48話目
冷たい石壁に囲まれた薄暗い空間。
地下へと続く秘密の通路を通り抜け、ミシェリアは王城の禁書庫へと足を踏み入れた。
静寂の中、ランプの小さな灯火が揺れる。
無数の古びた本が並ぶこの場所には、王族や特別な許可を得た者しか入ることはできない。
けれど、元王太子妃ミシェリアは秘密の通路を覚えているの難なく侵入できた。
(調べなきゃ……。)
唇を噛み締めながら、本棚の間を歩く。
目的は一つ――ヴィヴィアンの呪いの正体を知ること。
そして、ヴィートヒートまで呪われている理由を解き明かすこと。
古びた装丁の本に指を伸ばそうとした、その時――
「アポを取れと言っただろう、ミーシャ。」
低く響く男の声。
――ドキッ。
振り返ると、通路の入り口に立っていたのはミリスクレベンだった。
濃い影の中に立つ彼は、相変わらず王族らしい気品を漂わせながら、静かにミシェリアを見つめている。
「……レヴィ。」
息をのむミシェリア。
どうしてここに?
「どうして……?」
「門番がお前を見かけたと言っていた。」
さらりと答えるミリスクレベン。
(……しまった。)
慌てていたせいで、王城の城門前を通ったところを見られていたらしい。
「ごめんなさい。でも、ラヴェルノワ家がおかしいのよ。」
「おかしい?」
ミリスクレベンの黒い瞳が細められる。
「弟も呪いにかかっていたのよ。」
その言葉に、彼はしばらく考え込むように沈黙した。
まるで何かを整理するように、手を顎に添えながら――やがて、低く言葉を紡ぐ。
「なら、ヴィヴィアン・ラヴェルノワとシェルクが……ラヴェルノワ公爵家の屋敷ごと生贄に使ったんだろうな。」
「屋敷ごと!?」
衝撃に目を見開くミシェリア。
(そんな……まさか……!)
確かに、それなら説明がつく。
ただの個人が行える回帰ではない。
これほどまでに大掛かりな回帰術を実行するには、膨大な対価が必要になるはず。
「どうして……そう思うの?」
震える声で問いかけると、ミリスクレベンは静かに答えた。
「君にまで記憶を残すとなると、何重もの禁術を使ったはずだ。相当な生贄が必要だっただろう。」
「なんですって!?」
愕然とするミシェリア。
(ヴィヴィアンと私の回帰のために……?)
「現に、ミーシャが死んだ後、俺の回帰前の世界ではラヴェルノワ公爵は末っ子のヴィーネストが16代目公爵だった。」
「……そんな……まさか……。」
ヴィーネストが公爵だった……?
(でも、ヴィーネストも記憶を持っている……。)
ぞわりと背筋が凍る。
すると――
「おっと、それ以上はダメだ。」
ミリスクレベンは、突然服をはだけさせた。
「っ!」
露わになった彼の肌には、禍々しい禁術の刻印が刻まれていた。
――だが、それはヴィヴィアンの体にあるものとは異なっていた。
「これは……。」
ミシェリアは息をのむ。
「俺も苦しみたくはない。」
ミリスクレベンの声が低く響く。
彼の指が、刻印の上をなぞる。
まるで、そこに刻まれた呪いの苦しみを思い出すかのように。
「だが、ラヴェルノワ公爵のことで言えることがあるとすれば……。」
再び視線が交差する。
「公爵かシェルクのどちらかが、それを実行したということだ。」
その言葉が、ミシェリアの心に重くのしかかった。
(ヴィヴィアン……それとも、シェルク……?)
脳裏でぐるぐると考えが巡る。
(どちらにせよ、私が知るべきことは――まだ何もわかっていない。)
「レヴィ……。」
ミシェリアは思わず、ミリスクレベンを見上げた。
彼の顔には、微かに苦痛の色が滲んでいた。
(彼もまた、何かを抱えている……。)
けれど、今のミシェリアにできることは――知ること。
「ありがとう、レヴィ。」
「……恩を売るつもりはない。」
ミリスクレベンは目を伏せながら、冷たく言い放つ。
しかし、その声にはどこか微かな迷いのようなものが混じっていた。
「ただ……シェルクは俺にとっても大事な息子だ。だから、閨を共に――」
「閨を……共に?」――低く、冷たい声が響いた。
ミシェリアの背筋が凍りつく。
ゆっくりと振り返ると、そこにはヴィヴィアンが立っていた。
扉の向こうから現れた彼は、まるで地獄の底から這い上がってきた魔王のようだった。
銀髪が揺れ、紫の瞳が冷たく光を帯びている。
何より、尋常ではないほど恐ろしい顔をしていた。
「ヴィヴィアン!?」
思わず名前を呼ぶが、彼の視線は氷のように冷たいままミリスクレベンを見据えている。
「王太子――どういうことか説明してもらおうか。」
「誤解だ!!公爵!!」
ミリスクレベンはすぐに否定したが、言葉が遅すぎた。
「ヴィヴィアン、違うの! 落ち着いて!」
ミシェリアが慌てて腕を伸ばそうとするが、その瞬間――。
「黙れ。」
ガシッ!
強く手首を掴まれる。
「っ――!」
驚いて見上げると、ヴィヴィアンの顔は怒りで歪んでいた。
(そんな……本当に誤解してる……!?)
必死に説明しようとするが、ヴィヴィアンは何も聞こうとはしなかった。
「ヴィヴィ! 私はただ――」
「――言い訳は聞かない。」
ヴィヴィアンはミシェリアの手首を引いた。
そのまま、強引に秘密の通路を歩き出す。
(っ……痛い……!)
彼の力はいつもよりも強く、まるで何かを抑え込もうとしているかのようだった。
「ヴィヴィ……! 待って……!」
訴えるように呼びかけるが、彼は無言のまま足を進める。
暗い通路の中で、ミシェリアはただ引きずられるように歩かされるしかなかった。
彼の手のひらはじっとりと汗ばんでいた。
それが、彼がただ怒りに任せて動いているわけではないことを示していた。
(まさか……怖がっているの?)
そう気づいた瞬間、ミシェリアの心は痛んだ。
(……そんなはずない。だって、ヴィヴィアンは……。)
だが、今の彼の様子は明らかに余裕を失っている。
怒りと、不安と、焦燥。
それらが渦巻き、彼を突き動かしているのがわかった。
(違うのよ、ヴィヴィアン……。)
必死に伝えたくても、ヴィヴィアンは一切振り返らなかった。
暗い通路を抜け、外の冷たい空気が肌を撫でる。
王城の外へと出ると、すでに夜の帳が降り始めていた。
しかし、ミシェリアが息を整える暇もなく――。
バタンッ!
馬車の扉が開かれ、乱暴に押し込まれるようにして中へ乗せられる。
「っ……ヴィヴィアン!」
ようやく彼の手が離れた。
その間も、彼は一言も発さず、ただ扉を強く閉じると、自らも馬車の中へと乗り込む。
――ゴトリ。
車輪が軋みながら、ゆっくりと動き出した。
車内は異様なほど静かだった。
ヴィヴィアンは向かいの席に深く腰掛け、腕を組んでミシェリアを睨むように見つめている。
その瞳は紫の炎を宿し、夜の闇よりもなお深い激情を秘めていた。
しかし、ミシェリアは一歩も引かず、その視線を真っ向から受け止めた。
「私が王太子と閨を共にするなんてありえないこと、ヴィヴィアンもわかっているでしょ?」
静かな声だった。
けれど、その中には確固たる信念が宿っている。
神殿で結ばれた二人は、たとえ他の男性と閨を共にしようとしても、とてつもなく強い神の力によって阻まれる。
それがどんなものなのか、詳しく知る術はないが――不可能だということだけは確かなのだ。
「……。」
ヴィヴィアンは黙ったまま、じっとミシェリアを見つめていた。
それでも、怒りの気配は微塵も薄れることはない。
(分かっているはずよ。ヴィヴィアンだって……。)
けれど、彼はただ黙ったまま。
その頑なな沈黙が、まるで自らの怒りに蓋をしているようにも見えた。
「ちょっと冷静になれば、私がどうしてあそこへ行ったかわかるでしょ?」
できる限り穏やかな声で言う。
しかし――
「喋るな。」
ヴィヴィアンの声が低く響いた。
その声音には、どこか歪んだものが混じっている。
理性と衝動の狭間で揺れ動く、危うい激情――。
「でも!!」
ミシェリアがさらに言葉を続けようとした瞬間――。
――強引に、唇を塞がれた。
「んっ――!!」
驚きの声すら奪われるほどの、強いキス。
圧倒的な力で唇を押しつけられ、彼女の身体が一気に熱を帯びる。
ヴィヴィアンの指が、すぐにミシェリアの両手を捕らえた。
まるで彼女の抵抗を封じるかのように、手首を押さえつける。
「ん……ぅ……っ!!」
逃げようとしても、逃げられない。
馬車の狭い空間では、彼の力から逃れることは不可能だった。
(ヴィヴィアン……!)
彼の唇がさらに深く重なり、息もできないほどに支配的に絡みついてくる。
貪るような口づけだった。
言葉を奪い、理性を奪い、すべてを自分のものにしようとするような……。
「っ……!」
ミシェリアは必死に動こうとしたが、彼の腕はまるで鉄の鎖のように彼女を絡め取る。
握られた手首が微かに痺れるほど、力が込められていた。
(……苦しい……!)
胸が高鳴る。
けれど、それは単なる恐怖ではなかった。
ヴィヴィアンの熱が、彼の唇が、そして彼の執着が、すべて彼女を包み込んでいた。
「……んっ……ふ……ぅ……。」
どれほどの時間が経ったのだろうか。
ようやく、彼は唇を離した。
「……これ以上、何も言うな。」
紫の瞳が、熱を帯びてミシェリアを射抜いていた。
(――執着。)
その目には、怒りと嫉妬、そして絶望に近い何かが浮かんでいる。
彼はまだ、恐れているのだ。
自分を失うことを。
ミリスクレベンに奪われることを。
「……ヴィヴィアン……。」
彼女が名前を呼ぶと、彼はまたぐっと手に力を込めた。
そのまま、しばらく目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。
「……頼むから、俺の前で他の男の話をするな。」
低く、苦しげな囁きだった。




