58話目
ミシェリアは早朝から新聞を手に、ヴィヴィアンの執務室へと怒りを隠せないまま足を踏み入れた。
「ヴィヴィアン!」
彼女の怒りを秘めた声に、書類に向かっていたヴィヴィアンは驚いたように顔を上げる。
「どうしたんだ、ミーシャ?」
彼のその素知らぬ表情に、ミシェリアの眉がピクリと動いた。
「『どうしたんだ』じゃないでしょう!」
勢いよく机に新聞を叩きつける。その表紙には、大きく王太子ミリスクレベンと聖女リーサの婚約式の記事が掲載されていた。
ヴィヴィアンはそれをちらりと見ると、平然とした顔で「あぁ」と小さく呟いた。
「忘れてたんだ。」
「嘘ばっかり!忘れるわけないでしょう!?」
ミシェリアは眉間にしわを寄せながら彼を睨みつける。いくら彼が私のことしか興味がないとはいえ、相手は仮にも王太子である。忘れるわけがない。
ヴィヴィアンは面倒そうにため息をつくと、淡々と言った。
「終わったことだ。それ以上話すこともないだろう?」
その冷淡な態度に、ミシェリアは眉を吊り上げて彼を睨みつける。
「そんなわけないでしょう!外交問題にでもなったらどうするつもりなの?」
「そんな大げさなことか?」
ヴィヴィアンはむしろ不機嫌そうに眉をひそめると、小さく舌打ちした。その表情は明らかに苛立っている。ミシェリアは呆れながらも、再び問い詰めた。
「じゃあ、招待状はどうしたの?」
ヴィヴィアンは目を逸らしたまま、ぼそりと答える。
「燃やした。」
ミシェリアの口がぽかんと開いた。
「燃やした!?」
彼はそっぽを向いたまま答えない。ミシェリアは頭を抱えてため息をついた。
「もう……せめて返事くらいは送ったのでしょうね?」
ヴィヴィアンは黙ったまま視線を逸らし続けている。
その時、後ろで控えていた執事が咳払いをして、穏やかな声で割り込んだ。
「ご安心ください、若奥様。返信状は私がきちんと用意し、大旦那様と大奥様が代表で出席なさいました。」
それを聞いて、ミシェリアはほっと胸をなでおろす。
「……助かったわ。ありがとう。」
彼女が執事に礼を言うと、ヴィヴィアンは再び不機嫌そうに机の書類をめくり始めた。その背中には、どうしても拭えない嫉妬の気配が滲み出ていた。
(……まったく。いつまでも子供みたいな人。)
しかし、そんな嫉妬深く幼い一面を持つヴィヴィアンを、ミシェリアはどうしても嫌いになれなかった。むしろ、そんな姿を愛おしくすら思ってしまう自分に、思わずため息をつく。
「もう……ヴィヴィ、こういうことをすると、また罰を受けるわよ?わかってる?」
優しく頭を撫でてあげようとしたその時、ふと執事が何かを言いかけた。
「奥様……。若旦那様は既に、その……罰を……。」
「え? 罰ってどういうこと?」
ミシェリアが驚いて聞き返すと、執事は何とも言えない気まずそうな顔をし、ちらりとヴィヴィアンに目を向けてから口ごもった。
「それは……その……。」
「ちょっと、何があったの?」
ますます不安を感じて問い詰めようとした瞬間、扉が静かに開き、ヴィヴィアンの母エミリアが穏やかな笑みをたたえて入ってきた。
「また社交界で失態を犯しかけたのだから、お尻を鞭で叩いてやったのよ。」
「えっ!? お、お尻に……?」
ミシェリアは目を丸くしたまま、ヴィヴィアンを見つめる。彼は真っ赤になった顔を隠すように顔をそむけ、咳払いを一つすると、恥ずかしさをごまかすように眉間に皺を寄せていた。
「……母上、それを言う必要はなかったのでは?」
「何を言ってるの、ヴィヴィアン。ミシェリアちゃんはあなたの妻です。夫婦間に秘密はいけません。」
「いや、それでも……。」
顔を真っ赤にして視線を逸らすヴィヴィアン。普段の落ち着いた彼からは考えられないようなその幼さに、ミシェリアは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
(え、お尻を叩かれたの? あのヴィヴィアンが!?)
想像すると可笑しくて、ミシェリアの唇は自然と震える。するとエミリアがミシェリアに優雅な笑顔を向け、優しく付け加えた。
「安心して、ミシェリアちゃん。今回はお尻が真っ赤になる程度ですから。」
「あ、あはは……そうですか……。」
ちらりとヴィヴィアンを見ると、彼は顔を真っ赤に染めたまま目を逸らしている。威厳ある公爵様が母親から鞭でお尻を叩かれたという姿は、想像以上に可愛らしく、ミシェリアの胸は笑いで複雑な感情が混ざり合っていた。
「ヴィヴィ、痛かった?」
からかうように問いかけると、ヴィヴィアンはむっとしたように顔を背けながら小さく呟く。
「……聞くな。」
「まぁ、いいじゃないの。愛する妻の前で素直に罰を受け入れる夫も、また素敵だと思うわよ。」
エミリアがにこやかに告げると、ヴィヴィアンは肩を落として小さくため息をついた。
「……はい。」
◇◆◇◆◇
夕暮れの淡い光が、ラヴェルノワ公爵邸の庭園を柔らかく染めていた。
ミシェリアは庭園の一角に置かれた白いガーデンチェアに腰掛け、ゆったりとした時間を過ごしている。
結婚式の準備に追われる毎日のなか、彼女にとって夕方のこのひとときが、何よりの楽しみになっていた。
目の前には美しく咲き乱れるオレンジ色の薔薇――ではなく、鮮やかな夏の花々が色とりどりに咲いている。特にオレンジや黄色のマリーゴールドが夕陽を浴びて揺れている様子は、まるで輝く黄金のようだった。
(綺麗……。)
穏やかな光景に目を細めながら、ミシェリアの心は少しだけ遠くへと飛んでいた。
(レヴィ……いえ、ミリスクレベン王太子は、無事に婚約したみたいね。)
今朝目にした新聞の記事を、改めて思い出す。華やかに飾られた紙面には、幸せそうに微笑むミリスクレベンと聖女リーサが映っていた。
リーサ――。
その名を心のなかで呟くと、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みが走った。
回帰前、ミシェリアが見たリーサの姿は、到底聖女とは思えないほどに高慢で傲慢だった。人々からは神のように崇められていたが、彼女にとってリーサは、間違いなく『悪女』だったのだ。
(でも……あの人。神殿では仕方なくミリスクレベンの運命の相手になったかのように振る舞っていたけれど、回帰前、彼女は自分の意思で彼の隣を望んでいたような気がする。)
愛情というより執念のような瞳を向けてきたリーサ。彼女がミシェリアから王太子の愛を奪い取ったのは、単なる使命ではなく、確かな想いがあったからだろう。
ミシェリアは、軽く目を閉じて息をついた。
(もう、二人には関わらない方がいい……。)
ヴィヴィアンの強い嫉妬心を考えれば、あの二人に近づくだけでまた騒動が起きる。そうでなくとも、ミリスクレベンとリーサの存在自体が、あの忌まわしい悲劇を再び呼び込むかもしれない。
(私はもう……死にたくない。)
彼女の指が無意識に震え、小さな音を立ててティーカップがソーサーに触れる。
ヴィヴィアンを選んだのは、ただ生き延びたいからだけではなかった。
心からの幸せを掴みたい、もう二度と悲しい結末を迎えたくないという強い願いがそこにはあった。
(きっと……大丈夫。ここにずっといて、あの二人に関わらなければ。)
震える心を落ち着けるように紅茶を口に含む。ふわりと鼻をくすぐる優しい香りが、彼女の不安をゆっくりと和らげてくれるようだった。
(もう、絶対に悲しい終わりになんかさせない……。)
自分自身に言い聞かせるように、ミシェリアは静かに心の中で呟いた。
柔らかな夕陽に包まれながら、彼女は再び紅茶に口を運び、小さく深呼吸をした。
【オマケ】
ヴィヴィアンは、部屋の暖炉の前で険しい顔をして立っていた。
その手には、一通の招待状――美しい金色の文字で『ミリスクレベン王太子殿下と聖女リーサ様の婚約式』と書かれている。
(アイツとミーシャをもう引き合わせるわけにはいかない。余計なことを喋られるかもしれない。何より………あの距離感は見るに堪えない。)
彼はそれをじっと睨みつけていたが、やがて招待状を暖炉の火へと近づける。
「ヴィヴィアン?」
背後から突然響いた声に、彼は肩をびくっと震わせる。
振り返ると、ドアのそばに立つ母・エミリアの姿があった。彼女のエメラルドグリーンの瞳が、じっと息子の手元を見つめている。
「……母上、これは、その……。」
「あら、ヴィヴィアン? それはもしかして招待状?」
「これは、ただ……その……寒かったので燃やそうと……。」
「今日は真夏よ?」
エミリアは冷ややかな視線で息子を見つめたまま、ゆっくりと近づいてきた。その表情には明らかに怒りの気配が漂っている。
「王太子殿下からの招待状を燃やそうだなんて、ヴィヴィアン・カルノア・ケイオス・ラヴェルノワ。あなた、いい度胸をしているわね?」
「い、いや母上、これはその――」
「言い訳無用!」
いつも穏やかなエミリアが突然鋭く怒鳴り、ヴィヴィアンは驚いて身を縮める。
「今すぐそこへ跪きなさい!」
「……え?」
「聞こえなかったの? お仕置きします。」
「ま、待ってください母上……!?」
しかし、エミリアは既に豪華なカーテンの陰から、慣れた様子で鞭を取り出している。
「使用人やヴィートヒートの前で叩かれるのは……っ!」
「じゃあ、せめて私たちの家族の名誉を傷つけないことね。」
冷たく微笑むエミリアに追い詰められ、ヴィヴィアンは最終的に観念したように目を閉じた。
「……どうぞ。」
息を吐き、諦めたように膝をついたヴィヴィアンのお尻めがけて、エミリアは容赦なく鞭を振り下ろした。
「いっ……!!」
その痛みと恥ずかしさで顔が真っ赤になったヴィヴィアンを見て、エミリアはにっこり微笑む。
「今度またミシェリアちゃんを困らせるようなことをしたら、さらにお仕置きが増えるから覚えておくのよ?」
「……はい、母上。」
耳まで真っ赤にして項垂れるヴィヴィアンだった。




