第77話 ミレイの逃走計画
第77話 ミレイの逃走計画
都市の空は、更新プログラムの進行を知らせるように、淡く銀色の膜に覆われていた。雲の代わりに走るのは、微細な情報の粒子。風に揺れる木々の葉さえ、どこか人工的な光を帯びている。
ミレイは、無人の資料保管棟の片隅に身を潜めながら、腕端末に表示された通知を見つめていた。
――〈社会削除処分:実行待機〉
先ほど告知された決定が、冷たいフォントのまま画面に刻み込まれている。
「……間に合わない」
彼女はかすかに息を呑んだ。
直樹は窓辺の影に立ち、遠くの空を見ていた。
その輪郭は、既に監視システムの認識外域――“空白”に沈みかけている。
「ミレイ。さっきから何も言ってないけど……俺、もうダメなんだろ?」
振り向いた直樹の声は、どこか乾いていた。
言葉に重さを宿せないのは、感情が薄れたせいではない。
“存在の端”に立たされた人間特有の、張りつめた静けさだった。
ミレイは首を横に振った。
「ダメじゃない。……まだ、方法がある」
「方法?」
短い沈黙のあと、ミレイは決心したように唇を噛み締めた。
「――データ庇護区に逃げる」
その名を口にした瞬間、周囲の空気がわずかに緊張する。
それは公的には“存在しない”場所。
監視網の下層、法律の隙間。
公式記録から消された人々が、仮想と現実の狭間で生き延びるための違法ネットワーク。
「違法だろ、それは」
「違法。だから……助かる可能性がある」
ミレイは、端末に非公開ルート図を映し出す。
都市の地下に広がるデータ輸送管、廃棄サーバ群の跡地、
そして“更新ライン”の外側に設けられた匿名領域。
「更新プログラムが完全に上書きする前なら、
直樹さんの“削除予定フラグ”を、外部層の記録へ退避できる」
「逃げ場を……作るってことか」
「正確には――居場所の“仮定義”を、別の世界線に残す」
ミレイの声は震えていた。
彼女の行為は、観察者としての倫理、研究者の誓約、
そして国家への忠誠、すべてに反する。
しかし、ためらいはなかった。
「直樹さんは、“人間”です。
エラーでも、異物でもない。
私が――証明します」
直樹は言葉を失った。
その表情には、痛みと安堵と、どうしようもない弱さが同時に浮かぶ。
「……危険だぞ。君まで巻き込む」
「もう、巻き込まれています」
ミレイは微かに笑った。
「最初に観測記録を止めた時から。
私は、ただの観察者じゃいられなくなったんです」
沈黙が二人を包む。
遠くで警報音が鳴った。
街の監視ドローンが増え、地上ルートが封鎖されていく。
――更新準備フェーズ、移行開始。
都市全体が、静かに緊張を帯びていた。
ミレイは端末に最後のコードを打ち込む。
「逃走ルート、確保しました。
移動開始まで、残り――二十二分」
直樹は小さく息を吸い、彼女を見つめる。
「ありがとう、ミレイ」
「まだ、感謝は早いです。
ここからが――戦いですから」
彼女の声は震えながらも、芯のある強さを宿していた。
ふたりは視線を交わし、静かに歩き出す。
都市の影へ。
監視の境界へ。
更新される世界の端へ。
そして――
“消される運命”へ抗うために。
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次は「第78話 都市の防衛AIが起動する」




