70話目
ヴィヴィアンは、静かに目を開けた。
天井の模様、窓から差し込む柔らかな光——見慣れた寝室の景色が広がっている。
「……戻った……?」
頭がぼんやりとしていて、夢か現実か判断がつかない。
しかし、確かに違うことが一つだけあった。
『ヴィヴィ…成功したね!』
——シェルクの声が、頭の中に響いた。
ヴィヴィアンは、ゆっくりと起き上がり、辺りを見回した。部屋には誰もいない。それなのに、耳元ではなく、直接脳に響くような声が聞こえる。
「……はい。成功したみたいですね……。」
そう呟くと、シェルクの声は嬉しそうに弾んだ。
『ありがとう……! 僕、母上の夢の中に会いに行って、幸せになるように言ってきていい?』
ヴィヴィアンは、少しの間、考えた。
「……はい、構いません。」
ミシェリアが幸せになるためなら——そう思った、その直後だった。
——ズキッ……!!
突然、鋭い痛みがみぞおちを貫いた。
「……っ!!」
息が詰まるほどの激痛。反射的に喉を押さえる。
何かが……おかしい。
「……ぁ……」
声が、出ない。
「……っ……」
必死に喉を震わせようとするが、まるで音が遮られるように、何も発せられなかった。
何が起こった?
——その時、気づく。
シェルクの声が……聞こえない。
「シェルク……?」
呼びかけようとして、また喉を押さえた。声が出せない。
息を整え、ゆっくりと胸元に視線を落とす。
みぞおちに、黒い刻印が浮かび上がっていた。
呪いの証——。
「……これが、代償か……」
深く息を吸い、静かに目を閉じる。
大丈夫だ。これがある限り、シェルクは——。
そう自分に言い聞かせた瞬間、鏡に映る自分の姿を見て、凍りついた。
「……俺は……幼い……?」
鏡に映っていたのは、14歳のヴィヴィアンだった。
「……っ」
思わず拳を握る。
声を失った。
体は14歳に戻った。
シェルクの声は、もう聞こえない。
これは、本当に"成功"なのか——?
ヴィヴィアンは、深く息を吐く。
「……家族の確認をしないとな……」
無音の声が、喉の奥で震えた。
彼はゆっくりと立ち上がり、足を踏み出した。
――――――――
――――――
ヴィヴィアンは、屋敷の中を静かに歩いた。
自分の体が14歳に戻り、声を失った今、まず確認すべきは家族の無事——そして、彼らに刻まれた"呪い"の影響だった。
「……服をめくってみせてくれ」
筆談で伝えると、家族は困惑しながらも順番に胸元を開いた。
——そこには、全員のみぞおちに黒い刻印があった。
それだけではない。
「っ……く……!」
弟のヴィジェストが、ふと呟いた瞬間、鼻血を流した。
「おい……!?」
家族が慌てる中、ヴィヴィアンは眉をひそめる。
(回帰を口にしただけで、鼻血……?)
これが呪いの"制約"なのか。
回帰のことを話すことすら許されない——。
ヴィヴィアンは、さらに家族を確認していく。
そして、驚くべきことに、屋敷にいなかったはずのヴィーネストにも刻印があった。
だが、よく見ると——
(……刻印の形が違う……?)
他の家族のものとは、明らかに異なっていた。
しかも、ヴィーネストの様子がおかしい。
「ヴィーネスト?」
呼びかけても、彼はただ家族を見て涙を流し続ける。
何かを訴えようとしているのに、言葉が出てこないようだった。
その姿を見て、ヴィヴィアンはある可能性に思い至る。
(まさか……生き残ったヴィーネストが、遠い未来で回帰の呪いを受けてしまったのか?)
もしそうなら——
(ミリスクレベンが回帰している可能性がある……?)
喉の奥がひやりと冷えた。
ミリスクレベンが回帰しているのなら、この世界はすでに"彼の計画の中"にある可能性が高い。
——ならば、一刻も早くミシェリアを迎えに行かなくてはならない。
ヴィヴィアンは筆談で家族と相談し、慎重に話を進めた。
『ミシェリア様を迎えに行く』
家族は驚いたが、すぐにそれを理解し、準備に取りかかろうとした。
だが——
「っ……!!」
突如、ヴィヴィアンの喉の奥から、熱い鉄の味が広がる。
——ドボッ……!
赤い血が、白い紙の上に染みを広げた。
「兄上!!」
「ヴィヴィアン!!」
家族が駆け寄る。だが、ヴィヴィアン自身は一瞬で悟った。
(……これは……呪いだ……。)
——自分から接触することは、不可能だということを。
彼は唇を血に染めたまま、ゆっくりと拳を握りしめた。
(くそ……)
もどかしさが胸を焼く。
それでも、彼は諦めなかった。
ミシェリアを助ける方法は、必ずある。
——違う形で、彼女に近づく方法を見つけるしかない。
ヴィヴィアンは静かに目を閉じ、再び筆を握った。
「ミリスクレベンが回帰した可能性が高い。慎重に動く必要がある。」
全てを覆すために——。
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――――――――
——時間だけが、無情に流れた。
どうすることもできずに、気づけば18歳になっていた。
ミシェリアを迎えに行く術はなく、それでも彼女を取り戻すために、父は早々に公爵の座を譲ってくれた。
そして、今日——。
王宮の舞踏会。
——ミシェリアのデビュタント。
彼女が正式に社交界へと足を踏み入れる、初めての夜。
(……絶対に出席しなければならない)
ヴィヴィアンは、決意を胸に王宮へと足を踏み入れた。
しかし、すぐに壁際へと移動する。
——血を吐いてしまってはいけない。
呪いの制約は未だに消えず、彼女に近づくことすら許されていない。
それでも——
(どうにかして、彼女の目にとまらなければ……)
ヴィヴィアンは、人々の間を縫うように踊る貴族たちをじっと見つめた。
ダンスに誘うことができれば、自然に近づけるかもしれない。
そんなことを考えていた、その時だった。
「あの!!」
突然、目の前で誰かが声をかけてきた。
(誰だ……?)
ヴィヴィアンは、視線を向ける。
だが、うまく焦点が合わない。
(……目が悪くて、よく……)
瞬きをして、じっと相手を見つめる。
細くしなやかな体、小さな顔、見覚えのある金色の髪——。
(まさか……)
(……ミシェリア様……?)
かすれた声が喉の奥で震えた。
——幼い。
一瞬、誰かわからなかったほど、幼い顔をしていた。
だが、それでも間違いない。
目の前にいるのは——
ずっと会いたかった人。
ミシェリアが、じっとこちらを見つめている。
「お話したいので……テラスへ、行きませんか?」
そう言って、手を差し伸べてくる。
——ミシェリア様が……俺に……声を……。
頬を伝う温もりに気づく。
気づけば、涙が零れ落ちていた。
ミシェリアは、一瞬ぎょっとしたように目を見開き、思わず一歩後ずさった。
——俺が、泣いているから。
まるで、長い間押し殺していた感情が溢れ出したかのように、静かに涙が零れ落ちていた。
(やっと……やっと、あなたに会えた……)
(やっと……お救いできる……)
胸の奥が熱くなり、視界が滲む。
(……見ていますか、シェルク殿下)
ミシェリア様が……俺に、声をかけてくださいました。
その瞬間——。
——ふっ、と何かがほどける感覚がした。
まるで見えない鎖が緩むように、体が軽くなる。
(これは……)
俺は静かに息を呑む。
——制約のひとつが、解けた……?
今なら……今なら、きっと。
ミシェリアに触れることができる。
「え、ちょっと……大丈夫ですか!?」
ミシェリアが慌てて、ドレスの袖から小さなハンカチを取り出した。
躊躇うことなく、俺の顔へとそっと当ててくれる。
「すみません、驚かせちゃいました? ほら、涙、拭いてください……」
彼女の指先が、俺の頬に触れた。
その瞬間——。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
俺はじっとしたまま、されるがままに涙を拭かれていた。
——触れられる。
——ミシェリアが、俺に触れてくれている。
手元がふるふると震える。
声が出せない分、余計に感情が溢れそうになる。
「……」
言葉にできない感情が胸を締めつける。
俺はただ、震える手でそっとミシェリアの手を握りしめた——。




