第55話 「逆流する時間」
第55話 「逆流する時間」
目を開けた瞬間、直樹は違和感を覚えた。
窓の外の光が、まだ午前の柔らかな色をしている。昨日もそうだった気がする――いや、つい数時間前まで、自分は夕暮れの街を歩いていたはずだった。
机の上に置いたメモ帳を開く。
そこには乱れた字で「今日は午後、カノンと会った」と書かれていた。
しかし、その出来事はもう霞んでしまっている。会話の内容も、彼女の笑顔も、霧の奥に沈んでいく。
「……まさか」
直樹の胸に冷たいものが走る。
リセットはこれまで「一晩眠れば翌朝」に起きていた。だが今は違う。半日も経たないうちに、記憶が巻き戻されてしまったのだ。
まるで、世界そのものが彼を拒絶しているかのように。
焦燥感に駆られ、彼は部屋を出る。廊下に立つと、監視者の影が遠くに見えた。無表情にこちらを見つめる存在。彼らが原因なのか、それとも自分の中で何かが壊れ始めているのか。
カノンに会わなければ、と直樹は思った。彼女なら何かを知っているかもしれない。だが足を進めるたびに、記憶の断片がまた零れ落ちていく。
――午前の会話。
――手渡された小さな紙切れ。
――「必ず覚えていて」と言った彼女の声。
すべてが波にさらわれるように消えていった。
「俺は……消されているのか?」
呟きは誰にも届かない。
逆流する時間の中で、直樹は自分が「存在そのものを拒絶される」恐怖に気づき始めていた。
記憶を失うのではない。
――存在そのものが、歴史から抜け落ちていくのだ。
その瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。まるで、心臓そのものが「まだここにいる」と叫んでいるかのように。
直樹は、かろうじて残されたその感覚を抱きしめるようにして、次の瞬間に訪れる「忘却」に必死で抗った。
―――
この第55話は「リセットの狂い=世界からの拒絶」を強調しました。
次の第56話「カノンの記録」では、直樹にとって唯一の“外部の記憶”としてカノンが動き出す展開に繋げられます。




