38話目
ラヴェルノワ公爵家の馬車は、滑らかに王都の石畳を進んでいた。
窓の外には、馴染みのあるローベルク伯爵家の屋敷が見えてきている。
だというのに――。
ミシェリアは内心、怒っていた。
(全くもう……どれだけ唇を食べれば気が済むのよ。)
唇がほんのり腫れて、まだ少しヒリヒリする。
鏡を見なくても分かるくらい、確実に熱を持っていた。
ふと隣を見ると、ヴィヴィアンは少し虚ろな目で窓の外を眺めている。
その横顔は、どこか満ち足りているようで、けれどもまだ心を乱していることが分かった。
禁書庫でミリスクレベンと密談していたことが、彼の中で消化しきれていないのだろう。
何も言わないけれど、その静かな瞳が何よりも雄弁だった。
「ヴィヴィ。」
呼びかけると、ヴィヴィアンはゆっくりとこちらを向いた。
「少し、待ってて。」
「……?」
彼は不思議そうに眉をひそめる。
「一週間ほど、あなたの家に泊まることにするわ。」
そう言うと、彼の瞳がわずかに見開かれる。
「だから、帰らずにここで待ってて。荷物を取ってくるから。」
次の瞬間――。
ぎゅっ。
「ちょっと、荷物を取りに行けないでしょ?」
突然、強く抱きしめられてしまった。
驚きで目を瞬かせる。
けれど、ヴィヴィアンの腕の力は、いつもよりもずっと強くて――
そこには、感謝の気持ちが込められていることがはっきりと伝わってきた。
(もう……ほんとに、素直じゃないんだから。)
「……行ってくるわね。」
そっと彼の腕をほどいて、ミシェリアは伯爵家の屋敷へと足を踏み入れた。
◆◇◆◇◆
やっと解放されたミシェリアは、ふらふらとしながら部屋へ戻る。
(もう……。力強く抱きしめすぎなのよ……。)
思わず肩を回しながら、荷物をまとめ始めた。
滞在するのは一週間。
あまり大荷物にならないように必要最低限のものだけを詰める。
(……でも、なんでだろう。)
自分から「泊まる」と言ったはずなのに、荷物をまとめる手がどこか弾んでいるような気がした。
(私はもう、ヴィヴィアンと一緒に過ごすことに慣れてしまったのかしら。)
そんなことを考えながら、支度を整え、階下へ降りる。
そして、両親に向かってきっぱりと宣言した。
「お父様、しばらくラヴェルノワ公爵家に泊まってきます。」
「そうか。好きにしなさい。」
父は相変わらず、細かいことには口を出さない。
しかし――。
母は、なぜかじっとミシェリアを見つめ、こっそりと耳打ちしてきた。
「ミーシャ、結婚式前に子供ができたら大変だから、避妊はするのよ?」
「……!?」
(な、何を言ってるの、この人!!)
「わ、わかってる!」
思わず顔が真っ赤に染まる。
けれど、ふと気づいた。
(……さっきのキスのせいで、私、乱れまくってたってこと!?)
頬がカッと熱くなる。
無意識に口元に手をやると、さっきまでの激しいキスの余韻が蘇り、さらに顔が火照った。
(……もう!!ヴィヴィアンのせいよ!!)
とんでもないことを言われ、内心で叫びながらも、ミシェリアは荷物を持って足早に屋敷を後にした。
◇◆◇◆◇
ローベルク伯爵家の敷地を出て、ミシェリアはラヴェルノワ公爵家の馬車へと乗り込んだ。
待っていたヴィヴィアンは、彼女が戻るとすぐに視線を向ける。
「ご両親は大丈夫だったか?」
「ええ。特に問題はなかったわ。」
そう答えたものの、ミシェリアは一瞬ためらった。
……いや、やっぱり言っておこう。
「ただ、一つだけ言われたことがあるの。」
「……なんだ?」
彼が軽く眉をひそめる。
ミシェリアは、わざと何気ない口調で言った。
「避妊しろって。」
ブッ!!
その瞬間、ヴィヴィアンの動きが止まる。
「…………っ!!」
カァッ!!と一気に顔が真っ赤に染まった。
視線が揺れ、何かを誤魔化すように咳払いをする。
そして、さりげなく片手を動かし、何故かコートの裾を整える。
「……そ、そうか。………気を付ける。」
ようやく口を開いたヴィヴィアンの声は、いつもよりもほんの少し低く、かすれ気味だった。
(ふふ……可愛い。)
ミシェリアは、思わず彼をからかいたくなった。
「言われなかったら、気を付けないつもりだったの?」
ヴィヴィアンはギクリとしたように肩をこわばらせる。
「いや、そういうわけでは……。」
視線を逸らし、微妙に頬を染めながら言い訳をする彼が、なんだか無性に面白い。
さらに、もう一歩攻めてみることにした。
「じゃあ、今日は一緒のベッドで寝てみる?」
ピクッ。
ヴィヴィアンの体がわずかに反応した。
「おい……。」
低く絞り出すような声で、彼はミシェリアを睨む。
けれど、その瞳の奥には抑えきれない嬉しさと、ほんの少しの焦りが滲んでいた。
(やっぱり、可愛い。)
ミシェリアは心の中でくすっと笑う。
その間にも、ヴィヴィアンは明らかに落ち着かなくなり、またしてもコートの裾をさりげなく引き寄せるように手を動かした。まるで何かを隠すように……。
彼は軽く息を整え、困ったように目を伏せる。
「からかうな……。」
「ふふっ、なんで?」
「これでも、色々……耐えてるんだ。」
そう言ったヴィヴィアンの表情は、少しだけ拗ねたようにも見えた。
(耐えてる?)
思わず笑いそうになるのをこらえながら、ミシェリアはそっと彼の手を握り返した。
「……もう少し、耐えてもらうわね?」
甘く、じれったい距離のまま、二人を乗せた馬車は静かに進んでいった。
◇◆◇◆◇
ラヴェルノワ公爵邸の馬車がゆっくりと門をくぐると、執事や使用人たちが一斉に玄関先へと並び、若旦那様と若奥様の帰宅を出迎えた。
馬車が停まり、扉が開くと、先に降りたのはヴィヴィアンだった。
しかし、彼はまっすぐ屋敷の中へ入るわけではなく、使用人たちに一言、命じた。
「ミシェリアに着替えを。」
すると、執事がすぐさま一歩前に出て、恭しく頭を下げる。
「かしこまりました。それでは、若旦那様のご支度も――」
「俺はシャワーを浴びる。水にしてくれ。」
その瞬間、屋敷にいた使用人たちが一瞬固まった。
「……水で、ございますか?」
執事が戸惑いの色を滲ませながら確認する。
普段のヴィヴィアンなら、熱すぎず冷たすぎず、絶妙な温度に調整された湯を好む。
それなのに、まさかの"水"指定。
明らかにおかしい。
「……ええと、若旦那様?」
「水だ。」
ヴィヴィアンは一言だけ返し、さっさと屋敷の奥へと消えていった。
取り残された執事と使用人たちは、驚きと混乱の表情で顔を見合わせる。
「若旦那様が……水のシャワーを……?」
「……何か、よほどのことが……?」
「もしかして……若奥様と何か……?」
使用人たちはひそひそと囁き合ったが、そんな彼らをよそに、当のミシェリアは――。
「くすっ……」
思わず、口元を押さえながら笑ってしまっていた。
(あらあら……そんなに必死にならなくてもいいのに。)
馬車の中でのやり取りを思い出すと、どうしても可笑しくなってしまう。
からかいすぎたかしら……なんて少し思いつつも、彼の焦った顔を思い返すと、また笑いが込み上げてくる。
そんなミシェリアを見ていたメイドの一人が、優しく声をかける。
「若奥様、こちらへ。」
そう言いながら、メイドは慣れた手つきでミシェリアの腕を取ると、屋敷の奥へと案内する。
ミシェリアは軽く息を吐きながら、ちらりと後ろを振り返る。
おそらく浴室へ向かったであろうヴィヴィアンの姿は、もう見えない。
彼の必死さを思い浮かべながら、ミシェリアは微笑みを浮かべたまま、衣装ルームへと足を踏み入れた。




