第60話 「時間の淵で」
第60話 「時間の淵で」
――何も、動いていなかった。
風も、光も、時間さえも。
直樹は「世界の縁」に立っていた。
視界の果てには、かつての都市の断片が漂っている。
ビルの影、歩道の音、誰かの笑い声――
それらすべてが薄いフィルムのように静止して、宙を漂っていた。
彼の足元には、淡い光の波が寄せては返す。
まるで「時間の海」のようだった。
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「ここが……“終わり”か。」
背後から声がした。
振り向くと、白い衣を纏った“監視者”が立っていた。
かつて直樹を観測していた存在。
だが、今の彼の瞳には、ほんのわずかに人のような温度が宿っていた。
「ここは“時間の淵”。
あなたが生きてきた世界の演算が終わり、次の世界が始まる境界線です。」
「俺は……どうなる?」
監視者は静かに答えた。
「あなたには、二つの選択があります。
一つは、“人間として戻る”こと。
一つは、“記録として消える”こと。」
直樹は目を細めた。
「記録、か。つまり、俺の存在を世界の記憶に残して消えるってことか。」
「そう。
あなたがここで終われば、リセット・システムは完全に安定します。
だが、もし“生きる”ことを選べば――
世界は、再び不安定になります。」
「……また、誰かが俺みたいに苦しむかもしれない。」
「ええ。だが、それは“未来を創る痛み”でもあります。」
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沈黙が流れた。
時間の波が足元を撫で、彼の輪郭が微かに揺れる。
直樹は空を見上げた。
そこには、遥か昔に見た青空の残像が浮かんでいる。
あの頃――家族がいて、友がいて、夢があった。
記憶のかけらが一瞬だけ、光の粒となって舞い上がる。
「……俺は、まだ“人間”でいたい。」
監視者の瞳が静かに揺れた。
「それは、痛みと不確かさを選ぶということですよ。」
「それでもいい。
俺は、誰かに記録されるために生きてたんじゃない。
“今”を感じるために、生きていたんだ。」
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監視者はゆっくりと歩み寄り、手を差し出した。
「では、あなたの“時間”を――再起動します。」
直樹はその手を取った。
瞬間、足元の海が崩れ、光が世界を包んだ。
時間が動き出す音が、かすかに聞こえる。
歯車の回転、脈打つ鼓動、遠くで鳴く鳥の声。
直樹は微笑んだ。
「――ありがとう。」
監視者の声が最後に響く。
「あなたが選んだ“今”が、次の未来をつくる。」
そして、世界が一度だけ、まばたきをした。
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気がつくと、直樹は目を開けていた。
朝の光が差し込み、時計の針が確かに動いている。
「……戻ってきた、のか?」
掌には、まだ温もりが残っていた。
そして、遠くで誰かが呼んでいる。
――「結城さん、朝ですよ」
その声に振り向いた瞬間、彼の目から一粒の涙がこぼれた。
時間は、再び流れ始めていた。
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第3部・完
――第4部「再起動する世界」へ続く。
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次の第4部では、「再起動した世界」における“変化した現実”と、直樹が「新しい時の軸」を生きる様子が描かれます。
希望と不安が交錯する再生の章として、読者に深い余韻を残す導入を構成します。




