33話目
昼下がりの柔らかな陽光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
ここはラヴェルノワ公爵家の主の私室。
扉を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、整然と並ぶ本棚と、積み重ねられた書類の山。
公爵としての職務の多さが窺えるが、不思議と乱雑さはなく、一冊一冊が計算されたように配置されている。
しかし、何よりも目を引いたのは――。
(……あれ、私の絵姿?)
壁際の棚に、彼女の肖像画がいくつか飾られていた。
それは公式のものではなく、彼が個人的に持っているもののようだった。
(……まさか、こんなに飾ってるなんて……。)
ミシェリアは少し頬を赤らめながら、ソファへと腰を下ろした。
今日、ここに来たのには理由があった。
それは、ヴィーネストが突然ラヴェルノワ領地へと帰ってしまい、ローベルク伯爵家の屋敷がどこか寂しくなってしまったからだった。
家族の誰もが彼の無邪気さに慣れ切っており、彼のいない食卓は静かすぎるほどだった。
(だから、なんとかして連れ戻せないかと思って……。)
そう考えているうちに、メイドが入れてくれた紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。
目の前の小皿には、見慣れた大好物の焼き菓子がのっていた。
「……ん~、やっぱり美味しい……。」
もぐもぐと口いっぱいに頬張りながら、ミシェリアは幸せそうに目を細める。
(意地を張らずに、さっさと結婚してこの家に住んでしまった方が楽なんじゃ……。)
そんな考えがよぎるものの、すぐに頭を振って打ち消す。
その時――。
廊下から、慌ただしく駆ける足音が聞こえた。
(やばっ!)
ミシェリアは思わず姿勢を正し、ササッと口を拭うと紅茶をすする。
バンッ!!
「――ッ!!」
突然、勢いよく扉が開かれた。
そこに立っていたのは、普段とは違い、ラフな服装のヴィヴィアンだった。
上質な生地のシャツに、動きやすそうなズボン。
堅苦しい公爵の装いとは違い、まるで休日モードのような姿だ。
(……え、なんか……すごく新鮮。)
軽く乱れた銀髪が、いつもより無防備な印象を与えていた。
「……えっと、お邪魔してるわ。」
ミシェリアが挨拶をすると、ヴィヴィアンは一瞬、戸惑ったような顔をしてから小さく咳払いをした。
「……いえ……。」
(あれ?何か様子が変?)
ヴィヴィアンは、ちらりと部屋の隅を見やると、さらに顔を赤くした。
ミシェリアはその視線を追って――気づいた。
(あっ……もしかして、あの飾られてる私の絵姿が恥ずかしいの!?)
彼の耳まで赤く染まっているのを見て、ミシェリアは思わず口元を押さえた。
(可愛い……。)
くすりと笑いそうになるのを必死にこらえながら、本題に入る。
「ねぇ、ヴィーネストが突然領地に帰るって言って、一週間も戻ってこないのよ。家の中が暗くなっちゃって。何か知らない?」
「……確か、騎士訓練を受けているはずだ。突然言い渡した。」
「騎士訓練?」
驚きが隠せず、思わず聞き返す。
「ヴィーネストが……? うそ、想像つかないわ。」
「だろうな。」
ヴィヴィアンは肩をすくめる。
「あいつは家でも、本を読むか菓子を食うかしかしていなかった。」
「……あぁ、それはわかるわ。」
想像すると、なんだか微笑ましくて、二人はふっと笑い合った。
一瞬、心地よい沈黙が流れる。
しかし――その空気を破ったのは、ヴィヴィアンの低く甘い声だった。
「……そんなことより……。」
次の瞬間、彼はミシェリアの隣に腰を下ろし、さらりと肩に手を回す。
「男の部屋に来ていて、ただで済むとでも?」
「――!?」
びくっと肩を震わせたミシェリアは、反射的に立ち上がろうとした。
しかし――。
「あっ――!」
足元がぐらつき、バランスを崩す。
次の瞬間、ミシェリアはヴィヴィアンの胸に倒れ込んだ。
(やば……!)
驚きながらも、何とか体勢を立て直そうとした、その時――。
ビリッ。
「……あ。」
静寂が落ちる。
ミシェリアは、はっとして目を瞬かせた。
目の前のヴィヴィアンの服が――無惨にも破けていた。
露わになったのは、引き締まった白い肌と、しなやかな筋肉。
しかし、それ以上にミシェリアの目を引いたのは――。
(なにこれ!?)
彼の肌に刻まれた、おぞましい刻印。
まるで呪詛のような、それでいて何かを封印するかのような、不気味な模様が彼の体に張り付いている。
「うぇぇ!? 何これ!?」
思わず声を上げながら、好奇心のままにさらに破れた部分を広げてしまう。
「お、おい……。」
ヴィヴィアンの困惑した低い声が、静かな室内に響いた。
ミシェリアは、破れた服の隙間から見えた不気味な刻印を凝視する。
「あなた……まだ何か抱えてるの?」
驚きと疑念が入り混じった声が、自然と口をついた。
ヴィヴィアンは何かを言いかけ、視線を逸らす。
「いや……これは――」
その瞬間だった。
ゴフッ――!!
「ヴィヴィアン!?」
彼の喉から、真っ赤な血が溢れた。
鼻血とともに、吐血。
口元から滴る鮮血が、静寂の室内に鮮烈な赤を刻む。
「あっ!!」
ミシェリアは咄嗟に手を伸ばし、テーブルに置かれていたナプキンを掴むと、彼の口元に押し当てた。
背中を優しくさすりながら、必死に呼びかける。
「大丈夫!? ヴィヴィアン、しっかりして!」
ヴィヴィアンの呼吸は乱れ、苦しげに肩が上下する。
その瞳は微かに潤み、どこか痛みに耐えているようだった。
「ごめんなさい……もう聞かないわ。」
そう言いながら、ミシェリアは背中を撫で続けた。
少しでも楽になってほしい――そんな想いを込めて。
だが、ヴィヴィアンは相変わらず息苦しそうにしていた。
そこへ、廊下の奥から急ぎ足の音が響く。
「若奥様!」
扉が開かれ、メイドが息を切らせながら駆け込んできた。
その背後には、年配の医師――ラヴェルノワ公爵家の主治医である老人の姿があった。
「すぐに診察を……。」
ミシェリアはヴィヴィアンの肩を支えながら、医師に席を譲る。
医師は慣れた手つきで彼の脈を取り、喉の状態を診察した。
ヴィヴィアンは相変わらず苦しげだったが、時間が経つにつれて少しずつ呼吸が落ち着いていく。
「……どうやら、細かい血管がいくつか切れているようだな。」
医師は厳かに言った。
「呪いによる影響であることは間違いない。しかし、すぐに命に関わるものではないだろう。安静にすれば、少しずつ落ち着いてくるはずだ。」
ミシェリアは胸を撫で下ろした。
(……まだ、制約が完全には解けていなかったのね。)
それで結婚を急いでいたのかもしれない――ふと、そんな考えがよぎる。
だが、それを確かめるには、彼に直接尋ねるしかない。
「ヴィヴィアン……苦しいかもしれないけど、一つだけ答えて。」
ヴィヴィアンは、息を整えながら顔を上げる。
「……それは、急を要するものなの?」
彼は、しばらく考えたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「……っ!!」
ブチッ――。
またしても、微細な血管が切れた音がした。
鼻血が再び流れ、医師が素早く布を取り出して拭き取る。
「安静に。」
医師の言葉に、ヴィヴィアンは力なく頷いた。
ミシェリアは、彼の様子を見ながら、心の中で静かに安堵する。
(良かった……。)
もし、彼が命の危機に瀕しているのなら、今すぐ何か策を講じなければならなかった。
でも、そうではない。
(つまり、結婚を急いだのは、ただヴィヴィアンが早く一緒に住みたかったからみたいね…。良かった。)
◇◆◇◆◇
しばらくして、ようやくヴィヴィアンの呼吸が落ち着いた。
医師も「ひとまず大丈夫でしょう」と言い残し、ミシェリアとヴィヴィアンの二人きりになる。
だが――。
部屋の中には、血のついたナプキンや、彼の服の裂けた部分が散乱していた。
二人とも、衣服に血の跡がついてしまっており、ひどい有様だった。
「すまない……色々と……服を……ダメにしてしまったな……。」
ヴィヴィアンが、申し訳なさそうに言う。
ミシェリアは、そんな彼を見て、ふっと微笑んだ。
「ううん。いいの。」
ヴィヴィアンがふと呟く。
「着替えるか……。」
すると、そばに控えていたメイドが恭しく一礼し、穏やかな声で告げた。
「かしこまりました。それでは、若奥様専用の衣装ルームへご案内いたします。」
「え……?」
思わず戸惑うミシェリア。しかし、その驚きを楽しむように、ヴィヴィアンは優雅に微笑む。
"若奥様"という響きに、ミシェリアは一瞬まばたきをし、わずかに頬を紅潮させた。
そうして、メイドに促されるまま、館の奥へと足を踏み入れていくのだった。




