35話目
珍しく、食卓には柔らかな笑い声が広がっている。
穏やかな朝の空気の中、銀の食器が優雅に触れ合い、湯気の立つ紅茶の香りが食堂を包んでいた。
ミシェリアは、フォークを手にしながら、ちらりと食卓を見渡す。
普段は静かに食事を楽しむことが多いこの家の朝食だが、今日は妙に和やかで、誰もが機嫌が良さそうだった。
特に、母と姉のシェリルアは、普段よりも楽しげに会話を弾ませている。
その様子に違和感を覚えたミシェリアは、隣に座る母へと小声で尋ねた。
「……何かあったの?」
母は上機嫌な笑みを浮かべながら、ナプキンをそっと口元に当てると、小さく頷く。
「今朝、ヴィニーから手紙が届いてね。シェリーったら、それを読んでずっとご機嫌なのよ。」
「ヴィニーから?」
ミシェリアは、反射的に姉の方へ視線を向ける。
すると、姉のシェリルアは手元の封書を大切そうに持ちながら、楽しげに紅茶を口にしていた。
「ほら、お父さまもご覧なさいな。事業の相談をしていたでしょう? それに対する返答が届いて、すっかり上機嫌なのよ。」
母が視線を向ける先では、父のシェトランド伯爵も珍しく楽しげな表情を浮かべていた。
普段、食事中はあまり口を挟まない彼が、新聞を置き、姉の話にしっかり耳を傾けている。
「なるほど……そりゃあ、良かったわね。」
ミシェリアは、小さく微笑みながらも、心の奥ではまったく別の思いが渦巻いていた。
――私にとっては、それどころじゃないのに。
確かに家族が楽しそうなのはいいことだ。
けれど、ミシェリア自身の心は、それとは裏腹にどこか落ち着かず、胸の奥がじわじわと重くなっていくのを感じていた。
思い浮かぶのは、数日前に見たヴィヴィアンの姿だった。
彼の白い肌に浮かび上がっていた不可解な刻印。
婚姻を果たしたことで呪いが解けたはずなのに、彼の体にはまだ何かが刻まれていた。
(結婚がゴールだったんじゃないの?)
ミシェリアは、ずっとそう思っていた。
王太子との因縁を断ち切り、ヴィヴィアンと正式に夫婦となったことで、すべてが終わったはずだったのに――。
(それとも、まだ何か隠されているの?)
考えれば考えるほど、心の奥で不安が膨らんでいく。
ヴィヴィアンは何かを隠している。けれどそれは言えない。
それが確信へと変わっていくにつれ、ミシェリアはいてもたってもいられなくなった。
このまま黙って見過ごすわけにはいかない。
(……直接、確かめるしかないわ。)
静かに決意を固めると、ミシェリアはそっとフォークを置いた。
紅茶を最後に一口含み、微笑を浮かべながら優雅にナプキンで口元を拭う。
(誰にも悟られないように――。)
そう心の中で念じながら、彼女は食事を終えた。
家族の談笑が続く中、いつもと変わらぬ仕草で椅子を引き、静かに立ち上がる。
「ごちそうさまでした。」
努めて平静を装いながら、一礼して食堂を後にした。
ミシェリアは足早に廊下を進む。
絨毯が敷かれた床は足音を吸収し、彼女の動きを静かに隠してくれる。
すぐに侍女たちの目を盗み、自室へ向かった。
(身軽な格好に着替えなくちゃ。)
大きなスカートでは動きづらい。
そう判断したミシェリアは、袖を通しやすいシンプルなドレスに着替え、髪をゆるくまとめる。
大貴族の令嬢にしては簡素な身なり――しかし、目的を果たすためには最適だった。
鏡の前で最後に身だしなみを確認し、深く息を吸う。
(準備は完璧。)
――こっそり王城へ行く。
それが今日の目的だった。
◇◆◇◆◇
ミシェリアは屋敷の裏口へと向かった。
正面から出れば、当然護衛に気づかれる。
使用人たちの動きにも注意を払いながら、裏庭へ続く廊下を慎重に進む。
普段は貴族の娘が通る場所ではないが、ここを利用すれば目立たずに屋敷を抜けられる。
(静かに……落ち着いて。)
胸の鼓動がわずかに高鳴る。
見つかれば、すぐに父や姉に報告がいく。
そうなれば、計画は台無しだ。
ドアノブをゆっくりと回す。
錆びた蝶番がわずかに軋む音を立てたが、幸い誰も気づく様子はない。
そっと外へ出ると、冷たい朝の風が頬を撫でた。
敷地内の庭は手入れが行き届いており、花々が穏やかに揺れている。
――そして、その向こうには門が見える。
ミシェリアは、一度だけ周囲を見回した。
屋敷の護衛が数人、門の近くに立っているのが確認できる。
(……これくらいなら、撒けるわね。)
心の中で小さく呟くと、彼女はまっすぐ歩き出した。
自然な動作を心掛けながら、ゆっくりと庭の奥へ向かう。
気配を悟られないように、遠回りしながら門の近くへと移動していく。
(大丈夫、焦らずに。)
しかし、門に近づいた瞬間――護衛の一人がこちらに視線を向けた。
(まずいわね。)
ミシェリアは、軽くドレスの裾を持ち上げた。
――次の瞬間。
彼女は一気に駆け出した。
「お嬢様!?!?」
護衛の驚いた声が響く。
しかし、ミシェリアは振り向かない。
全速力で庭を横切り、狭い路地へと飛び込む。
(追いつかせるわけにはいかないわ!)
背後で、護衛たちの足音が響く。
だが、この屋敷で育ったミシェリアにとって、この道は熟知した庭のようなもの。
すばやく身を翻しながら、木々の間を駆け抜ける。
庭を抜け、市場へと繋がる裏道へ滑り込むと――一気に雑踏の中へ紛れ込んだ。
「くっ……!」
遠くで護衛の声が聞こえるが、この人混みでは彼らも追跡は難しい。
市場の活気に包まれながら、ミシェリアは慎重に足を進めた。
行商人の呼び声、馬車の車輪の音、人々のざわめきが響く。
(上手く撒けたみたいね。)
ようやく安心すると、彼女は大通りの外れにある馬宿へと向かった。
扉を開けると、馬を扱う男が目を上げる。
「お嬢さん、一人でどうしたんだい?」
「馬を借りたいの。」
男は驚いたように眉を上げたが、ミシェリアの気迫を感じたのか、すぐに馬を引いてきた。
「代金は?」
「後でローベルク伯爵家に請求して。」
堂々とした口調で告げると、男は肩をすくめながら手綱を渡した。
ミシェリアは馬の背に軽やかに飛び乗る。
風に吹かれながら、手綱を握りしめた。
――向かうのは、王城。
誰にも邪魔されず、真実に辿り着くために――。
(追手はもう振り切った……。)
背後をちらりと振り返る。
護衛たちの姿は見えない。
だが、安心するのはまだ早い。
慎重に進む必要がある。
ミシェリアは城の外壁沿いに馬を走らせ、やがて一つの古びた扉の前で馬を止めた。
王族だけが知る、秘密の通路。
(――久しぶりね。)
深く息を吸い、扉に手をかける。
冷たい鉄の取っ手が、かすかに震える指に馴染んだ。
軋む音を立てながら扉が開く。
中はひんやりと湿った空気に満ちていた。
王城の誰もが知ることのない、闇に沈んだ通路。
ミシェリアは素早く通路へと滑り込み、そっと扉を閉める。
灯りのない狭い石壁の間を、彼女は慎重に進んでいく。
足音すら響かせまいと、かかとの低い靴を履いてきたのは正解だった。
薄暗い廊下の奥へ進むたびに、過去の記憶が蘇る。
(――何度も通った場所。)
王太子妃として過ごしていた頃、王宮の陰で行われる密談や、決して表には出せない事柄を知るために足を踏み入れたこの場所。
秘密を知るということは、同時に命を危険に晒すということだった。
だからこそ、ここへ来るたびに張り詰めるような緊張感があった。
(ヴィヴィアンの刻印……あれが何なのかを知るために。)
彼の体に刻まれていた、あの不気味な模様。
結婚によって呪いが解けたはずなのに、なぜまだ何かを抱えているのか。
何かが隠されている。
ミシェリアの心は焦燥に駆られるが、それでも足を止めることはなかった。




