68話目
寝室には、痛みに耐える私の荒い息遣いと、医師たちの真剣な声だけが響いていた。
「あと少しです、奥様!」
強く握りしめたヴィヴィアンの手が、汗ばんでいるのがわかる。私が痛みに震えるたびに、彼もまた、私を支えるように手を握り返してくれた。
「もう…無理……っ」
力が入らない。息が苦しい。けれど、この腕の中にいるヴィヴィアンがそばにいる限り、私はきっと大丈夫。
「大丈夫」
彼はいつものように短く、けれど確信に満ちた声で言った。
「……うん……!」
最後の力を振り絞り、私は全身を使って踏ん張った。
「——生まれました!」
医師の声が響く。
しかし、次の瞬間——
部屋が静まり返った。
泣き声が、ない。
私は息を詰め、医師たちの顔を見つめた。
「……どうなってるの?」
不安に駆られ、震える声で問いかける。赤ちゃんは、確かにそこにいる。呼吸をしている。胸が動いているのに——なぜ、泣かないの?
「シェルク殿下」
静かな声が、私の隣から聞こえた。
ヴィヴィアンだった。
彼は、生まれたばかりの息子をそっと見つめながら、穏やかに言葉を紡ぐ。
「鳴きまねでいいです。安心させてやってください。」
次の瞬間——
「……おぎゃぁ……っ」
か細い声が響く。
それは、まるで戸惑いながらも応えるような、そんな泣き声だった。
「……泣いた?」
私は驚きのあまり、ヴィヴィアンを見上げる。
「ヴィヴィ……どういうこと?」
ヴィヴィアンは私の手を握ったまま、小さく息をつく。そして、ゆっくりと、けれど確かに言った。
「これで……制約は解かれました。すべての呪いが……終わったんです。」
「終わった……?」
「今はとりあえず……ゆっくり。」
優しくそう囁くヴィヴィアンの声は、どこかほっとしたような、けれど、まだ言い足りない何かを抱えているようにも感じられた。
その時——
「ミシェリア!」「ヴィヴィアン!」
廊下の向こうから、どっと押し寄せる気配がした。
「お姉様!」
「母上、父上、落ち着いてください!」
シェリルアの声が聞こえたと思えば、すぐに扉が開きそうになる。ラヴェルノワ公爵家とローベルク伯爵家の家族が、こぞって駆けつけてきたのだ。
「おお、ついに!」
「ミシェリア、無事か!」
「お子様は!」
興奮した家族たちが押し寄せようとするが——
「待て」
ヴィヴィアンが静かに、しかしはっきりとした声で制した。
「産後の後処理が終わるまで、誰も入れません。」
その一言で、扉の向こうがぴたりと静まる。
「ええっ!?」「ちょっとだけ!」「いや、だめだろう!」
しばらくごちゃごちゃとした声が聞こえたが、結局ヴィヴィアンの威圧に押されて、外で待機することになったようだった。
私はそんなやりとりをぼんやりと聞きながら、生まれたばかりの赤ん坊を見つめた。
呪いが解けた——。
まだ、すべてを理解できるわけじゃない。でも、この腕の中にいる温かな命だけは、確かに私のものだ。
静かに目を閉じ、私はヴィヴィアンの手の温もりを感じながら、ゆっくりと安堵の息を吐いた。
――――――――――
――――――――
全ての謎は、私の回帰前——私が死んだ後に始まった。
「母上ーーーーーー!!!」
幼い悲鳴が、宮殿の中に響き渡る。
シェルクは震えながら、目の前の現実を受け入れられずにいた。倒れた母の手を必死に握り、何度も揺さぶる。
「母上、起きてよ……ねぇ、目を開けて……っ!」
しかし、ミシェリアの体は微動だにしない。肌はすでに冷え始め、彼女の美しい唇は青ざめていた。
その時、扉の向こうで足音が響いた。
「シェルク、待っていろ」
低く冷たい声が、部屋に響く。
ゆっくりと姿を現したのは、シェルクの父——王太子ミリスクレベン。
シェルクは反射的に身を竦ませた。
「……父上……?」
ミリスクレベンは、倒れたミシェリアをじっと見下ろす。
そして、静かに、まるで当たり前のように言った。
「母さんを剥製にしてやる」
「——え?」
「そうすれば、ずっと一緒だ」
微笑みすら浮かべながら、ミリスクレベンはそう告げると、踵を返し、外へと向かった。
「だめだ……」
シェルクは、咄嗟に立ち上がる。
父が戻る前に、どうにかしなくちゃ。母上が……このままだと——
その時だった。
バタンッ——!
扉が大きく開かれ、王宮騎士団の制服を纏った男が息を切らせて立っていた。
銀の髪に紫の瞳——専属騎士、ヴィヴィアン・ラヴェルノワ。
「ミシェリア様!!!」
彼は床に横たわるミシェリアの姿を見た瞬間、血の気が引いた。
「どうして……!早く医者を!!」
ヴィヴィアンが駆け寄ろうとしたその時、シェルクが力強く手を伸ばして彼の腕を掴んだ。
「待って!!」
震える声が、切羽詰まった響きを帯びている。
「もう……母上は……だめ……毒を……」
ヴィヴィアンの表情が凍りつく。
「なんだと……」
彼の指先が微かに震えた。
毒——それが真実なら、もう手遅れかもしれない。
しかし、それでも——
「助けて!」
突然、シェルクがヴィヴィアンの制服にしがみつき、声を振り絞るように叫んだ。
「ヴィヴィ!!助けて!!母上を!!」
必死に涙をこらえながら、幼い王子は嗚咽混じりに叫び続ける。
「父上が……母上を剥製にするって!!」
「……っ!」
ヴィヴィアンの表情が歪む。
「今すぐ僕と母を連れて逃げて!!王族命令だ!!」
幼い王子の、必死の命令だった。
ヴィヴィアンは、息を整えるように一瞬だけ目を閉じた。
そして——決断する。
「……わかりました」
そう言うや否や、ヴィヴィアンはミシェリアの体を抱きかかえ、素早く立ち上がる。
「シェルク様、しっかりつかまってください」
シェルクの手を強く握り、ヴィヴィアンは迷うことなく走り出した。
王城の奥深くに存在する秘密の通路。
長年、王太子妃に仕えてきた彼だからこそ知る逃げ道だった。
静かに足音を殺しながら、ヴィヴィアンはシェルクの手を引き、慎重に進んでいく。
背後には、何かを察した兵士たちの気配があった。
時間がない——。
「……っ、急ぎましょう」
ヴィヴィアンが囁くと、シェルクは息を切らしながらも必死に頷いた。しかし、次の瞬間——
「……あ、待って!こっち!」
シェルクが突然ヴィヴィアンの手を引き、曲がり角を駆け抜ける。
「シェルク様!?」
「大丈夫!すぐだから!」
そう言って彼が向かったのは、王城の奥深くにある禁書庫だった。
「ここは……?」
ヴィヴィアンが戸惑いながらも扉を開けると、そこには古びた書物がぎっしりと並んでいた。
「……あった!」
シェルクは迷いなく奥の棚へ駆け寄り、小さな手で一冊の古い本を引き抜いた。
「これだけは持っていかないと……!」
息を切らしながら、シェルクは本を大事そうに抱え、ヴィヴィアンを見上げる。
「行こう!」
その決意に満ちた声に、ヴィヴィアンはわずかに驚きながらも、すぐに頷いた。
「……はい!」
本が何なのかを問う余裕はない。今は、ただ逃げることが先決だった。
ヴィヴィアンは再びミシェリアの体を抱え、シェルクの手を引くと、秘密の通路へと駆け出した。
・
・
・
ようやく城の外へたどり着いた瞬間、ヴィヴィアンの視界に一台の馬車が飛び込んできた。
ラヴェルノワ家の紋章が刻まれた馬車——。
「急げ!」
ヴィヴィアンは扉を勢いよく開き、まずシェルクを押し込む。
「母上……!」
シェルクが必死にミシェリアへ手を伸ばす。ヴィヴィアンはそれに応えるように、彼女の体をそっと横たえた。
「御者、すぐに発進を!」
ヴィヴィアンの鋭い声が響く。
「出せ!!」
鞭の音が鳴り、馬車は勢いよく動き出した。
(この選択が正しいのか、分からない。だが、もう迷っている時間はない。)




