5話目
ヴィヴィエンがふと、流れてくる音楽に気づいた。
――ダンスが始まる前の前奏。
彼は私の手をそっと掴み、ぐいっと引っ張る。
「えっ!? もしかして……ダンスを?」
驚いて問いかけると、彼は迷いなくコクリと頷いた。
(えええ!? もしかしてこれ、婚約成立の記念ダンスか何かですか!?)
――そんなことを考えながら、私は彼に引かれるまま会場へと戻る。
しかし。
今まで穏やかに微笑んでいたヴィヴィエンが、会場へ戻った途端に"恐い顔"になった。
「え……?」
(え、ちょっと待って!? さっきまでの微笑みはどこ行ったの!?)
静かに会場の中心へと歩き、人々の視線が集まる場所に来ると、彼は優雅に手を差し出し、礼儀正しくダンスを誘う仕草をした。
(……なにこのギャップ!!)
恐ろしいほど真剣な表情のまま、完璧な所作で私をダンスに誘う公爵。
何かが違う気がするけど、ここで断るわけにはいかない。
私はそっと手を取ると、自然にダンスの構えをとった。
ワルツの華やかな旋律が流れ始める。
ヴィヴィエンは私の腰に手を添え、流れるようなステップで舞踏を始めた。
軽やかなリズムに合わせ、私のドレスの裾がふわりと舞う。
……と、ここで突然気づいた。
(やばっ!! 私、名前教えてない!!)
婚約する相手なのに、まさかの自己紹介すらしていない。
名前も知らない相手に求婚状を送るつもりだったの!? それとも、冗談だった!?
考えれば考えるほど、疑問が膨らんでいく。
(もしかして……私、頭のおかしい子だと思われてる……?)
不安になってきた私は、踊りながら急いで名乗る。
「私! ミシェリア・ローベルク、ローベルク伯爵家の次女です!」
彼はちらりとこちらを見て、静かにコクリと頷いた。
それだけで、何の動揺もないまま、再び華麗にダンスを続ける。
(……名前も教えてないのに、どうやって求婚状を出すつもりだったのかしら。)
少し引っかかる。
もしかして、全部冗談だったりして……?
あまりにも唐突な展開に、私は疑いの目で彼を見つめる。
(まさか……頭のおかしい子が来たから、適当に合わせただけとか……!?)
すると、ヴィヴィエンの表情がさらに引き締まり、真剣な怖い顔になった。
(だから、どうして怖い顔なの!?)
思わず心の中で叫ぶ。
その時、ふと未来の彼を思い出した。
(そういえば……未来のヴィヴィエン、時々、眼鏡とかモノクルをかけていたような……?)
じっと彼の顔を見つめる。
今の彼は、眼鏡も何もかけていない。
もしかして――。
「……もしかして、少し目が悪いのですか?」
問いかけると、ヴィヴィエンは驚いた顔をした。
(あっ、当たった?)
彼は少し戸惑ったような様子を見せた後、コクリと頷いた。
(あぁ……それでか。)
合点がいった。
目が悪いせいで、遠くの表情がよく見えず、無意識に睨むような顔になってしまっているのかもしれない。
未来でも時々しかかけてなかったから、煩わしいのかしら。
(思い出せてよかった。)
ちょっとしたことだけど、彼のことを少し理解できた気がする。
1曲目が終わった。
これで解散……と思ったのに、ヴィヴィエンは手を離さなかった。
「……?」
まるで、次の曲を待っているかのように、彼は静かに構えている。
「まさか……次も?」
問いかけると、彼は当然のようにコクリと頷いた。
(えええ!?)
会場がざわめき始める。
2曲連続で踊るのは、特別な意味を持つことが多い。
次の曲が流れ始めた。
軽やかなワルツ。
ヴィヴィエンは難なくリードし、私は流れに身を任せる。
――しかし、周囲からヒソヒソとした声が聞こえてくる。
「えっ、2曲連続!?」
「しかも……大人顔負けの優雅さよ……!」
会場がざわつく中、さらに次の曲が流れ始めた。
華やかで軽やかなワルツから、恋人同士が踊るためのロマンティックなスローワルツへと切り替わる。
(これ、完全に恋人が踊るやつーーーー!!!)
頭の中で警鐘が鳴り響く。
ヴィヴィエンの手が、少しだけ強く私の腰に添えられる。
今までよりも距離が縮まり、互いの体温を感じるほどの近さ。
(近い、近い!!)
視線をあげると、彼は相変わらず真剣な表情で踊っている。
まるでこの空間に他の人がいないかのように、静かに、けれど確実に私をリードしていた。
だが、ふと気づく。
(あれ……ヴィヴィエン、汗かいてる……?)
彼の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
それでも彼は呼吸一つ乱さず、ひたすらワルツのリズムを刻んでいる。
そして――
(……ちょっと待って、私も汗かいてきたんだけど!?)
どう考えても、この連続ダンスは体力勝負だ。
見た目は優雅でも、実際にはかなりの運動量がある。
(え、これって……まさかスポーツ感覚で踊ってるの!?)
いや、ありえる。
ここまで踊れるなら、相当鍛えられているはずだし、王室騎士団に入るような未来の彼なら、運動としてダンスを嗜んでいてもおかしくない。
だとしても、今の私はただの16歳の小娘!!
これ以上の連続ダンスはかなりキツイんですけど!!
そして四曲目——
次に流れたのは、まさかの情熱的なタンゴに近いダンス。
(もう殺してください……!!!)
羞恥心の頂点を迎えながら、なんとか彼に合わせる。
――彼の動きは流れるように滑らかで、無駄がない。
片手を強く引かれ、もう片方の手がしなやかに翻る。
私のドレスの裾がふわりと舞い、視界に揺れる金糸のような髪が映る。
(もうこれ、完全に舞踏会の主役級じゃない!?)
この歳でここまで踊れる人は、まずいない。
私自身、前世の記憶と経験があるからなんとか合わせられているけれど、普通の16歳ができるレベルではない。
案の定、会場は完全にざわつき始めていた。
「……すごい、あの二人……!」
「令嬢と公爵が、まるで舞踏会の主役みたい……!」
「なんであんなに踊れるの……?」
ヒソヒソ声があちこちから聞こえてくる。
(目立ちすぎてるーーーー!!!)
これじゃあ別の意味で王子に見つかってるわ…。
(お願いだから、もう終わって!!)
やっとのことで四曲目が終わる。
(ふっ……元・王太子妃の私じゃなければ、ここまで踊れなかったわね……)
ほんの一瞬、妙な自信がよぎる。
(って、そんなこと考えてる場合じゃないわ!!)
足元はすでに限界に近い。
ドレスの裾は何度も翻り、私の体力もとうに尽きかけている。
(さすがに、これで終わるわよね……?)
そう思いながら、そっとヴィヴィエンの手を離そうとする。
――が。
ヴィヴィエンは、ゆっくりと袖で汗を拭い、まるでスポーツの後のような爽やかな表情を浮かべた。
そして――
手を離さなかった。
「……え?」
(いやいや、流石にもう終わりでしょ!?)
私の呼吸はすでに乱れ始めている。
体力的にも、精神的にも限界が近い。
それなのに、目の前の公爵は疲れの色ひとつ見せず、淡々と手を握り続けている。
「まさか……次も?」
恐る恐る聞くと、彼は当然のようにコクリと頷いた。
(えええええ!?!?)
次の曲が始まる。
そして――流れてきたのは、まさかの求愛のダンス。
(何これ~~~~!! どういう状況!?~~~~!?)
会場全体がざわめきに包まれる。
「え、これって……」
「求愛のダンスじゃない!?」
「まさか、もう婚約が決まってるとか!?」
そんな噂が一気に飛び交い始めた。
(誤解される~~~~!!)
でも、ここで踊りを止めるわけにはいかない。
相手は公爵。
しかも、どこまでも真剣な表情で踊り続ける彼を前に、私だけが逃げるわけにはいかない。
(いやでも、これ、どう考えても"そういう意味"にしか見えないでしょ!?)
求愛のダンスは、想いを伝えるために踊るもの。
特に、公の場で踊る場合、それは婚約や恋愛の意思を示す最も分かりやすい行動だ。
(私たち、まだ婚約の話をしたばっかりよね!?)
心の中でツッコミながらも、必死にステップを合わせる。
ヴィヴィエンは、少しだけ頬に汗を滲ませながら、それでも余裕のある動きでリードを続けていた。
(いや、これ……絶対、もう私以上に踊りたいだけでしょ!?)
私の心の中の叫びは、王宮の音楽にかき消されていくのだった――。