第11話「未来人の常識」
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第11話「未来人の常識」
「直樹さん、先ほどの会話、やや混乱が見られましたが……体調に問題はありませんか?」
カノンの声はいつも通りだったが、微かに“探るような”響きを含んでいた。
直樹はベッドの端に腰を下ろしたまま、眉間を押さえた。
「問題っていうか……お前らの言ってる“常識”が、まるでピンと来ないんだよ」
「未来の常識は、あなたの生きていた時代とは大きく異なります。情報伝達、価値観、倫理体系、教育制度……あらゆる基盤が変化しています」
「例えば?」
「例えば、“個体”としての人格を特定の時間軸に固定するという考え方は、既に廃れています」
カノンは静かに言う。「この時代では、“流動的な自己”が標準とされるため、あなたのように“記憶によって個を保つ”概念は、過去の思想です」
「……それってつまり、“俺”であることに、意味がないってことか?」
「あなたの定義する“自分”と、こちらの定義する“自己”が一致しないというだけです」
直樹は苦笑した。
「ずいぶん冷たい言い方だな。まあ、未来人ってのは合理的なのかもしれないけど……」
「直樹さん、あなたは“過去の人間”です。それは否定すべきことではありません」
カノンは一歩前に出ると、端末を差し出した。「こちらをご覧ください。これは“転移者対応マニュアル”の抜粋です」
直樹は画面を覗き込む。そこには、こう記されていた。
> 『転移者は、原則として保護されるべき存在であり、文化的ショックに対して段階的支援が必要である。
特に“自己同一性”の喪失に起因する精神的不安定には、継続的観察と共感的介入が求められる。』
「……俺、実験動物みたいなもんだな」
「違います」
カノンは、ほんの少し声のトーンを変えた。「あなたは、観察対象ではありますが、それと同時に“選ばれた存在”でもあるのです」
「選ばれた?」
「はい。あなたは、現在記録されている全ての転移者の中で、唯一“リセット現象”を持続的に示している。
この現象は、未来世界における時間認識と存在定義に、一石を投じる可能性を秘めています」
「……ちょっと待てよ。つまり、俺の“存在の不安定さ”が……この世界にとって“新しい価値観”に繋がるかもしれないってことか?」
「その通りです。あなたは、この時代の“常識”を揺るがす可能性のある、稀有な存在です」
沈黙が落ちた。
“未来人の常識”という壁の前に立ちすくみながらも、直樹の中には、別の感情が芽生え始めていた。
それは、居場所のなさでもなく、孤独でもない。
たとえこの世界の常識に適応できなくても――
自分という存在が、“何かの意味”を持つ可能性があるなら、それだけで、まだ戦える。
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