61話目
朝の柔らかな陽光が、カーテンの隙間から差し込み、寝室を静かに照らしていた。
ミシェリアはゆっくりと目を開けると、隣で横になっているはずのヴィヴィアンが、じっと天井を見つめているのに気づいた。
「ヴィヴィアン?」
彼は瞬きもせずに視線を宙に彷徨わせたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……ミーシャ………昨日の記憶が……ない。」
その言葉を聞いた瞬間、ミシェリアはぷふっと吹き出し、そのまま大声で笑い出した。
「あっはははは!!ちょっと、ヴィヴィアンったら!本気で言ってるの!?」
涙が出るほど可笑しくて、腹を抱えながら笑い続けるミシェリア。
「……そんなに笑うことか……?」
隣で微かに眉を寄せながら、不満そうに呟くヴィヴィアン。
「だって、飲みすぎるからよ!覚えてないの!?昨日、すごいお酒の量だったのよ?」
「……飲みすぎ……?」
ヴィヴィアンはしばらく考え込むように目を閉じた。
「……俺は酒を飲んだようだな……。」
ようやく認めたようだったが――彼は依然としてベッドから起き上がろうとしない。
「……ねぇ、ヴィヴィ、もしかしてだけど……二日酔い?」
ミシェリアが半ば呆れながらそう問いかけると、ヴィヴィアンは一瞬ぴくりと肩を揺らし、バツが悪そうに視線を逸らした。
(あっ、バレたのが恥ずかしいのね?)
「……。」
目を伏せながら、少しだけ耳が赤くなっているのを見て、ミシェリアはさらに笑いを堪えきれなくなった。
「はぁ……もう、しょうがないわね。」
ミシェリアは溜息をつきながら、そっとヴィヴィアンの肩を支え、枕に沈んでいた彼の上半身をゆっくり起こした。
「ほら、水を飲んで。」
枕元の水差しからグラスに水を注ぎ、彼の唇へと運ぶ。
ヴィヴィアンは少し戸惑いながらも、一口、また一口と水を喉に流し込んだ。
「……助かる。」
かすれた声でそう言ったが、その表情はどこか苦しげだ。
彼の視線がわずかに泳ぎ、眉間にシワが寄る。
「……うっ!!頭がぐるぐる…する。」
どうやら、本格的な二日酔いらしい。
ヴィヴィアンはまるで未知の苦しみに遭遇したように困惑し、再び枕に頭を沈めた。
「二日酔いか?こんなに……気分が悪いものなのか……。」
「ええ、そうよ。あなた、もしかして初めて?」
「……ああ。」
ヴィヴィアンは目を閉じながら、昨日の記憶を必死に辿ろうとする。
だが――何も浮かばない。
「……本当に何も思い出せない。」
その事実に驚きを隠せない様子で、もう一度水を飲む。
「……俺は普段、ほとんど酒を口にしないんだ。感覚が鈍くなるからな。せいぜい食事の際に軽く飲む程度だ。」
(ふーん……。お堅い人ですこと。)
ミシェリアは内心でクスクスと笑いながら、ヴィヴィアンの横顔を見つめる。
なるほど、だから昨日あれほど平然としていたのに、実は限界を超えていたのね。
「……っ、ミーシャ……」
突然、ヴィヴィアンがもぞもぞと体を動かしながら、ミシェリアの手を掴んだ。
「ん?どうしたの?」
「……すまないが、少々……用を足しに行きたい。」
貴族らしく優雅な言い回しではあるが、内容は実に切実だ。
だが――。
「ちょっと、待って……!」
ヴィヴィアンがベッドから足を下ろした瞬間、よろめいた。
思うように力が入らないのか、バランスを崩し、結局四つん這いの姿勢になってしまう。
「……っく、最悪だ……。」
ミシェリアは思わず口元を押さえた。
(あ、これは……ちょっと面白いかも。)
「……笑うな。」
「笑ってないわよ?」
「声が震えている。」
「そ、そんなこと……!」
ミシェリアは必死に笑いを堪えていたが、その時だった。
――コンコン。
「お目覚めですか?」
扉が開き、朝の支度を整えた侍女や執事が優雅に入室してきた。
だが、彼らの目に飛び込んできたのは――。
四つん這いになったまま床に這うヴィヴィアンと、それを上から見下ろしているミシェリア。
「……。」
「……。」
「……。」
一瞬の沈黙。
そして、侍女と執事は何かを察したのか、顔を赤く染めて慌てふためいた。
「あっ、し、失礼いたしました!!!」
バタン!!
まるで何か重大な場面を目撃してしまったかのように、扉が勢いよく閉じられる。
「……。」
「……。」
静寂が落ちる寝室。
「……ミーシャ。」
「……な、何も言わないで。」
ミシェリアは目を押さえ、深く息を吐いた。
だが、耐えきれずに吹き出す。
「あっはははは!!何よこれ!!朝から面白すぎるわ!!」
ヴィヴィアンは、眉をひそめながらも、軽く頭を抱えた。
「……本当に最悪の朝だ……。」
◇◆◇◆◇
数日後、ようやく二日酔いのヴィヴィアンも落ち着きを取り戻し、ミシェリアは改めて結婚式の準備に意識を向けることにした。
(結婚式の準備も、いよいよ大詰めね……。)
そう思いながら、婚礼衣装の布地を眺めていたときだった。
扉がノックされ、次の瞬間、いつもの気配が部屋へと飛び込んできた。
「義姉上!こちらにいらっしゃったのですね。」
「ヴィートヒート?」
部屋に入ってきたのは、ラヴェルノワ公爵家の三男、ヴィートヒートだった。
普段は軽口を叩く彼だが、今日は珍しくきちんとした仕立てのジャケットを羽織り、どこか改まった雰囲気を纏っている。
「どうしたの?」
ミシェリアが首を傾げると、彼は丁寧に包まれた小包を差し出した。
「こちらを……。」
彼の手には、美しく装飾された箱。開けてみると、中には淡いブルーのサファイアが埋め込まれた繊細なヘアピンが収められていた。
光を受けて、サファイアが美しく煌めく。
「まぁ、素敵……。」
思わず息をのむ。淡いブルーが柔らかく光り、まるで空に浮かぶ清らかな雲を閉じ込めたかのようだった。
(サムシングブルー…かしら。)
「義姉上にぴったりでしょう?」
ヴィートヒートは、珍しく真剣な表情で言った。
「ラヴェルノワ公爵家の花嫁なのですから、気品が求められますからね!」
いつもは茶化すような彼が、こうして真面目な顔で準備をしてくれるなんて……。
ミシェリアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、優しく微笑んだ。
「ありがとう、ヴィートヒート。」
すると彼は少し照れくさそうに鼻を鳴らし、次の瞬間、また新たな小包を差し出した。
「それと、こちらはダーンストレイヴ公爵夫妻から届いていましたよ。」
「え?」
ミシェリアは受け取ると、丁寧に包まれた布をそっと開く。
中には、気品ある白いリングピローが収められていた。
指先でそっと触れると、柔らかな布地の感触と共に、懐かしい記憶がよみがえってくる。
(これ……もしかして……。)
記憶の奥底に眠っていた光景が、ぼんやりと浮かび上がる。
まだ幼かった頃、ダーンストレイヴ公爵夫妻の結婚式に参列したとき、確かに見たことがあるような……。
(このリングピロー……あのとき、公爵夫人が使っていたものじゃないかしら?)
もちろん、正確な記憶はもう薄れている。
でも、この装飾や布地の雰囲気に、幼い頃の印象が重なるような気がした。
「恐らく、サムシングボロウになるのでは?」
ヴィートヒートが穏やかに微笑む。
(サムシングボロウ……何か借りたもの。)
結婚式の伝統のひとつであり、「過去の幸せを引き継ぐ」という意味が込められている。
ダーンストレイヴ公爵夫妻が長年幸せな結婚生活を築いてきた証とも言えるものを、こうして自分のもとへ託してくれるなんて――。
「……大切に使わせていただくわ。」
ミシェリアはリングピローをそっと抱きしめる。
サファイアの髪飾りと、このリングピロー。
ひとつひとつのアイテムが、彼女にとって特別な意味を持つものになっていくのを感じた。
(なんだか、結婚式って感じね。緊張しちゃうわ。)




