54話目
馬上試合の前日――。
穏やかな日差しが降り注ぐ昼下がり、ラヴェルノワ公爵邸に珍しい客がやってきた。
「あら、ヴィルダン!ようこそ!」
ミシェリアは笑顔で出迎えると、玄関でぎこちなく立ち尽くすヴィルダンに歩み寄った。
「えっと、その……お久しぶりです。義姉さん。」
ヴィルダンは少し照れ臭そうに頭を掻きながら、硬い口調で挨拶をする。 彼は若くしてラヴェルノワ公爵家騎士団の団長を務めているが、生来の口下手なため、こうした挨拶はどうにも苦手だった。
それでもミシェリアは、そんな彼のぎこちなさを微笑ましく感じていた。
「ヴィルダンも明日の馬上試合に出るの?」
彼女が穏やかに尋ねると、ヴィルダンは控えめに頷いた。
「はい、一応……。もし、勝てたら義姉さんに薔薇をプレゼントしますね。」
素朴な笑顔でそう答えた瞬間――。
「やめろ。」
低く不機嫌な声が玄関ホールに響いた。 振り向くと、腕を組んだヴィヴィアンが冷たい視線をヴィルダンに向けている。
「ミーシャに薔薇を渡していいのは俺だけだ。」
ミシェリアは慌ててヴィヴィアンの腕に触れ、軽くたしなめた。
「ちょっとヴィヴィったら、義弟でしょ?」
「……ダメなものはダメだ。」
ヴィヴィアンはむっとして顔を背け、眉間に深い皺を寄せている。 その姿はまるで拗ねた子供のようで、ミシェリアは思わずクスッと笑った。
「はは……。」
ヴィルダンは乾いた笑いを浮かべながら、小声で呟く。
「いえ、ごちそうさまです……。」
「えっ!?」
ミシェリアは驚いて目を見開くが、ヴィルダンは何事もなかったかのように目を逸らした。
「もう……二人とも。とにかく食堂へ行きましょう。ご両親も待っているわ。」
そう促して歩き出すミシェリアの後を、ヴィヴィアンは不満げな表情を隠そうともせずについていく。ヴィルダンも少し困ったような笑みを浮かべて続いた。
食堂に入ると、既にエミリアとヴィストリアが席に着いて待っていた。
「おお、ヴィルダン。久しぶりだな。」
ヴィストリアがどっしりと構え、落ち着いた笑みで息子を迎える。 エミリアも穏やかな微笑みで息子たちを見つめていた。
「明日の馬上試合、結局うちからはヴィヴィアンとヴィルダンだけか……。少し寂しいものだな。」
ヴィストリアが重々しくため息をつくと、エミリアもそれに頷きながら口を開いた。
「ヴィジェストも出ればいいのに。あの子、最近さらに怠け癖がついたのかしら。」
ヴィヴィアンが呆れたように肩をすくめる。
「どうせアイツのことだ。面倒だからとサボっているんだろう。」
ミシェリアは、そんな家族のやり取りを楽しげに見つめながら椅子に腰掛けた。
すると、エミリアがふとヴィヴィアンに向かって声をかける。
「そういえばヴィヴィアン、試合では絶対にオーラを使ってはいけませんよ?」
ヴィヴィアンは素直に頷いた。
「はい、母上。」
(あぁ、そういうことね……。)
ミシェリアは今さらながらに納得した。 ヴィヴィアンは元王宮騎士として、優れたオーラ使いでもある。 しかし今は王宮騎士団ではなく、ただの公爵として歩んでいるため、試合でその実力を見せつければ、間違いなく余計な騒ぎを招くことになるのだ。
(だから、あんなに一生懸命訓練していたのね……。)
心の中でヴィヴィアンの努力を微笑ましく思いながら、ミシェリアは紅茶を口に運んだ。
すると、ヴィストリアがにやりと笑いながらヴィヴィアンを見やる。
「オーラを使わないなら、案外ヴィヴィアンに勝つチャンスがあるかもしれんな。」
それを聞いてヴィルダンは控えめに笑った。
「父上、それはどうでしょうか……。兄上はオーラ無しでも十分強いですから。」
ヴィヴィアンは無言のまま、口の端を少しだけ上げた。 その表情には静かな自信が滲んでいる。
(でも、ヴィヴィアンが負ける姿なんて想像できないわ……。)
ミシェリアはそんなヴィヴィアンの横顔をこっそりと見つめながら、小さく微笑んだ。
(明日の試合、楽しみね……。)
◇◆◇◆◇
自室で黙々と刺繍をしていたミシェリアは、ようやく最後のひと針を通し、安堵の息をついた。
「ふぅ……なんとか間に合った。」
月明かりの下、淡い銀色のリボンに繊細な刺繍が美しく浮かび上がっている。
(ヴィヴィ、喜んでくれるかしら……。)
胸をドキドキさせながらリボンを丁寧に手に取り、ミシェリアは立ち上がった。ゆっくりと扉を開け、彼が待つ寝室へと足を向ける。
寝室の扉をそっと押し開けると、ヴィヴィアンはベッドの上で眼鏡をかけたまま、本を読んでいた。暖かなランプの光が彼の銀髪を照らし、整った横顔をいっそう引き立てている。
ミシェリアの気配に気づいた彼は顔を上げ、優しく微笑んだ。
「遅かったな。何をしてたんだ?」
「ええと……。」
ミシェリアは照れくさそうに、後ろに隠していたリボンをそっと差し出した。
「はい、これ。」
ヴィヴィアンは少し驚いた表情でリボンを見つめる。淡い銀色の布には、精巧に刺繍された彼のイニシャルが輝いていた。
「これは……。」
戸惑いを含んだ彼の瞳が、ゆっくりとミシェリアへ向けられる。その表情には、喜びと驚き、そして感動が入り混じっていた。
「明日の試合に……つけてくれる?」
彼の反応が気になって、心臓が落ち着かないほど跳ねている。こんな経験は、実際には初めてだった。
回帰前でもミリスクレベンが馬上試合に出たことは一度もなかったから、作ったことがない。
自分でも少し驚くほど、ミシェリアは胸が熱くなった。
「ミーシャ……。」
ヴィヴィアンがゆっくりと立ち上がり、優しく彼女を抱きしめる。包み込むようなその温もりと、心地よい彼の匂いに包まれて、ミシェリアの緊張がふっと解けた。
「……ありがとう。必ずつける。」
ヴィヴィアンの声が、静かに耳元で響く。彼の胸にそっと頬を寄せながら、ミシェリアは微笑んだ。
「人生で初めて贈ったわ。」
その言葉を聞いた途端、ヴィヴィアンの腕がギュッと強く彼女を抱き締める。彼がどれほど嬉しく思っているのか、身体中から伝わってきて、ミシェリアの心も温かくなった。
「……絶対優勝する。」
彼の声音には、強い決意と熱意が溢れていた。思わずクスッと笑いながら、ミシェリアは彼を見上げる。
「あっはは。ヴィヴィ、回帰前だってオーラを使わずにいつも優勝してたじゃない。」
「それでも、ミーシャに応援されて勝つのとは、また違う。」
ヴィヴィアンは柔らかく微笑んだかと思うと、次の瞬間、ミシェリアをベッドの上にそっと押し倒した。
「きゃっ……!」
戸惑う彼女の上に優しく覆いかぶさると、ヴィヴィアンは指先でミシェリアの頬を撫でながら、ゆっくりと唇を重ねた。
唇が触れ合うたびに甘い熱が胸を焦がし、心臓が跳ねる。吐息が絡み合い、何度も何度も優しく口付けられ、ミシェリアの意識がふわりと溶けそうになる。
(……ヴィヴィ……。)
彼の大きな手が指を絡めるようにそっと握り、手の甲に唇を落としていく。その丁寧な仕草に、彼女の胸がさらに高鳴った。
「ねぇ、ヴィヴィ……?」
彼の髪に指を絡ませながら小さく囁くと、ヴィヴィアンが目を細めて微笑んだ。
「どうした?」
「……明日、頑張ってね。」
優しく見上げて微笑むと、ヴィヴィアンは嬉しそうに頷き、再びミシェリアにキスを落としていった。




