39話目
着替えを終えたミシェリアは、メイドに案内され、衣装ルームの隣の部屋へと足を踏み入れた。
扉が開かれると、そこには広々とした優雅な空間が広がっていた。
「こちらが、若奥様のお部屋になります。」
メイドの言葉に、ミシェリアは思わず足を止める。
「……え? 私の部屋なんてあるの?」
驚いて振り返ると、メイドは当然のことのように微笑んだ。
「もちろんでございます。」
改めて部屋を見渡してみると――。
そこに広がるのは、まさにミシェリアの理想そのものだった。
壁紙は、柔らかな淡い黄色。
床には、上質な手織りの絨毯が敷かれ、ふわりとした感触が足元を包み込む。
家具もすべて、繊細な装飾が施された高級品ばかりで、しかしどれも華美すぎず、ミシェリアの好みにぴったりだった。
(……そうそう、こういう部屋に住みたかったのよね。)
心が弾む。
王太子妃だった頃の自室は、格式ばかり重んじた豪奢な赤い調度品で埋め尽くされていて、まるで"威厳を示すための部屋"だった。
"心安らぐ空間"とは程遠い、冷たく、居心地の悪い部屋。
それに比べて、この部屋は――。
ミシェリアは思わず微笑み、感動しながら部屋を歩き回った。
まるで幼い頃、憧れのドレスを初めて着たときのような気持ちだった。
だが――。
「……ん?」
ふと、何か足りないことに気付いた。
「ベッドは?」
部屋を見渡してみても、それらしい家具がない。
まさかと思い、メイドに尋ねると、彼女は優雅に微笑みながら答えた。
「寝室は、別にございます。」
「……そっか。」
納得したものの、少し肩をすくめた。
公爵家ともなれば、夫婦といえどそれぞれに寝室を持つのが普通だ。
伯爵家の自室と寝室が一緒だったことに慣れていたミシェリアには、なんとなく違和感がある。
(まぁ……そういうものよね。)
すると、メイドが優しく声をかけてきた。
「若旦那様のお風呂が終わるまで、どうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ。」
「はーい。」
ミシェリアは軽く手を振って答えると、再び部屋を見渡し、楽しげに歩き回った。
特に目を引いたのは、本棚だった。
並べられた本の背表紙を指でなぞると、ふと目に留まるものがあった。
それは――実家の自室に置いていた本と、まったく同じもの。
「……!」
思わず息をのんだ。
それだけではない。
棚を見渡すと、これまで読んでいた本の続編まで揃えられている。
「え、これ全部……私の?」
衝撃と感動が一度に押し寄せてくる。
(……ヴィヴィアンったら。)
どれほど、ミシェリアの好みを研究したのか。
どれだけ、彼女を"心地よく過ごさせるか"を考えたのか。
(どれだけ必死なのよ……。)
彼の想いの深さに、思わず胸が熱くなる。
(……結婚生活、悪くなさそうかも。)
少し照れくさくなりながら、ミシェリアはそっと本を手に取り、ページをめくった。
◇◆◇◆◇
しばらくして――。
コンコン。
扉をノックする音が響いた。
「どうぞ。」
ミシェリアが応じると、扉が開かれ、そこに立っていたのはヴィヴィアンだった。
「気に入ってもらえたか?」
静かな微笑みとともに、ヴィヴィアンが尋ねる。
ミシェリアは、一度部屋をぐるりと見渡し、そしてヴィヴィアンの方へ振り返った。
「気に入るどころか……最高よ。」
心からの言葉だった。
それを聞いたヴィヴィアンの瞳が、微かに優しく揺れる。
次の瞬間、彼はミシェリアの手を取り、ゆっくりと持ち上げると――。
そっと、手の甲に唇を落とした。
「それは何よりだ。」
静かに囁く声音は、まるで絹のように優雅で――しかし、どこか熱を帯びていた。
慣れた仕草に少し照れながらも、ミシェリアは微笑んだ。
「夕食を一緒にどうだ?」
ヴィヴィアンの誘いに、ミシェリアは小さく頷く。
「えぇ、ぜひ。」
彼がエスコートする腕に手を添え、共に歩き出した。
◇◆◇◆◇
食堂に到着すると、 すでにテーブルには上質な料理が並べられ、心地よい燭光が揺らめいていた。
ヴィヴィアンは慣れた感じで椅子を引き、ミシェリアが席に着くのを、エスコートする。
「ありがとう。」
軽く微笑みながら腰を落ち着けると、ふと、先ほどまでのことが頭をよぎった。
「……お風呂、ずいぶん長かったわね。」
くすりと笑いながら、からかうように言う。
すると――ヴィヴィアンの指先が一瞬だけピクリと動いた。
そして、彼はほんのわずかに目を伏せると、 完璧な余裕の笑み を浮かべた。
「……必要な時間が、少々かかってしまってな。」
その言葉には、どこまでも気品がありながらも、微かに含みのある響きが混じっていた。
ミシェリアは、一瞬きょとんとしたが――次の瞬間、 はっ として彼の言葉の真意を察した。
(……あぁ、なるほどね。)
ヴィヴィアンの 紳士的な余裕 に、妙な敗北感を覚えつつも、ミシェリアは軽くため息をついた。
(ヴィヴィアンったら、本当にずるいわ……。)
けれど――。
そんな彼の大人びた振る舞いが、どうしようもなく愛おしく思えてしまうのだから、困ったものだった。
ヴィヴィアンも席につき、ゆったりとした動作でナプキンを広げる。
「食事にしよう。」
彼の穏やかな声音が響くと、銀のカトラリーが静かに揃えられた。
テーブルには温かいスープと焼きたてのパン、香ばしく焼かれた肉料理に、見た目にも美しい副菜が並べられている。
一口、スープをすくって口に運ぶ。
――その瞬間、ミシェリアは思わずスプーンを止めた。
(この味……。)
どこかで味わったことがある気がする。
ゆっくりと記憶を手繰ると、ふと 街はずれのレストラン で食べた料理のことを思い出した。
あのとき、ヴィヴィアンに連れて行かれた店。
素朴ながらも、深みのある味わいが忘れられず、もう一度食べたいと思っていた料理だった。
「……ヴィヴィ、まさか買収したの?」
じっと彼の顔を見つめる。
すると、ヴィヴィアンは まるで当然のことのように頷いた。
「あぁ。」
「…………全くもう。」
(本当にこの人ったら……!)
呆れたように眉をひそめるも、その内心はどうしようもなく温かい。
ミシェリアの心が読めるかのように、さりげなく"好きなもの"を揃えてしまう。
(そんなことされたら、余計にここを離れたくなくなっちゃうじゃない……。)
「それで?」
ゆっくりとナイフを手に取るヴィヴィアンが、切り分けた肉をフォークで口に運びながら言う。
「ミーシャがこの家にいる時間が、たった1秒でも長くなるのなら、それでいいと思って…。」
――その声音は、いつになく低く、甘やかだった。
一瞬、心臓が跳ねる。
(ずるい……。)
静かにフォークを握りながら、視線を落とす。
そんなに堂々と、さらりと、そういうことを言われると―― こちらの心が追いつかない。
「ずるいわ……。」
そう小さく呟きながら、ミシェリアはナプキンをそっと握りしめた。
彼の思いが、じわりと胸の奥に染み込んでいく。
(……この人は、本当にずるい。)
だが、それでも―― この温もりから離れたくないと思ってしまう自分がいるのだった。




