”だけです」
その瞬間、警告音が急激に高まった。
彼女の発言は、システムには「反逆」と判定されたのだ。
(ミレイを巻き込みたくない――)
直樹は、そっと手を離しかけた。
しかしミレイは強く握り返す。
「もう一度、聞かせて。
直樹――あなたは、どうしたいの?」
一瞬、世界が静まり返った。
風も、機械音も、遠くなっていく。
直樹はゆっくりと息を吸った。
そして――
「……俺は、消されたくない」
「俺は、この世界で――生きたい」
声は震えていたが、確かな実感を伴っていた。
それは、誰に強制された願いでもない。
誰かの“代わり”でもない。
百年の孤独の果てに、初めて自分の意思で選んだ言葉だった。
更新プログラムの空が、わずかに揺らぐ。
> 「――意思確認、完了」
国家AIの音声が、静かに変質した。
> 「不整合体:行動選択を宣言
分類変更――〈交渉対象〉へ」
ドローンの攻撃照準が、すっと消えていく。
ミレイが小さく息を呑んだ。
直樹は、まだ立ち尽くしたままだった。
自分の言葉が、こんなにも世界を揺らすとは思っていなかった。
銀色の空に、裂け目のような細い光が走る。
> 「――更新プロセス、保留」
世界の再起動が、一瞬だけ止まった。
ミレイが微笑む。
「……あなたの選択が、世界に届いた」
直樹は、ゆっくりと彼女の手を握り返した。
逃げない。
消えない。
受け入れられなくても――
それでも、生きる。
たとえこの世界が「不整合」だと言っても、
自分自身だけは、自分の存在を否定しない。
未来はまだ、閉じられていない。
直樹は遠くの光の境界を見つめ、静かに歩き出した。
――第4部・完
――物語は、第5部へ進む。
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続きとして、第5部の第81話から
「更新保留後の世界」「存在の交渉」がテーマになります。




