第49話 「忘却の海」
第49話 「忘却の海」
目覚めた直樹は、枕元に置いた端末を手に取った。
昨夜、眠る直前に必死で打ち込んだはずの記録。何を忘れてもいい、これだけは残さねばと震える指で文字を刻んだ。
しかし画面を開いた瞬間、彼の心は空白に沈んだ。
文章は確かに残っている。だが、何を意味しているのかがわからない。
「……これは、俺が書いたのか?」
文字は自分の筆跡だ。日付も、時間も、確かに昨夜のもの。
だがそこに綴られた言葉は、まるで他人が残した暗号のように思えた。
「リセットは、記憶だけじゃなく……理解すら奪うのか……?」
直樹は、背筋が冷えるのを感じた。
まるで自分が自分でなくなっていくような恐怖。毎晩リセットが訪れるたびに、彼は「昨日の自分」を失い、今日の自分として生き直す。だがその「昨日の自分」が、確かにいた痕跡だけは残っている。
忘却の海に漂う漂流物のように。
ふと、胸の奥にかすかな感覚が残っていることに気づいた。
それは記憶ではなかった。明確な言葉や映像として取り出せるものではない。
ただ、身体の奥深くに沈んでいる「温度」のようなものだった。
――誰かが、そこにいた。
――何かを、託された。
それは輪郭のない感覚でありながら、消えない。
昨日までに出会った人々や交わした言葉は、記憶の網からこぼれ落ちる。
だが、そのとき心が動いた「熱」だけは、かすかに残っていた。
直樹は端末の画面を閉じ、胸に手を当てた。
「……俺は忘れても……感じているんだな。」
その感覚こそが、自分を人間として繋ぎ止める唯一の鎖。
忘却の海に溺れても、心の奥に残る「温度」が、彼を沈み切らせはしなかった。
直樹は小さく息を吸い込み、また新しいページを開いた。
「忘れるかもしれない。けど……書く。繰り返してでも。必ず。」
彼は決意を込めて指を動かした。
記憶を奪われるたびに、その感覚を文字に託す。
例え忘却の海に沈もうとも、その「温度」が未来へ届くことを信じて。
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次は「第50話 実験体の影」です。




