第58話 「残された世界」
第58話 「残された世界」
リセットが止まった翌朝――。
直樹は、初めて“昨日”という概念を持った。
起き上がると、枕元には昨日読みかけた端末が置かれていた。
それだけで、胸が詰まる。
たった一晩、記憶が続くだけで、世界はこんなにも違って見えるのか。
部屋の中には、微妙な“変化”があった。
昨日のコップ、飲みかけの水。
今までは朝になるたびに消えていた、何気ない生活の痕跡。
それがそこにある――それだけで、涙が滲んだ。
「……消えてない」
直樹は、机に手をついた。
震える指で、端末の電源を入れる。
〈記録保持:48時間経過〉
機械的な文字列が画面に浮かぶ。
それはリセットが完全に停止していることを意味していた。
だが同時に、新たな警告も点滅している。
〈記録監査:進行中〉
〈監視者ネットワーク、再起動〉
――誰かが、こちらを見ている。
直樹はカーテンを開け、外を見下ろした。
街はいつもと同じ形をしている。だが、“人の流れ”が違っていた。
動きが遅い。
まるで、すべての人間が“再生映像”のように動いている。
彼らの視線はどこか虚ろで、同じ方向を見ていた。
その先にあるのは、中央塔――この未来都市の記録中枢。
「観察……してるのか」
呟きながら、直樹は確信する。
リセットは止まったのではない。
“監視の段階”に移行したのだ。
彼は外に出た。
街を歩くと、誰もが微笑みを浮かべたまま通り過ぎていく。
その表情には“反応”がない。まるで、記録上の存在のようだ。
唯一、異なるものがあった。
カノンの端末から、かすかに音声が漏れている。
〈……直樹、聞こえる?〉
彼女の声だった。
「カノン!? 生きているのか?」
〈今は……“存在していない”けれど、残しておいた記録が動き出したの〉
〈あなたが“継続”を得た瞬間、この記録が再生されるよう設定していた〉
直樹の喉が詰まる。
カノンは、“自分がいない未来”まで計算していたのだ。
〈直樹。あなたが今見ている世界は、選ばれた“観測の世界”。
リセットを超えた代償として、あなたは今、“観察の中心”にいる〉
「観察の……中心?」
〈ええ。あなたが存在することで、この世界は“動き続ける”。
でも、それは同時に――あなたが動きを止めれば、この世界も止まるということ〉
直樹は、言葉を失った。
自分が――この世界の“軸”になっている。
〈忘れないで。私が残したものは、あなたを導くための記録〉
〈でも、もう誰もあなたを助けられない。
あなた自身が、この世界を選ぶしかない〉
音声が途切れる。
画面には、再生終了の文字。
風が吹く。
街の空気は透明で、どこまでも静かだった。
その静けさが、かえって恐ろしい。
「残された……のは、俺だけか」
直樹は呟いた。
その声が、世界に吸い込まれていく。
時間が動く。
しかし、それは彼の存在を中心に、歪みながら進んでいた。
リセットが止まり、世界が残った。
だが、それは“自由”ではなく――“責任”の始まりだった。
―――
次回、第59話「観察者の決裂」では、監視者の間に亀裂が生じ、直樹の存在をめぐる激しい対立が描かれます。
彼を消すか、生かすか――未来そのものの安定が揺らぐ転換回です。




