71話目
王宮の舞踏会場が、ざわめき始める。
「え、ミシェリア嬢、男を泣かせたの!?」
「相手、公爵よ!? まさかもう婚約の話が進んでる!?」
聞こえてくるひそひそ話に、ミシェリアがハッとしたように肩を震わせた。
「テラス! テラス行きましょう!!」
彼女はそう叫ぶなり、俺の手をぐいっと掴んだ。
「早く!!」
俺は少し驚きながらも、彼女に引っ張られるまま舞踏会場を後にした。
焦るミシェリアの姿がどこか可愛らしく、思わず愛おしく思えてしまう。
◇◆◇◆◇
煌びやかな王宮の喧騒から離れたテラスは、静かで穏やかだった。
ミシェリアは俺の前に立ち、腕を組んで仁王立ちする。
「えーっと、その……公爵様、結婚とかにご興味ないですか? お困りではないですか?」
俺はゆっくりと首を傾げた。
(なぜ突然、結婚の話を……?)
まさか、俺の心を読んでいるのか?
「あのー……私も婚約相手が見つからず……このままでは少しまずいといいますか……えーっと……。」
(……もしかして)
彼女は、俺が失声症であることで婚約者がいないのを気遣っているのか?
——ミシェリアは回帰の記憶を持っているのか?
その可能性を考えながら、俺はじっと彼女を見つめた。
「ですから、あのー……」
言葉に詰まる彼女の手を、そっと取る。
そして、俺は彼女の手のひらにゆっくりと文字を書く。
『結婚したいの?』
伝わるだろうか。
少しの沈黙のあと——
「はい!! そうなんです!!」
彼女は勢いよく頷いた。
(これは……チャンスでしかない)
俺は迷わず、彼女の手のひらに『いいよ』と書く。
心臓がドクンと跳ねた。
「……え?」
「……本当ですか!?」
彼女が驚きの声を上げる。
俺は思わず微笑んでしまい、コクリと頷いた。
「……あの! でも!!」
思わず声が大きくなるミシェリア。
「私、普通の結婚じゃなくて、神殿婚がいいんですけど……それでも、大丈夫ですか?」
神殿婚か。
願ってもない提案だった。
神殿での婚儀なら、王室のしがらみを避けられるし、形式上の問題も解決しやすい。
(やはり、回帰の記憶があるのか?)
そう考えたが、今はそれよりも先に進めることが大事だ。
俺はすぐにコクリと頷いた。
「ほ、本当にわかってますか?」
もう一度、確認するように尋ねる彼女に、俺は再び頷く。
ただ——困ったことに、公爵家の正式な婚約となると、すぐには手続きが進まない。
普通なら、時間がかかる。
よほどの緊急事態でなければ。
俺は懐から一枚の紙を取り出し、それを指差した。
——そこには、文字の表が書かれていた。
ゆっくりと視線を向けながら、その中の一つ『婚約期間』という言葉を指し、さらにその隣の『1年と数か月』を示す。
伝わるだろうか。
「……なるほど。でも、18歳までに結婚できれば、私はなんでもいいです!」
(よかった、伝わったみたいだな)
俺は安心して、にこやかに頷いた。
すると、ミシェリアは嬉しそうに微笑み、喜びを噛みしめるような表情を見せる。
俺との婚約が……嬉しいのか?
俺は静かに彼女の袖を引っ張り、紙を指差した。
『明日、求婚状を送る』
「はい!」
ミシェリアは勢いよく頷く。
その姿に、俺は満足そうに微笑んだ。
再び紙を取り出し、そこに書かれたある言葉を指差した。
『どうして僕だったの?』
——見栄え的に、一人称を「僕」にした。
もともと彼女と接するときは「私」だったし、急に「俺」なんて言ったら恐れ多い気がして。
ミシェリアは、ぽかんとした顔をしたかと思うと、次の瞬間には頬を膨らませたり、眉を寄せたり、何かを考えるように百面相を始めた。
そして、少しだけ恥ずかしそうに——それでもはっきりとした声で言った。
「……運命。」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
嬉しかった。
あまりの嬉しさに、思わず微笑んでしまうほどに。
——すると、音楽が聞こえはじめた。
ダンスが始まる前の前奏——。
(……ちょうどいい。)
俺は迷わず、目の前の彼女の手をそっと掴む。
「えっ!? もしかして……ダンスを?」
ミシェリアが驚いた声を上げる。
俺は迷いなく、コクリと頷いた。
——彼女が俺のものだと示す、決定的な何かが必要だった。
声を失った今、言葉で誓えないなら、この行動で証明するしかない。
俺はミシェリアの手を引き、優雅に会場へと向かう。
目が悪く、ぼんやりとしか見えない景色の中で、舞踏会の中心を探す。
(ここか……?)
人々の視線が集まる場所へと歩を進め、俺は静かに彼女へ手を差し出した。
礼儀正しく、舞踏会での正式な誘いの仕草——。
回帰したかどうか知るには、これが一番わかりやすい。
ミシェリアは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせると、そっと俺の手を取った。
そして、自然にダンスの構えをとる。
(……間違いない)
——ワルツの華やかな旋律が流れ始めた。
俺はミシェリアの腰に手を添え、流れるようなステップで舞踏を始める。
軽やかなリズムに合わせ、彼女のドレスの裾がふわりと舞った。
「私! ミシェリア・ローベルク、ローベルク伯爵家の次女です!」
突然の自己紹介に、俺は(知っているが……?)と心の中で思いつつ、静かに頷く。
そのまま、華麗にダンスを続けた。
(……やはり、目が悪いと踊るのが少し難しいな。)
彼女の顔をはっきりと見たいのに、どうしてもぼんやりとしてしまう。
すると——。
「……もしかして、少し目が悪いのですか?」
ミシェリアが、ぽつりと尋ねた。
俺は驚いて、息を呑む。
(なぜ……どうしてそれを?)
何と答えるべきか悩みながらも、俺は静かにコクリと頷いた。
彼女は何も言わず、ただ少しだけ微笑んだように見えた。
——1曲目が終わる。
ここで解散させるつもりはなかった。
俺は、そのまま彼女の手を離さない。
「まさか……次も?」
驚いたように聞くミシェリアに、俺は当然のように頷いた。
会場がざわめき始める。
——2曲連続で踊るのは、特別な意味を持つことが多い。
これは、ただのダンスではない。
「えっ……えっ!? 」
戸惑う彼女を気にせず、俺は静かに彼女の手を引き、再びダンスを始める。
彼女のステップは完璧だった。
まるで、この瞬間を知っていたかのように——。
そのまま、3曲、4曲、そして5曲目——。
俺と彼女は、ずっと踊り続けた。
(……確信した。)
この完璧なダンス。
全てのリズムを狂いなく踊れる彼女は、間違いなく"回帰者"だった。
彼女も、俺のことに気づいただろうか——。
静かに、けれど確かな感情を胸に、俺は彼女を見つめ続けた。
それからの時間は、まるで歯車が噛み合うように、何もかもがスムーズに進んでいった。
ミシェリアは、いつも俺の制約を打ち破る存在だった。
俺が近づけないなら、彼女の方から歩み寄ってくれた。
俺が言葉を紡げないなら、彼女が率先して気持ちを伝えてくれた。
彼女は何も恐れず、まっすぐに俺のもとへと来てくれた——。
そして今——。
俺は、ミシェリアと結婚し、無事にシェルク殿下を迎えることになった。
長い旅路の果てに、こうして彼女と共にいられる。
それだけで、どれほど幸せか——。
静かに、ミシェリアの手を握る。
隣にいる彼女が、微笑みながら俺を見つめ返した。
——この運命を、俺は決して手放さない。




